ニューヨーク
1664年、オランダの殖民地ニューアムステルダムをイギリスが奪取して改称。第2次英蘭戦争でイギリスは敗れたが、1667年南米スリナムと交換でイギリス領となった。
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オランダ人の入植
1524年、フランス国王にやとわれたイタリア人のヴェラツァーノという探検家が大西洋に出るためのルートを探りに東海岸を探検中、初めてこの島に近づいたが、天候が悪化したため、上陸はしなかった。1609年、イギリスの探検家ヘンリ=ハドソンがオランダ東インド会社に雇われてアジアへの航路をもとめてこの湾に入り、はじめてマンハッタン島に上陸し、先住民と取引し、ナイフやガラス玉と毛皮を交易した。このとき彼がさかのぼって探検した川はハドソン川と名づけられた。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)はハドソンの報告に基づきこの地方をニューネーデルラントと命名し、1621年に西インド会社を設置し、1625年からニューネーデルラント植民地の建設を開始した。オランダ人たちはマンハッタン島の南端に居住地を作り、本国の首都の名を借りてニューアムステルダムと命名した。Epsode 歴史上最大のバーゲン?
ニューネーデルラント植民地の総督としてこの地に来たピーター=ミュイットという人物は、1626年5月6日、先住民と取引し、60ギルダーのナイフ、ガラス玉などで、マンハッタン島を買い取った。60ギルダーは24ドルにあたるので、この「24ドルでマンハッタン島を買った」という話は、歴史上最大のバーゲンなどと言われ、面白おかしく語り継がれた。しかしこれはわけのわからぬ話だ。まず相手のインディアンが何という種族の誰であったかがわからない。当時、島に定住するインディアンはいなかったと考えられ、そもそも彼らに土地の所有権という概念があったとは思えない。60ギルダーが24ドルに相当するという計算も1846年にある歴史家が言い出したことで根拠は不確かだ。このようなばかげた話がいまだに語り継がれているのは、ウォールストリートという金融の中心地のあるニューヨーク市の起源の唯一の物語的興味として作られたからだろう。<亀井俊介『ニューヨーク』2002 岩波新書 p.20-23>ウォール街の起源
しかし、周囲をイギリス植民地に囲まれ、オランダ西インド会社も南米ブラジルとの奴隷貿易などの利益が大きかったので、ニューネーデルラント植民地での農業経営には熱心でなかった。また植民地の住民はオランダに逃れてきたフランスのユグノーといわれる新教徒たちも多く、このオランダ植民地は次第に停滞を余儀なくされていった。また、オランダ総督はインディアンに課税しようとして反発を受け、抵抗したインディアンを殺したので関係が悪化し、その攻撃から守るために1653年、オランダ人居住地の北側に壁(ウォール)を築いた。これが現在、ニューヨーク証券取引所のある一角がウォール街と呼ばれる理由である。英蘭戦争
イギリスはすでに1607年にヴァージニアへの植民を開始しており、その勢力を東海岸全域にひろげようとして、ニューアムステルダムの領有権を主張した。1664年にイギリスの国王チャールズ2世の弟ヨーク公(後のジェームズ2世)の命令で派遣されたフリゲート艦4隻が現れると、抗戦を叫ぶオランダ総督の命令を無視して、町の人びとはすぐに降伏してしまった。オランダはただちにイギリスへの報復として1665年の第2次英蘭戦争(1665~67年)が始まった。この第2次英蘭戦争では、海軍力を増強したオランダ海軍が、名提督デ=ロイテルの活躍もあって、イギリス海軍は手痛い敗北を喫した。一時はテムズ川をさかのぼったオランダ海軍がロンドン港を封鎖するなどの打撃を与えた。
敗れたイギリス、スリナムとニューアムステルダムを交換 その結果、1667年にイギリスとオランダの間でブレダ条約が締結され、敗れたイギリスは南米大陸のイギリス領スリナムをオランダに譲った。オランダはニューネーデルラントの価値を認めていなかったので、そのままイギリス領とすることを認めた。
このように第2次英蘭戦争で勝ったオランダと負けたイギリスとの間でスリナムとニューネーデルラントが交換という形となった。その結果、オランダ領ニューアムステルダムの町は40年足らずでオランダ植民地の時代が終わってイギリス領となり、ヨーク公の名を取ってニューヨークと改名された。
以後、ニューヨークはイギリスの北米における13植民地の一つなった。オランダ入植者に代わってイギリス(イングランド、アイルランド、スコットランドなど)から次々と入植してきた。はじめはヨーク公を領主とする領主植民地であったが、後にその南をニュージャージーに分離し、王領植民地となり、13植民地の一つから独立時には最初の13州の一つ、ニューヨーク州ととなった。
Episode ジャングルとの交換でニューヨーク
オランダは第2次英蘭戦争で勝っていながら、ニューネーデルラントを手放し、それが後のニューヨークとして大発展したので割にあわない交換をしたと思われがちであるが、実は当時は北米大陸のニューネーデルラントは寒冷の地でオランダ入植者が開発が進んでいなかったのに対し、スリナムは熱帯のジャングルが拡がる地域であるが、砂糖プランテーションなどに適しての生産力が高く、さらに大陸の内陸の金鉱などの資源の開拓の可能性を秘めていると考えられ、オランダにとってはこちらの方が価値があると判断したのだった。合衆国最初の首都となる
1789年4月30日の連邦政府発足時にニューヨークは合衆国最初の首都となった。首都は翌年からはフィラデルフィアに移り、現在の首都ワシントン特別区が作られたのは1800年のことである。ニューヨークはアメリカの独立が認められた1783年には、現在のシティ・ホールあたりが市街の北限で、人口は1790年の最初の国勢調査で3万3千ほどだった。10年後の1800年には6万5百とほぼ倍増。1810年には9万6千となってフィラデルフィアを抜いてアメリカ第一位となった。1820年には12万4千となり、人口増に伴い市域はマンハッタン島の北の方にのびていった。沼や湿地の広がる低地を開発するに当たって、現在見るような格子状の都市計画が立てられ、整然とした街路が作られた。アメリカでは南北(タテ)に延びる街路をアヴェニュー(12本ある)、東西(ヨコ)の通りをストリート(155本)という。市街地図を見ると、一本だけ斜めに走っているのが目立つが、それがブロードウェイで、もともとは開拓前、インディアンが使っていた島の南北を結ぶ道の跡だという。<亀井俊介『前掲書』 p.83-84>
移民の増加
アメリカ合衆国への移民は、北欧系から東欧や南欧系に比重が移り、移民の波は商業都市ニューヨークにも押し寄せ、それぞれの居住区を形成していった。ヨーロッパからアメリカを目指した移民ののった船はニューヨーク港に入港した。その移民の国アメリカを象徴するのがニューヨークの「自由の女神」で、アメリカ独立百周年を記念してフランスから寄贈することが計画され、1886年に完成した。黒人居住区とチャイナタウン
また南北戦争後の奴隷解放に伴って自由となった黒人が北部への移住を開始、その多くがニューヨークに移り住んだ。しかし、移民や黒人は経済的には貧しく、各地にスラム街が生まれていった。黒人は次第に市の北部(アップタウン)のハーレムに住むようになり、独特の黒人文化を形成するとともに、麻薬や売春などの犯罪組織の温床ともなっていった。中国人も大陸横断鉄道が1869年に完成して仕事がなくなったため、70年代にニューヨークにチャイナ・タウンと言われる居住区を作った。移民の増加は白人の雇用を脅かすようになったことから、次第に移民排斥の動きが現れ、特に1882年には中国人移民排斥法が作られたため、中国人人口は抑えられた。第二次世界大戦後、移民制限はなくなったので、中国系人口はさらに増大している。<亀井俊介『前掲書』 p.58>参考 マルコムXが語るハーレムの歴史
1943年の春、18歳の黒人少年マルコム=リトル(後にマルコムXを名乗る)は、ハーレムのバーのウェイターの就職口を得て、働き始めた。そのときマルコムが知ったハーレムの歴史は次のようなものだった。ニューヨークの黒人街として知られるハーレムの来歴を物語っているので、かれの自伝から、やゝ長いが書き取っておこう。(引用)ハーレムがずっと昔から黒人の地域社会でなかったということは、私にとっては最大の驚きの一つだった。
ハーレムは最初、オランダの居留地だったということを私は知った。それから、貧しく、なかば飢え、ぼろ着のヨーロッパからの移民がどっと何度も押し寄せてくるようになった。彼らはこの世で所有している一切合切をバッグや袋につめこんだり、背中にしょってやってきた。まずドイツ人がやってきた。するとオランダ人がそれを嫌がってしだいにいなくなり、ハーレムはドイツ一色になった。
それからアイルランド人が来た。ジャガイモの飢饉から逃げ出して来たのだ。ドイツ人はアイルランド人を軽蔑して逃げてしまい、アイルランド人がハーレムを受け継いだ。次はイタリア人だった。同じことが起こり、アイルランド人は彼らから逃げ出した。ユダヤ人が船のタラップから降りてきたときは、ハーレムはイタリア人のものだったが、やがてイタリア人も去って行った。
今では、これらすべての移民の子孫たちは、移民船の荷おろしを手伝っていた黒人の子孫たちからなんとしてでも逃げようとしている。
ハーレムの先輩住人たちが、この椅子取りゲームはまだつづいているといったとき、私はたじろいだ。黒人は1683年からニューヨークに来ていて、ヨーロッパ移民がだれも来ない前から、いたるところに居住していたのだ。黒人は、最初はウォール街のあたりにいたが、やがてグリニッジ・ヴィレッジへと押しやられた。次に押しこまれたのはペンシルヴェニア駅あたりだった。そしてそれからハーレムに落ち着く以前の最後の黒人居住区になったのは、五十二丁目あたりだった。そのため五十二丁目がスィング通りと呼ばれ、黒人がいなくなってからも、ずっとあとまでその名は聞こえていたのである。
1910年に、ある黒人の不動産屋が黒人の二、三家族を、どういうふうにしてかはっきりしないが、このユダヤ・ハーレムの、あるアパートに住まわせた。ユダヤ人がそのアパートから逃げだし、やがてそのブロックから逃げだし、あいたアパートを埋めるように、さらに黒人が流れこんだ。すると全部のブロックからユダヤ人が逃げ去り、さらにまた多くの黒人が北へと移動してきて、あっという間にハーレムは今日のような状況――実質的には黒一色――になった。
それから1920年代初頭、音楽や娯楽が産業としてハーレムに起こった。これがダウンタウンの白人の人気を得て、白人たちは毎晩アップタウンに殺到した。ルイ・“サッチモ”・アームストロングという名のニューオリンズ出身のコルネット奏者が、警官のドタ靴をはいて列車からニューヨークに降り立ち、フレッチャー・ヘンダースンと演奏をはじめたころから、こういう状況になったのだ。1925年、スモールズ・パラダイス(引用者注、マルコムが勤めたバー)が開店し、七番街は人で埋めつくされた。1926年には、デューク・エリントン楽団が5年にわたって演奏した、かの「コットン・クラブ」が開店した。同じく1926年に「サヴォイ・ボールルーム」が開場した。正面はレノックス街に面した1ブロック全部を占領し、スポットライトの下には60メートルのダンス・フロアがあり、そのうしろに二つの楽団用ステージと、移動式の後部ステージがあった。
ハーレムの名所としてのイメージがひろまり、ついには夜ごと世界中から白人が群らがるようになった。観光バスがやってきた。「コットン・クラブ」は白人専用となり、地下のもぐり酒場にいたるまで何百ものクラブがひしめきあって、白人から金をまきあげるのだった。(中略)
1929年の株式市場の大暴落で、そうしたすべてが終わりを告げると、ハーレムは「アメリカのカスバ」として世界的な評判を得るようになった。スモールズもそのなかに入っていた。私はそこで、古顔たちが偉大な時代の懐旧談にふけるのを聞いた。<マルコムX/濱本武雄訳『完訳マルコムX自伝』2002 中公文庫 p.159-162>
エンパイア・ステイト・ビル
・ニューヨークの高層ビルの代表格、エンパイア・ステイト・ビルは、火薬製造で知られるデュポン家のピエール・S・デュポンらが中心となって世界最高の摩天楼をめざし、1929年に建設のための会社を設立した。ところがその直後の10月24日、ウォール街で株式の大暴落し世界恐慌が始まった。建築は予定通り1930年4月1日に着工され、建築スピードの世界一更新を目指して進められ、わずか1年と45日後に、百二階、381mというビルが完成した。竣工式は31年5月1日に行われた。しかし、経済恐慌が進行しており、ビルは長い間ほぼ半分が空き室で、エンプティ・ステイト・ビルと呼ばれる有様だった。にもかかわらずアメリカ文明、ニューヨークの象徴として人気を博し、1933年には映画キングコングの舞台となって世界中に知られるようになった。Episode 世界貿易センターだけではなかった
2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センターの崩壊に世界中が驚愕した。ところが、あまり知られていないが、エンパイア・ステイト・ビルにも飛行機が衝突するという事故が起こっていた。第二次世界大戦終結間近の1945年7月28日、午前9時49分、B25爆撃機(当時としては巨大な飛行機だ)が、霧の中で進路を誤り、79階に頭から突っ込んだ。衝撃で両翼はとび散り、エンジンと胴体は壁面に横5メートル半、縦6メートルの穴があいた。ガソリンタンクが爆発し、展望台まで火炎が上がった。この衝突で乗組員を含めて14名の死者、タスの負傷者が生じた。しかし、世界貿易センタービルが二棟とも崩れ落ちたのに対して、衝突部分の鉄骨がさらされたものの、建物にはたいした被害がなく、ビル内で働く人たちも、多くは事故に気付かなかったという。それにしてもエンパイア・ステイト・ビルの頑丈さには驚くが、逆に貿易センタービルの脆さが際立つ。このビルは、オフィススペースをできるだけ広くとるため、建物を支える鉄柱は外壁に沿って立てられているだけだったところに、熱で鉄柱が溶けて崩れてしまったらしい。<亀井俊介『ニューヨーク』2002 岩波新書 p.44,p.157>