中間航路
大西洋の三角貿易で、黒人奴隷がアフリカから新大陸・西インド諸島までの航路を言う。17~18世紀、イギリスなどによって奴隷貿易が行われ、過酷な状態での航海により、途中で多くの奴隷が命を落とうなど、悲惨な状態であった。次第に奴隷貿易に対する批判が強まり、19世紀前半には行われなくなった。
(引用)“中間航路”こそは人類史上例を見ない、凄惨きわまる奴隷航海のことであった。時期によって相違はあるが、航海中の死亡率は8%から25%、平均的には船上の捕虜6人に一人が死んだと言われている。奴隷船の大きさは100ないし200トンで、船に積み込まれる前は男女とも頭を剃られ、所有者か会社のブランドが身体に焼き付けられた。足首には鎖を付けられたほか、全裸で、船のトン当たり1~2名が船倉にぎっしりと詰め込まれた。食事は朝夕の二回、少量の水がときどき与えられたほか、一日に二回程度は甲板に出て外気をすうことが許された。船内は不潔そのもので、汚物と臭気が充満し、マラリア、天然痘、赤痢などの病気が襲うこともよくあった。そんな場合、死者だけではなく、病気にかかった者までが生きたまま海に投げ捨てられたために、奴隷船の後をサメの大群が追いかけたという。<『新書アフリカ史』講談社現代新書 宮本正興筆 p.260-261>
Episode メリメの描いた奴隷船の反乱『タマンゴ』
中間航路ではしばしば黒人奴隷が反乱を起こし、船を奪うことがあった。奴隷商人にとっても危険な航海だったわけだが、船を奪った黒人たちには、さらに過酷な運命が待っていた。船を操縦するすべを知らない彼らは大洋をさまよい、最後は飢えのために死ななければならないからだ。そのような中間航路でのドラマを描いた小説に、『カルメン』で知られるフランスの作家メリメが1829年に発表した「タマンゴ」がある。これはフランスのナントの奴隷商人がセネガルから西インドのフランス領マルティニークに黒人奴隷を運ぶ船を乗っ取った黒人タマンゴの数奇な物語である。小説家であり、歴史家でもあったメリメが「中間航路」の実態を告発した短編小説なので、一読をお勧めする。<メリメ/杉捷夫訳『エトルリアの壺―他五編』所収 1928 岩波文庫>Episode ターナーが描いた『奴隷船』
イギリスの画家ターナー(1775-1851)の代表作のひとつに「奴隷船」として知られている作品がある。「これまで人間が描き出した最も高貴な海」とラスキン(イギリスの文明批評家)が評した作品で、1840年のロイヤル・アカデミー展に「死者や重病患者を海中投棄する奴隷商人―台風の襲来」と題されて出品された。当時はすでに黒人奴隷貿易は禁止され、黒人奴隷制度もイギリスでは否定されていたが、奴隷貿易に対する意識は強く残っており、特に奴隷船では航海中に奴隷が死亡すればそれは「商品」の損失として保険の対象となっていたことを悪用して台風に襲われたときに重病人を海に投棄していた、という話を聞いていたターナーが怒りを感じて描いたものだった。一見、荒れ狂う海に翻弄される帆船と雲間から無常に海面を照らす太陽だけを描いたように見えるが、画面下方を見ると波間から鎖につながれた手足が突き出ている。奴隷船の惨状を真っ向から描かず、多彩な色彩の中に恐ろしい現実を垣間見せる作品となっている。<朝日新聞 2020/7/7 夕刊 美の季想 高梨秀爾の解説文より>奴隷貿易船船長の証言
中間航路の黒人奴隷貿易の実態の証言に、賛美歌の一つアメイジング・グレイスの作詞者として知られるジョン=ニュートン(1725~1807)の残した記録がある。彼は若いころ、1746年からアフリカの黒人奴隷貿易に従事し、1750年から55年にかけては奴隷貿易船の船長として、西アフリカ・ギアナ湾のシエラレオネと西インド諸島のアンティグアを結ぶ、いわゆる中間航路を3回往復した経験を持つ。彼はその後、非人道的な奴隷貿易に従事したことを悔い、信仰の道に入ってイギリス国教会牧師となった。後に下院議員ウィルバーフォースと知り合い、その奴隷貿易禁止運動に加わり、1788年に『アフリカ奴隷貿易についての考察』を発表し、自分の体験に基づいて奴隷貿易を告発した。その証言は、アフリカの黒人の状態、奴隷の供給源、航海中の状況、西インド諸島での黒人奴隷など多岐にわたるが、ここでは中間航路の黒人奴隷の状態だけを引用する。(引用)通常、奴隷の積み荷の3分の2は男性です。祖国から無理やり引き離された150人あるいは200人の屈強な男たち――その多くがそれまで船はおろか海も一度も見たことのない者たちです――は、乗船するまでは猫の額のようなわずかばかりの土地を耕していたのです。そして彼らは、おそらく私たちが黒人に対して抱いているのと同じ、当然の偏見を白人に対してももっておりますし、しばしば自分たちは食べられるために連れてこられたという不安を拭い去ることができないのです。……そして、彼らの数が、多分10人から15人を超えないうちに、全員が手かせ足かせをはめられ、ほとんどの船では、二人一組でつながれます。しかし、この場合には立ったり動いたりすることがかなり容易なこともあるので、これとは異なるつながれた方がなされることも多くあります。すなわち、一人の奴隷の右手と右足を相手の奴隷の左手と左足に横断して、つまり右左は問わず、同じ側で相互の手足に一緒にかせがはめられるのです。ですから、非常に慎重に、しかも相互の動きが完全に一致しなければ、手も足も動かすことができません。このようにして、彼らは病気でない限りは、この過酷な状況が少しも緩和されずに、何ヶ月も、座り、歩き、横にならなければなりません。・・・<ジョン・ニュートン/中澤幸夫編訳『アメイジング・グレース物語』彩流社 p.240-241>
19世紀の中間航路
19世紀に入るとイギリスではウィルバーフォースらの運動で1807年に奴隷貿易が禁止され、またアメリカもジェファソン大統領の1808年に奴隷貿易の禁止に踏み切った。しかし、奴隷制度そのものはまだ廃止されていなかったので、アフリカ西岸では奴隷狩りがおこなわれ、大西洋に奴隷の密輸船が横行していた。密貿易船は監視船の目を盗んで少ない機会にできるだけたくさんの奴隷を詰め込んだので、以前の中間航路の奴隷輸送船よりもさらに状況が悪くなり、船室に詰め込まれた奴隷たちは排泄もその場でしなければならなかったので船内は悪臭に満ち、奴隷密貿易船の風下の船さえ、その耐え難い臭いから逃れようとしたという。アメリカ国内では、北部で黒人奴隷制度の廃止を求める運動が強まる一方、南部では綿花の需要増大を背景にますます黒人奴隷への依存度が強くなり、国論が二分されて対立が深刻になっていた。そんな折、1839年にアミスタッド号事件が起きた。スペインの奴隷密貿易船で反乱を起こした黒人奴隷の乗ったアミスタッド号が北米に漂着したことから裁判となり、全米で改めて中間航路の悲惨さと、奴隷密貿易の実態が知らせる事件となった。
Epispde アミスタッド号の反乱
1839年、アメリカのロングアイランド沖合で、一隻の漂流船が海軍に保護された。乗っていたのは数十人の黒人と、数名の白人。船を支配していたのはシンケと言われたリーダーに率いられた黒人だった。彼らはアフリカの西海岸で捕らえられキューバに送られ、さらにスペインの奴隷貿易船アミスタッド号でプリンシペ島に送られる途中で反乱を起こして船を乗っ取り、白人の船員を脅して故郷に戻ろうとしたが、船員が欺してアメリカ沿岸に船を航行させてきたのだった。言葉も分からないまま、再び鎖につながれた黒人たちは牢につながれる。このアミスタッド号の黒人の処遇を巡って裁判となり、当時アメリカでは黒人奴隷制を巡って激しく議論されていたときだったので、にわかに裁判は注目を浴びることとなった。スペインの船主は黒人たちはキューバで生まれ、正当な手続きで売買された奴隷であり、船長を殺害した犯罪者であるからその首謀者は処罰し、残りは持主の“財産”として返還することを主張した。若い弁護士ボールドウィンは必死にリーダーのシンケと言葉を通じ合わせようと努力し、同じ地域出身の解放奴隷を捜し出して彼らから事情を聞き出すことに成功する。そして明らかになったことは、彼らがアフリカから当時すでに禁じられていた奴隷貿易によって連れてこられたことだった。地方下級審ではスペイン人船主の請求は退けられたが、国内の奴隷制賛成勢力の圧力で大統領ヴァン=ビューレンは最高裁に上告する。この裁判制度を理解できないシンケたちは絶望し、怒り狂う。最高裁では弁護団に前大統領クィンシー=アダムズが特別に加わって人道と正義を説き、ボールドウィンもアミスタッド号の実態を明らかにし、シンケたちの自由を主張した。大統領選挙を控えていたヴァン=ビューレンは、この問題を争点にしたくなかったので、判事に圧力をかける。しかし、大統領が任命した判事は意外にも・・・・。
この実際にあった事件と裁判を克明に再現したのがスピルバーク監督の映画『アミスタッド』(1997)だった。アカデミー賞の4部門にノミネートされた力作であるが、スピルバーク作品では珍しく日本では評判にならなかった。黒人奴隷反乱というあまりに暗く、重たい話題が日本の観客には敬遠されたらしい。しかし、どぎつすぎるともとれる奴隷船での反乱の描写は、息をのむ。南北戦争前夜のアメリカの政治的対立という背景も知ることができるので、ぜひ見て欲しい映画である。主演はシンケにジャイモン・ハンスゥ、弁護士にマシュー・マコノヒー、奴隷解放運動家にモーガン・フリーマン、そして前大統領のクィンシー・アダムズにアンソニー・ホプキンス、現大統領ヴァン=ビューレンにナイジェル・ホーソーン。
なお、ウォルター=ディーン=マイヤーズという黒人作家が青少年向けに書いた『自由をわれらに―アミスタッド号事件』では、シンケの本名はセンベだったとして、彼が奴隷狩りにあった状況、さらに反乱を起こした経緯が語られている。またスピルバーグの映画では黒人たちはすぐにアフリカに帰ったように描かれていたが、実際にはそう簡単だったわけではないことと、アフリカに帰ってからの彼らの行く末にもふれられているので一読を勧める。<ウォルター=ディーン=マイヤーズ/金原瑞人訳『自由をわれらに―アミスタッド号事件』1998 小峰書店>
参考 黒人歴史家の警句
黒人奴隷貿易における「中間航路」について、アフリカから西インド諸島に連れ去られた当の黒人奴隷の子孫であるトリニダード・トバゴの政治家であり、歴史家であったエリック・ウィリアムズは、次のような指摘をしている。(引用)中間航路の「恐怖」は、誇張されている。これについては、イギリスの奴隷貿易廃止論者の責任が大きい。奴隷貿易廃止論者たちがいやがうえにも積み上げた非難の山には、どことなく無知あるいは偽善ないしその両方の臭いがまつわりついている。そのころまでにはすでに、問題の航路はイギリスにとっての死活問題ではなくなり、利益も減少していた。ある西インド諸島のプランターが、議会にたいしてこう指摘したことがある。奴隷貿易のあがりを頂戴してきた国の議員選良が、その奴隷貿易に犯罪という烙印を押せた義理ではあるまいと。年季契約奉公人の大量死亡を見過ごしてきた時代に、奴隷の大量死亡だけ神経質になる理由はなかった。プランテーションにおける奴隷の搾取と、封建農奴の搾取またはヨーロッパの都市における貧民層にたいする仕打ちとが、本質的に異なっているとする理由はなかった。<エリック・ウィリアムズ/中山毅訳『資本主義と奴隷制』1944初刊 訳本1968初刊 ちくま学芸文庫版2020刊 p.63>E.ウィリアムズは、中間航路と同じような悲劇は白人年季奉公人を新大陸に送る船でも見られたと指摘する。“黒人だから”粗末に扱われた、と私たちが無意識に思ってしまうことを鋭く批判しているのだ。反乱や自殺は奴隷船の方が他種船舶よりも多かったのはあきらかであるが、こうした高死亡率は奴隷船に限ったわけではなかった。その理由は(人種によるのではなく)、第一に流行病の蔓延があったこと、第二に利益重視で積み過ぎの慣行があったことだ、とウィリアムズはいう。以下、同書でも積み込み過剰な奴隷船が、危険な航海であった状況が詳しく述べられている。にもかかわらず奴隷貿易が「発展」したのは、その高利潤率という経済的要因がすべてである、といっている。