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プランテーション

入植者が現地人・奴隷を労働力として単一作物を栽培する大農園。アジア、アメリカ南部、ラテンアメリカでの砂糖、ゴム、タバコ、茶、コーヒー、綿花などが商品作物として単作(モノカルチャー)が強制された。

 プランテーションとは、一般に、熱帯・亜熱帯地域の植民地で、白人の入植者が、現地人または黒人奴隷を労働力として、砂糖・タバコ・茶・コーヒー・ゴムなどの単一の商品作物を栽培する大農園、とされる。世界史上では、16世紀のポルトガルによるブラジルの砂糖に特化した砂糖プランテーションに始まるとされる。
 しだいに中南米諸地域での、タバココーヒーなどの生産を行う、オランダ、フランス、イギリスなどの植民地でも用いられるようになった。イギリス植民となったインドとセイロンでは茶が本国向けの嗜好品として栽培され、デカン高原ではイギリスの綿工場向けの綿花の栽培が現地農民を労働力として行われた。東南アジアでマレー半島でのゴムのプランテーション、ジャワ島におけるオランダの強制栽培制度によるコーヒー、サトウキビ、藍などのプランテーションが重要である。
 北アメリカの南部における綿花プランテーションは、アメリカの独立を支える産業となった。しかし、この奴隷制プランテーションでは、黒人奴隷を使役するため、人道的な問題が生じるようになり、自由主義、人権思想の発展とともに衰退し、プランテーションも奴隷労働力ではなく、現地人を安価な労賃で雇って労働力とする方式に変化していく。現在では外国資本が、低開発地域で現地の労働力を使って資本主義的経営を行う大農園をプランテーションと言っている。

綿花プランテーション

アメリカ南部の産業基盤。アメリカ政府がインディアンを駆逐して得た南西部の平原に入植した白人開拓者が、黒人奴隷労働によって維持された。南北戦争後も黒人をシェアクロッパーとする綿花プランテーションが続いた。

 アメリカの南部の中心産業は、綿花栽培の大農園であった。本来プランテーションは、植民地に入植したヨーロッパの白人が、現地人を安価な賃金で労働力として雇用し、輸出用の商品作物を大規模に生産する大農園のことであるが、この時期のアメリカ南部の綿花農園における、黒人奴隷労働による経営もプランテーションと言われる。なお、18世紀末にホイットニーの綿繰機が発明されて、綿花栽培が盛んになってからは、綿花プランテーションが圧倒的に多くなり「綿花王国」が形成されたが、それ以外にも、藍、米、たばこなどのプランテーションも地域のよっては大規模に経営されていた。

先住民インディアンの排除

 19世紀にはいると米英戦争(1812年戦争)でアメリカ産業がイギリス依存から脱して独自の工業化が始まり、ジャクソン大統領の時代の1830年にインディアン強制移住法が出されてインディアンが排除されたジョージア・アラバマに入植した白人開拓者によって、広大な綿花プランテーションが創られていった。

黒人奴隷労働

 このようなアメリカの南西部に綿花プランテーションが拡がったことによって労働力が不足し、黒人奴隷制に依存する割合が急速に高まった。特に南部のプランター(プランテーション経営者)は黒人奴隷労働が不可欠であったので、黒人奴隷制を維持し、また生産された綿花は東部の綿工業の原料となっただけでなく、イギリスなどに輸出されていたので、貿易を制限する保護貿易には反対し、自由貿易を主張した。もともと自立心も強かったプランターはアメリカ合衆国連邦政府による統制の強化には反対であったので、次第に北部の連邦主義、保護貿易主義、奴隷制廃止に対して反発、この対立が南北戦争へとつながっていく。 → 奴隷州
(引用)南部プランテーションでは、肥料の多用や輪作など手間のかかる土壌保全に努め、同じ場所で継続的に綿花などの商品作物を栽培する、という手法を採ることは稀であった。そのかわりに、ある畑の栄養分を使い果たすと、新しい土地に移動して綿花栽培を行い、その土地の地力が落ちると、また別な土地に移っていくということが一般的だった。このときに必要だったのが、奴隷の労働力である。南部プランターにとっては、西部への拡大ができるか否か、その地に奴隷制度を持ち込めるか否かは、まさに死活問題だったのである。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.30>
 このアメリカ南部の綿花プランテーションの、南北戦争前後の攻防を描いた大河小説、映画が『風と共に去りぬ』である。 

南北戦争後の綿花プランテーション

 南北戦争中の1863年1月1日に奴隷解放宣言が出され、1865年12月の憲法修正第13条発効によって、黒人奴隷制が廃止された。これによって黒人は解放され、彼らは自由となったことによって綿花プランテーションから離れた。南北戦争の混乱と、黒人奴隷制度の廃止によってアメリカ南部の綿花プランテーションは打撃を受け、その世界市場も失われた。
シェアクロッパー しかし、解放された黒人には自立する生活基盤が与えられなかったため、その多くは再び綿花プランテーションに戻ってきた。白人プランターは世界市場を回復するため綿花の増産を図ったが、かつてのような奴隷労働力には依存できない。そこで考え出されたのが、白人プランターが土地と農具、家畜、種子などを黒人に貸し与え、黒人は生産した綿花から3分の1から2分の1などで折半して地代とし、さらに利息付きで賃料を払うというシェアクロッパー(分益小作人)とするというシステムだった。
 このシェアクロッパー制度は1880年代から南部一帯に急速に広がり、20世紀前半まで続いた。それによって黒人は事実上、綿花プランテーションに縛り付けられ、借金返済のために働くという債務奴隷化し、構造的な貧困の状況が続いた。また、商品作物としての綿花の単作(モノカルチャー)が復活したため、南部の黒人農民の食料自給率は低下し、食料を購入しなければならなかったため、その困窮が続いた一因ともなった。
 このような状況から抜け出し、憲法で保障された自由と平等を実現することをめざす黒人の新たな解放運動も始まったが、南部諸州では南部の再建期が終わると、さまざまな黒人取締法(ブラックコード)が制定され、黒人差別が横行し、黒人運動に対する暴力的な弾圧も行われるようになった。
綿花単作農業制度 南部綿花プランテーションでの黒人シェアクロッパーによる綿花の単作制度は、南部の構造的貧困の要因としても問題を含んでいた。20世紀世紀前半に、アメリカでの黒人差別にするどい抗議を行い、黒人解放運動を指導したデュボイスは、1903年に発表した『黒人の魂』でシェアクロッパー制度と結びついた綿花単作農業制度について、次のように告発している。
(引用)この(シェアクロッパーの)システムから生まれる直接の結果は、綿花単作農業制度であり、絶えまのない小作人の破産である。黒人地帯における通貨は、綿花である。綿花は、すぐにでも金になる、いつでも売却しうる作物である。しかも、その年の物価に大きな変動が起っても、まず普通なら影響を蒙ることはないし、黒人たちが栽培方法を知っている作物なのである。それゆえに、地主たちは地代を綿花で支払ってもらうことを要求するのであり、商人たちは、綿花以外の作物を抵当として受け付けようとはしないのである。だから、黒人小作人に向かって、綿花以外の作物をつくってみるよう求めても、むだだ。――この制度の下ではそれは出来ない相談である。おまけに、この制度は、小作人を破産させるようになっている。<デュボイス/木島始他訳『黒人のたましい』1992 岩波文庫 p.204>