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ハドソン

16世紀末~17世紀初めのイギリス人探検家で、北米大陸沿岸の探検で活躍、ハドソン川、ハドソン湾などの地名にその名を残した。

 ヘンリ=ハドソン Henry Hudson 1550?~1611 はイギリス(イングランド)の航海者、探検家。その前半生はよくわかっていないが、17世紀に活発になった北西航路(北米大陸北岸の北極海を抜けて太平洋に出るルート)の探索に加わり、1607年にはグリーンランド付近、北緯80度に達した。翌1608年には北東航路(ヨーロッパから海路北東にとり、北極海を東進して太平洋、アジアに抜ける航路)の探索にも乗りだし、ロシアのノヴァヤ・ゼムリャに到達した。その経験を買われて、オランダ東インド会社に傭われてアメリカ大陸東海岸に達し、オランダ領ニューデルラント植民地の基を築いた。さらにイギリスの北西航路探索にあたり、1610年にカナダ北岸を探検しハドソン湾地方に達したが、太平洋に出るルートを開拓することは出来ず、1611年に遭難死した。イギリスのカナダ経営に大きな役割を果たしただけでなく、北アメリカ大陸のハドソン川、ハドソン海峡、ハドソン湾などにその名を残している。

オランダ東インド会社に傭われる

 16世紀末、スペインからの実質的な独立を達成したオランダは、アジア方面への進出をめざし、大陸北岸を回って東に抜けるルート(北東航路)の発見をめざした。1594年にバレンツが行った探索はノヴァヤ・ゼムリャ島の東(彼の名から現在、バレンツ海と言われている)まで達したが氷にためにそれ以上東に行くことができず、失敗した。その後も何回か試みられたがいずれも失敗、そこでオランダ東インド会社はイギリス人ヘンリ=ハドソンを傭い、もう一度北東航路の開拓にあたらせた。
北アメリカ東岸に到着 1609年、ハドソンの艦隊はスカンジナビア半島の北端を越えて北極海に入ったが、乗組員は航海の続行を嫌がったため、ハドソンは独断で航路を西に変え、大西洋を西に向かい、アメリカ大陸東岸のニューファンドランド島にたどりついた。そこから南方に進み、細長い島(現在のロングアイランド)と河口の広い川を発見した。これが後にハドソン川と名付けられる。これを契機にアムステルダム商人がこの地に進出、やがてオランダ領ニューネーデルラント植民地となり、オランダはハドソン川河口の島マンハッタン島を24ドル分の装身具で先住民から”購入”して植民地の中心都市、ニューアムステルダムを建設した。これが後にイギリス領ニューヨークとなる。<桜田美津夫『物語オランダの歴史』2017 中央新書 p.135>

イギリス国王の命により北西航路をさぐる

 一方、イギリスは北東航路ではなく、アメリカ大陸の北岸の北極海を西に進んで太平洋に出て、さらに中国と接触できる北西航路の開拓を目指した。イギリス国王ジェイムズ1世は、前年オランダ東インド会社に傭われて北米大陸東岸に達したヘンリ=ハドソンを雇い入れ、彼に北西航路開拓を命じた。この北西航路開拓は、ヘンリ=ハドソンの生涯をかけた事業となった。1610年8月3日、ハドソン湾を発見、彼はこれで太平洋に出ることができると信じたが、出口を発見する個々とが出来ずに越冬し、その途中に部下が反乱して離脱、翌年、彼はその地で死んだ。
(引用)ハドソン川の流域も最初は重要な毛皮産地だったが、ハドソン自身の目的は、毛皮より北西航路の発見にあった。1610年に彼は英国王ジェイムズ1世の援助で、50トンの帆船ディスカヴァリー号を指揮して北西航路をめざしすが、これが悲劇の幕開けだった。ヌーヴェル・フランスよりはるか北に針路をとった彼は、後に彼の名がつけらるるハドソン海峡を抜ける。北米大陸を北からスプーンでえぐり取ったようなハドソン湾に達した一行は、これで大陸の北端をまわりきったと信じ、あとは南下して太平洋に達するだけだと歓喜した。だが海峡から1000キロ南下したハドソン湾南端のジェイムズ湾で、彼らは完全な袋小路にぶつかる。すでに九月に入って冬将軍が近づいており、年内の帰国は、もはや不可能だった。一行はやむなくジェイムズ湾の越冬に入る。想像を絶する寒さのなかで、全員が壊血病による関節痛、内出血、歯の脱落に苦しんだ。・・・ついに越冬にいらだって、一日でも早く帰国したがっていた乗組員は6月17日に反乱を起こし、ハドソンと彼の幼い息子・・・合計九人を救命ボートに移して置き去りにしてしまう。・・・本国にたどり着いた反乱者は、殺人罪で起訴されたが、証拠不十分で釈放された。偉大な探検家を飲み込んだハドソン湾はその後、半世紀の間忘れ去られてしまう。<木村和男『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』 2002 山川出版社 p.37-40>

Episode ハドソン川の奇跡

 2009年1月15日、アメリカのニューヨーク近郊のハドソン川に旅客機(USエアウェイズ1549便)がエンジン・トラブルのために不時着するという事故が起こった。このニューヨーク発シアトル行きの便は離陸直後のことであり、あわや大事故か、と危ぶまれたが、最も衝撃の少ない形で着水し、わずか5分間のあいだいに乗員・乗客の全員が無事に脱出に成功した。機長が沈着に操縦して着水させ、教員も冷静に乗員を避難させたことは大きく称賛された。もし着水に失敗してハドソン川に墜落していたら、厳冬期でもあったため多くの犠牲が出たことが想像される。このできごとは「ハドソン川の奇跡」と言われ、2016年にはクリント=イーストウッドによって映画化された。
 このエピソードは世界史の授業とは直接関係はありませんが、ハドソン川の地名が、この地を探検したヘンリ=ハドソンに由来することは知っておいて良いでしょう。ついでにハドソンはイギリス人だったのに、オランダ東インド会社に傭われてこの地を探検した、だからニューヨークは最初はオランダ領ニューアムステルダムだった、ということを思い出しましょう。
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木村和男
『カヌーとビーヴァーの帝国 カナダの毛皮交易』
2002 山川出版社