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ジェファソン

アメリカ合衆国『独立宣言』の起草者。初代国務長官としては反連邦主義の中心人物となる。連邦主義には反対し、反連邦派をひきいリパブリカン党を結成、1801年からは第3代大統領を務め、ルイジアナの買収など、合衆国の拡張に努めた。

ジェファソン
Thomas Jefferson
1743-1826
 トマス=ジェファソンはアメリカ独立戦争期の指導者の一人で、ヴァージニアのプランター経営主であった。弁護士から議員となり、1775年に大陸会議に参加し、雄弁と名文で知られるようになり、独立宣言を起草した。ワシントン大統領のもとで初代の国務長官(現在の日本では外務大臣に相当する)となり、フェデラリスト党に対抗してリパブリカン党を結成、1800年12月の大統領選挙でフェデラリスト党を破り、翌1801年3月に第3代大統領に就任した。在任中にはルイジアナの買収など、合衆国の拡張に努めた。 → 第3代の大統領としてのジェファソン

独立宣言の起草

 当時33歳のジェファソンは大陸会議で独立宣言の起草委員に選ばれ、その作成にあたった。わずか2週間で草案を仕上げ、他の起草委員のフランクリンとアダムズが目を通し、大陸会議で修正された後、成立した。その後ヴァージニアに戻ったジェファソンは、ヴァージニア議会で活動し、信仰の自由などを実現するなどの改革を行い、1779年にはヴァージニア知事となり、この間の体験をもとに、『ヴァージニア覚え書』を1785年に発表している。1783年から再びヴァージニア州代表として中央政界で活動するようになり、共和政の確立に尽力し、また西方への植民計画を立案した。また翌年からはフランクリンに次いで駐フランス大使となってパリに滞在した。

Episode 33歳の名文家

 1776年6月、大陸会議はジェファソン、ジョン=アダムズ、フランクリンを含む5名を独立宣言の起草委員に選んだ。本来ならフランクリンが第一稿を書くのが当然だったが、当時彼は病床にあった。ジェファソンはすでに名文家として知られていたが、わずか33歳に過ぎなかったので、先輩のアダムズが引き受けるべきだと述べた。アダムズはそれを断り、この仕事はヴァージニア人が先頭に立つべきで、ジェファソンは私より人気があり、10倍も文章がうまいといってその仕事をジェファソンに譲った。ジェファソンは「なるほど、貴方が心を決めてしまったのなら、私はできるかぎりやりますよ。」とこたえ、6月11日から自分の下宿に籠もり、原案を書き上げた。6月28日、大陸会議はジェファソンの原文を詳細に検討し、削除、修正を加え、7月4日に完成した宣言に署名した。<ロデリック=ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』上 トマス=ジェファソン p.117>

反連邦主義の中心人物

 アメリカ合衆国が発足し、1789年ワシントンが初代大統領になると、請われて初代の国務長官となり、政府の中枢に入った。ワシントン政権のもとで、財務長官ハミルトンやアダムスらの連邦政府の権限強大を主張するフェデラリストに対し、連邦政府の権限強化には反対してアンチ=フェデラリストと言われるようになった。ジェファソンらは1791年にリパブリカン党という政党を結成し、アメリカの政党政治を本格化させた。一方のフェデラリスト党とのあいだで、新国家アメリカがいかにあるべきか、論争を展開した。

ジェファソンと黒人奴隷制

 ジェファソン自身はヴァージニアの大農園主で奴隷を所有していたが、奴隷貿易には反対し、黒人奴隷制度は徐々に消滅させていくことを主張していた。自ら起草した独立宣言の原案にも、国際的な奴隷貿易を非難する一文を入れていたが、その部分は議論の過程で削除された。独立後も彼はアメリカの黒人奴隷制問題に発言を続け、奴隷貿易の禁止を実現させ、奴隷制度の拡張には反対したが、彼自身が南部人であり奴隷所有者であることとの矛盾は覆い隠せなかった。
(引用)もし奴隷貿易と奴隷制度拡張が悪ならば、奴隷制度そのものはどうなのか?この疑問に対して、自由と自然権の哲人としてのジェファーソンが出した答えは、南部人で、約200人の奴隷所有者としてのジェファーソンが出した答えとはおのずと違っていた。後者の見解が優位を占めたが、それはますます多くの正反対の証拠にもかかわらず、ジェファーソンが黒人生来の劣等性の神話を念入りに創造し、主張した結果に過ぎなかった。すなわちすべての人は平等につくられているが、黒人は一人前の人ではないというわけである。トマス=ジェファーソンが自分の相反する二つの信念を和解させるには、このようなみすぼらしい論理に頼る以外に道はなかった。<ロデリック=ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』上 トマス=ジェファソン p.152-153>

Episode 黒人奴隷との愛人関係

 ジェファソンは1772年、28歳の時に23歳の未亡人マーサと結婚したが、10年後に亡くし、ショックを受けてもう二度と結婚しないと決心した。しかし女性との関係はなかなか華やかで、フランス公使をしていた1786年、43歳のジェファソンは27歳の人妻マリア=コズウェーと恋愛関係になり、二人で散歩中に調子に乗って柵を跳び越えようとして右手をくじき、マヒが残った。
(引用)また、自分の奴隷だった30歳も年下のサリー・ヘミングス(4分の1が黒人の血)とは、38年間も愛人関係が続き、子供が数人できたといわれています。そのうちの一人は、DNA鑑定でジェファーソンの子であると確認されました。奴隷制に反対していたジェファーソンですが、サリーを奴隷のまま愛人にしていたわけで、公的な信念とは矛盾した私生活でした。もっとも、こうした関係は当時の南部ではそれほど珍しくなかったといわれています。<明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』2012 岩波ジュニア新書 p.38>

フランス革命を巡り国務長官辞任

 フェデラリスト党とリパブリカン党は、外交問題でも対立した。当時ヨーロッパではフランス革命が進行し、1793年にはルイ16世が処刑され、イギリスは対仏大同盟(第1回)を結成してジャコバン政権を倒そうとしていた。フェデラリスト党の財務長官ハミルトンは通商関係の上でも、秩序を重視するその主張からもイギリスを支持し、リパブリカン党の国務長官ジェファソンは自由の価値を擁護するその思想的立場と、独立戦争へのフランスの支援を忘れなかったためフランスを応援した。フェデラリストはジェファソンらを「ジャコバン派」と呼んでさかんに攻撃し、ワシントン大統領はその間にあって苦慮したが、結局ハミルトンを支持した。そのためジェファソンは国務長官を辞任せざるを得なくなり、1793年末、辞任した。

副大統領となる

 1796年の選挙はフェデラリスト党のアダムズに対抗して大統領選挙に出馬した。大統領にはアダムズが当選し、当時の奇妙なアメリカ大統領選挙制度では得票第二位のものが副大統領になる決まりだったので、ジェファソンは副大統領となった。正副大統領が別な政党に属することになるこの制度は、1804年のアメリカ合衆国憲法修正第12条で改められた。

ジェファソン(第3代大統領) 1800年の革命

19世紀初頭のアメリカ合衆国第3代大統領。1800年の大統領選挙で当選しフェデラリストに代わって政権を握り、民主主義政治の実現を図った。しかし1803年のルイジアナ買収など、現実的な拡大路線に転換した。

 ジェファソンはワシントン大統領の下で、初代の国務長官を務め、反連邦派(アンチ・フェデラリスト)の主要人物としてハミルトンなどのフェデラリストの連邦政府強化政策には一貫して反対していた。1791年、フェデラリストに対抗してリパブリカン党を結成し、1800年の大統領選挙に出馬して当選、第3代大統領となった。在任は1801~09年。 → アメリカ合衆国の成立

1800年の大統領選挙

 1799年にワシントンが死去したため、その影響力が及ばず、党派間の紳士的慎みもなくなり、フェデラリスト党リパブリカン党は公然と相手を攻撃しあうようになった。1800年12月の大統領選挙は、政党間の激しい運動を伴う最初の選挙となり、現職の大統領と副大統領の争いとなった。ジェファソンは選挙人73人を獲得し、アダムズの65人を上回った。ところがリパブリカン党から立候補していたアーロン=バーも73人を獲得していた。リパブリカン党はジェファソンを正大統領、バーを副大統領とすることになっていたが、バーは強気で譲らず憲法の規定に沿って史上初の下院での決選投票となった。下院での投票は1801年2月に行われたが一回で決着がつかず、なんと計36回も行われ、最終的にはジェファソンが10州の支持を得、4州にとどまったバーを振り切った。
アーロン=バーとの確執 下院投票で敗れたアーロン=バーはジェファソン大統領の副大統領となったが、野心の虜となり、任期の半ばでリパブリカン党から離れ、フェデラリスト党に接近した。ところがフェデラリスト党の主導権をめぐってか、ハミルトンと衝突し、1804年7月11日、ハドソン川西岸で決闘となった。ハミルトンが先に発砲したといわれるが、的を外し、つづけてバーは落ち着き払って相手の生命を奪った。つぎにバーはミシシッピ流域でジェファソン政府に反乱を起こそうとスペインとイギリスを巻き込んで計画を立てたが、1806年に露見し、ジェファソンはバーを反逆罪で逮捕した。しかし裁判では判事がバーに無罪の判決を下し、ジェファソンは深く心を痛めたが国民の多くは彼を支持し、バーは私刑寸前の憂き目にあわされた。<ロデリック=ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』上 トマス=ジェファソン p.147-148>

1800年の革命

 選挙によってフェデラリスト政権から反フェデラリスト政権(リパブリカン党)に交代したことは、ジェファソン自身が「1800年の革命」といったほど重要なことであった。ジェファソンは就任式で新しい首都ワシントン(ジェファソンがワシントンで就任式を行った最初の大統領となった)の議会に歩いて登院するという庶民的な行動で大衆の支持を受けた。就任演説では、文官の武官に対する優位、少数意見の尊重、信仰の自由、言論出版の自由など、民主主義の原則を打ち出した。
ジェファソニアン・デモクラシー このような民主主義の高まりを「ジェファソニアン・デモクラシー」という。また連邦政府の権限の強化、巨大化には反対していたので、「連邦政府は国防と外交を、それ以外は州政府で」という「小さな政府」を実現しようとした。大統領任期の最後の1808年には、予定されていたとおり黒人奴隷貿易を禁止する措置を決定した(ただし奴隷制度そのものは残っている)。外交においても、当時のヨーロッパのナポレオン戦争で激しく対立していたイギリス・フランスに対しては中立を守った。 → アメリカの外交政策

現実路線への転換

 ジェファソンはフェデラリスト党がつくろうとした強力な中央政府には反対していた。しかし、ジェファーソンとリパブリカン党は、いったん自分たちが権力を握ると、彼らにとっても強力な国家は魅力的に見えたのか、フェデラリスト党の政策や制度を否定せず、ほとんどそのまま残したのだった。たとえばハミルトンが推進した国立銀行も廃止せず、存続させた。するとこんどはフェデラリスト党がジェファーソンの政策を過度な中央政府の権力集中であると批判し、攻守が所を変えてしまった。
ルイジアナの買収 このようなジェファーソンの現実路線への転換を示すのが1803年、ナポレオン支配下のフランスから、ルイジアナを購入したことであった。
(引用)1803年、フランスは新大陸に帝国を建設する計画を放棄し、ルイジアナ全域を1500万ドルで合衆国に売却したのである。この信じ難い格安な買い物は、一方、ジェファーソン本来の質素で合憲的な政府という理想に背く行為であった。フェデラリストたちはさっそくこの売買でジェファーソンが与えられた権限を逸脱したと非難した。事実、憲法にはこのような行為を是認する言葉は見受けられなかった。数ヶ月間その問題と格闘した末、ジェファーソンはようやく「ルイジアナ購入」を「自由の帝国」の拡張と弁解し、できる限り静かに条約を上院に承認させた。ジェファーソンでさえ、理論は時には現実的考慮に道を譲ることを理解していたというわけである。<以上、ロデリック=ナッシュ/足立康訳『人物アメリカ史』上 トマス=ジェファソン p.146>
ルイス・クラーク探検隊 1804年、ジェファーソンは私設秘書メリウェザー=ルイスとウィリアム=クラークに命じて探検隊を組織させ、アメリカ西部に派遣した。二人はミズーリ川の水源地を経てコロンビア川を下り、遂に終に太平洋岸に達した。2年間の月日と7000マイルの旅の後、荒野からの豊かな情報を持ち帰りった。ロッキー山脈の西側、コロンビア川流域から太平洋岸まで広がるオレゴンは、1818年にはアメリカ・イギリスの共同管理とされたが、やがて1846年にその南半分がアメリカ合衆国に併合されることになる。

イギリスとの関係悪化

 ヨーロッパではナポレオンが1806年に大陸封鎖令を出したのに対して、イギリスは逆封鎖に乗りだし、アメリカ船に対しても「強制徴用」を頻繁に行うようになった。1807年6月、イギリス海軍がアメリカ軍艦に発砲し、3人が死に、4人が強制徴用されるという事件がおこり、国民は憤激しイギリスに宣戦布告を迫る声が高まった。ジェファソンはしかし、アメリカがヨーロッパの出来事に巻き込まれることに断固反対し、英仏のいずれにも組することなく、アメリカのヨーロッパに対するすべての貿易を禁止する「出港禁止令」を提案、12月に成立した。
 しかし、海運業者とニューイングランドの貿易商はこの出港禁止令に激しく反対した。アメリカの輸出は80%も減少し、破産が広がるなど、ジェファソン政権に対する非難が強まったため、もともとジェファソンは大統領をワシントンの前例にならい2期8年までと考えていたので、指名を辞退し、国務長官マディソンが次期大統領に選出されたのを受け、退任3日前に出港禁止令を廃止した。

大統領退任後の影響力

 次の大統領となったマディソンは、議会内の「好戦派」に押され、イギリスとの開戦に踏み切り、1812年1月に第2次独立戦争とも言われるアメリカ・イギリス戦争が始まった。ヴァージニアにあるモンティセロの別荘に引退したジェファーソンはヴァージニア大学の創設などにかかわりながら戦争の行方に強い関心を抱き続けた。アメリカ軍は首都ワシントンを焼き討ちされるなど苦戦を続けたが、1815年1月のニューオーリンズの戦いの勝利で面目を保ち、戦争は終結した。
奴隷制度問題  米英戦争でアメリカ合衆国は国家としての一体感を強めたが、新たな地域的対立として、黒人奴隷制を認めるかどうかが鋭い対立点となってきた。19世紀に入って急成長を遂げた南部の綿花生産は、黒人奴隷制によって支えられていたので、南部はその維持を主張し、北部工業地帯の諸州は当初は南部の黒人奴隷制には反対しないが、その拡張には反対するという立場を取っていた。それは新しい州が発足するとき、自由州とするか奴隷州とするかで議会内に対立が起こることがつづいたので、1820年は両者の妥協としてミズーリ協定が成立した。ジェファソンは北緯36度30分という人為的に引かれた線で自由州と奴隷州を分けるという妥協に、強い疑いを抱いたが、事態はその危惧したとおりに進むこととなる。
モンロー教書 1823年、すでに80歳になっていたジェファソンは、モンロー大統領から外交上の助言を求められた。それは、ヨーロッパのウィーン体制下で復権したスペイン帝国ががフランス、オーストリア、ロシアの助力を得て、ラテンアメリカの独立運動を押さえ、植民地支配を回復しようとしていることに対して、イギリスからそれを阻止して現状を保持するためにアメリカと共同宣言を出そうという働きかけたことに対してであった。ジェファソンはイギリスと同盟することにょって新大陸の独立を助けることができると考え、従来の不干渉の姿勢を変え提案に賛成した。しかし国務長官ジョン=クィンシー=アダムズはラテンアメリカの現状維持を約束することはアメリカ自身の行動も制約されることになると反対し、イギリスとの共同宣言ではなく、単独宣言にすべきであると主張した。モンローはアダムズの意見を容れ、モンロー教書を発表した。 → モンロー主義

Episode 独立記念日に死す

 1826年6月、ジェファソンはアメリカ合衆国独立50周年の記念日に向けての声明文を書き「すべての目が人間の権利に向かってすでに見開かれ、あるいは、今見開かれつつあるのは」7月4日のゆえであると書いた。ジェファソンの旧友で、時には政敵でもあったジョン=アダムス(J=Q=アダムズの父)は、7月4日に死の床にあり、心は動乱の革命の日々をさまよい、「トマス=ジェファソンはまだ生きている」との言葉を残して死んだ。ちょうどその数時間前、同じように、奇しくも彼の多くの貢献で特別の存在となった日の50周年記念日に、ジェファソンもまたこの世を去った。<ロデリック=ナッシュ『同上書』 p.155>