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奴隷貿易禁止

大西洋奴隷貿易はイギリスの繁栄を支えていたが、18世紀末から人道上の反対運動が起こった。ウィルバーフォースらの議会での運動によって、1807年、本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易は禁止された。

 イギリスは17世紀末から大西洋の黒人奴隷貿易に参入、特に1713年にアシエント(奴隷貿易特権)を認められてからは、アフリカ・アメリカ大陸を結ぶ三角貿易を行い、大きな利益を上げ、イギリス産業発展の原資とされていた。しかし、黒人奴隷への非人間的扱いや、中間航路の悲惨な状況が知られるにつけて、主としてキリスト教の人道主義の立場から、批判が強まった。18世紀末から議会内外で奴隷貿易反対運動を続けたウィルバーフォースらの努力が効を奏し、イギリス議会は1807年、本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易を禁止した。しかし、この時点では黒人奴隷制度そのものは否定されていなかった。

イギリスの大西洋奴隷貿易

 イギリスは16世紀中ごろから冒険的商人が西アフリカ沿岸で奴隷狩りを行い、ヨーロッパなどにもたらす行為が行われていた。次第に其の利益が大きくなると、1672年にロンドンで王立アフリカ会社を設立し、アフリカとアメリカ新大陸の間の奴隷貿易を独占するようにした。王立アフリカ会社の派遣する奴隷貿易船は、アフリカ西岸のシエラ=レオネや黄金海岸、奴隷海岸と言われたギニア湾沿岸で黒人奴隷を仕入れた。その拠点となったのが黄金海岸(現在のガーナ)に築いたケープ=コースと鳥である。ここで獲得した奴隷はイギリス領西インド諸島に運ばれ、バルバドス、ジャマイカなどの砂糖プランテーションでの労働力とされた。これらの黒人奴隷貿易リヴァプールやブリストルの貿易商が請け負っていたが、次第に私貿易業者も勝手に奴隷貿易に参入するようになったので、1700年には独占を廃止、10%の税を納めれば、誰でもイギリス国旗を立てて、黒人奴隷貿易に参入できるようにした。
 18世紀に入り、イギリスはスペイン継承戦争の講和条約であるユトレヒト条約で、アシエント(黒人奴隷貿易の特権)を獲得(1713年)してからは、南海会社がスペイン領アメリカとの黒人奴隷貿易が行えるようになった。それによって18世紀には大西洋奴隷貿易が活発となり、奴隷として南北アメリカ大陸や西インドに運ばれる黒人奴隷の数も急増した。18世紀の大西洋奴隷貿易はイギリスが最も多くを占め、イギリスの中でも1750年代にはリヴァプールが60%を占めた。<布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.56>
 イギリスの大西洋貿易は本国の綿製品・武器などの工業製品をアフリカに運び、アフリカの黒人を奴隷として購入し、西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力として売りつけ、砂糖などを本国に持ち帰って巨利を得る三角貿易と言う形を取ることが多かった。三角貿易の利益は大きく、また砂糖も紅茶の流行と合わせて広く国民に普及したので、黒人奴隷貿易は必要なものとして肯定するか、あるいは無関心が普通であった。

奴隷制反対運動の始まり

 18世紀のイギリスでは、国内の上流社会では黒人を家内奴隷としていることがよく見られた(山川教科書『詳説世界史』p.236の挿絵)。そのような「在英黒人」は一説によると1万5千人(ロンドンでは5000人)と見積もられている。<布留川『同上書』 p.111>
 18世紀中頃から在英黒人をめぐる裁判で少なくともイングランドには奴隷はいないとされるようになり、奴隷ではなく雇用人として扱われるようになったが、イギリス商人が植民地で黒人奴隷を売買するのは許されるとみられるようになった。しかし、次第にその奴隷貿易そのものの非人道性が厳しく問われるようになった。
 1770年代に奴隷貿易の現実が知られるようになると、イギリス国教会の中の福音主義者や、非国教徒のクウェーカー教徒・メソジストなどの中に、キリスト教人道主義の立場で奴隷制に反対する声が起こってきた。彼らは「アボリショニスト」(abolition 廃止の意味)と言われるようになった。特に、中間航路での黒人奴隷の劣悪なこと、その貿易が非人間的な行為であることが主張されるようになった。1774年には初めて奴隷貿易の禁止案が議会に提出されtが、多数で否決された。

Episode 奴隷船保険金事件

 1781年3月、ルーク=コリングウッド船長の奴隷船ゾング号は乗組員20人とともにリヴァプールを出航、黄金海岸で440人の奴隷を積み込みジャマイカに向かった。ところが伝染病が蔓延し始め、奴隷60人と乗組員2人が犠牲となった。感染を恐れた船長は船員に「奴隷の病死は船主の損失になる。しかし、生きたまま海に投げ込めば(事故扱いで)保険会社から保険が出る」と告げた。奴隷船には保険金がかけられていたのだ。乗組員はそれから奴隷の手を縛り海に投げ込み始めた。恐ろしい光景を見ていた奴隷の中には自ら海に飛び込んで自殺する者もいた。ジャマイカに着いて荷揚げされた奴隷は208人だった。死亡率53%、大西洋奴隷貿易史上、まれに見る高い数字である。これに対して保険会社が保険金の支払いを拒否し、船主が裁判に訴えたので、悲惨な出来事が明るみに出た。裁判官マンスフィールド卿は、船長が行った何の罪も無い奴隷を生きたまま海に投げ込むのは殺人であると主張し、原告は敗訴、保険金は支払われなかった。この事件は奴隷貿易の残酷さを世に知らしめる契機となり、反奴隷制協会が発足することとなった。<布留川『同上書』 p.111>

ウィルバーフォースらの活動

 1787年、奴隷貿易廃止協会(ロンドン委員会)が設立され、トーリ党の下院議員ウィルバーフォースが参加し、その指導者となった。ウィルバーフォースは貴族出身であったがキリスト教福音主義の熱心な信者であり、またピットの友人という立場から、盛んに運動し、毎年のように奴隷貿易禁止法を提案したが、否認され続けた。また、リヴァプールの商人たちは地域の経済に重要な役割を果たしている奴隷貿易を廃止しないようにとの請願書を議会に提出した。
 それに対して奴隷貿易廃止協会は、黒人奴隷制の上に成り立っている砂糖を買わないようにしようという「砂糖不買運動」も起こされた。砂糖が日常生活で不可欠な物になっていたイギリスではこの運動は効果が大きく、女性の中に奴隷貿易廃止の声が広がった。

フランス革命とハイチの独立

 しかし、1789年、隣国でフランス革命が勃発すると、黒人奴隷に同情を寄せる事は危険な革命思想に近いと考えられて、彼らの運動は一時低迷を余儀なくされた。特に西インド諸島ハイチで奴隷反乱が起こり、その隙にイギリス・スペインがフランス領を奪おうという動きが出ると、フランスの国民公会は1794年、黒人奴隷制の廃止を決議し黒人を味方にしようとした。
 フランス軍と協力した黒人の指導者トゥサン=ルベルチュールはイギリス軍を破り、1800年には奴隷制度を否定するハイチの憲法を制定した。ところが、フランスではジャコバン派の恐怖政治の反動から1799年にナポレオンが政権を握っており、ナポレオンは早くも1802年に植民地での奴隷制の再建を宣言、トゥサンは捕らえられ獄死した。ハイチではその後、デサリーヌの指導で独立の戦いが続けられ、ついに1803年、独立を宣言した。それを受けて1804年にはイギリス領ジャマイカ島でも黒人暴動が起こり、鎮圧されたが、イギリスでももう一度奴隷制度に対する反対が活気づくこととなった。

Episode ウィルバーフォースの奇策

 映画『アメイジング・グレイス』はウィルバーフォースが奴隷貿易禁止法を議会で制定させることに成功するまでの映画で、史実に基づいているとおもわれるが、根強い議会の禁止法反対派を出し抜くために、ウィルバーフォースたちが採った奇策の話が出てくる。彼らは初めはキリスト教的人道主義という大上段から奴隷貿易禁止を主張していたのだが、奴隷貿易や西インド諸島砂糖プランテーションから利益を得ている議員も多く、毎年提出する法案はことごとく否決されていた。おまけに、フランス革命が勃発すると、ウィルバーフォースたちは奴隷解放に荷担する過激なジャコバン派と同類であるとみなされ、窮地に陥っていた。
 そこで、ジャマイカなどでの奴隷貿易の実態を見てきた仲間の弁護士が一計を案じる。それは、奴隷貿易を事実上出来なくしてしまうと言うものだった。当時、奴隷を積んでアフリカから西インド諸島に入ったイギリス・フランスの船は、そこで砂糖やタバコなどに積み荷を替え、一旦アメリカの港に入って、そこからアメリカ国旗を掲げてヨーロッパに向かっていた。中立国アメリカの船に偽装することで敵国船や私掠船(政府から敵国船を略奪することを認められた海賊船)から逃れようとしていたのだ。
 そこでウィルバーフォースたちは、アメリカ船の国旗を掲げる船は一切保護せず、イギリスに入るものは拿捕するという法案を提出した。これが可決されれば、イギリスの奴隷貿易商は拿捕を恐れて船を出さなくなり、それによって奴隷貿易は8割がた減少するだろうと、彼らは考えた。こうして正面から奴隷貿易禁止を訴えるのではなく、奴隷貿易そのものを妨害しようとしたのだった。しかも自分たちの提案だと言うことを隠すために愛国派の議員に提案させ、さらにウィルバーフォースは議員の多くをエプソム競馬場の招待券を配り、議場から抜け出させていた。反対派議員の大物がこの陰謀に気付いたときにはすでに遅く、アメリカ船を拿捕する法案は可決された。これに勢いづいたウィルバーフォースたちは、その運動の陰の理解者ピット首相の死(1806)を乗り越えて、1807年に奴隷貿易禁止法を可決させることに成功した。映画ではこの議場でのかけひきが丁寧に描かれていて、当時のイギリス議会の雰囲気を理解する上でも参考になる。

奴隷貿易禁止法の成立

 1804年、ハイチの独立などで刺激を受けた奴隷制度反対運動は、まず実質的な奴隷廃止を実現するため、奴隷貿易の禁止に焦点を絞り、議会でさまざまな法案を提出しながら、支持を拡げていった。ウィルバーフォースらの理解者であったピットは、ナポレオンとの戦争の最中の1806年1月に急死したが、次の首相となったウィリアム=グレンヴィルも奴隷貿易禁止に理解を示し、1807年2月に法案を提出、上院で演説して奴隷貿易廃止の「正義」を強調し、100対34で可決され、下院ではウィルバーフォースも同席するなか、283対16の圧倒的多数で可決成立した。これによって、1807年5月1日以降イギリスの港から奴隷船を出航させてはならず、また、1808年3月1日以降植民地に奴隷を荷揚げしてはならないことになり、1787年から20年を経て奴隷貿易禁止が実現した。<布留川『同上書』 p.154>

奴隷貿易廃止の背景

 アフリカの黒人を奴隷として人身売買する黒人奴隷貿易は、人道主義の立場に立つウィルバーフォースの運動によって、ますイギリスで1807年に実現した。この動きはイギリス以外にもひろがり、翌年はアメリカ合衆国でも奴隷貿易を禁止、1814年にオランダ、1815年にはフランスがそれに続いた。19世紀初頭に、欧米諸国でアフリカの黒人を奴隷として人身売買することが急速に禁止されるようになったのには、人道主義的な反対運動が強まっただけではない、大きな経済のしくみの変化が背景にあった。
(引用)19世紀初頭、ヨーロッパではかつての重商主義重農主義の時代が終わり、産業革命の時代を迎えつつあった。南北アメリカ植民地やアフリカとの関係でも、奴隷を労働力とするプランテーション経営や、アフリカからの奴隷供給をその一辺とする大西洋三角貿易で利益を得ていた時代から、第一次産品の供給地おおび製品の市場としての植民地が求められるようになる。そうしたなかで、イギリス(1807年)、オランダ(1814年)、フランス(1815年)が相次いで奴隷貿易を禁止する。<川田順造『アフリカ』地域からの世界史9 1993 朝日新聞社 p.185>
 その結果、ヨーロッパ列強のアフリカに対する関心は、現地人首長との交易拠点が置かれた海岸から、急速に内陸に向けられることになり、19世紀前半の「アフリカ探検」ブームを引き起こし、さらに世紀後半の「アフリカ分割」競争へと移っていく。

奴隷制度そのものの廃止へ

 欧米諸国が黒人奴隷貿易を禁止するようになったのは、単一商品作物に特化するプランテーションよりも、国内産業育成に目が向いた結果といえるが、そのような転換を遂げなかったブラジルとキューバは依然として大きな奴隷輸入地域だった。奴隷貿易禁止に転じたイギリスは軍事力を使って奴隷貿易国(スペイン)に圧力をかけた。
 奴隷貿易が禁止されても奴隷制度そのものは続いていた。19世紀に奴隷制による生産が行われていた主な地域は、イギリス領西インド諸島の砂糖プランテーション、アメリカ合衆国南部の綿花プランテーション、ブラジル南東部のコーヒープランテーションであった。次の段階では、このような奴隷制度そのものの廃止が改題となってゆき、イギリスでは1833年に奴隷制度廃止が決定される。アメリカでは奴隷制度の廃止か存続下で国論がわかれ、南北戦争となる中で、1863年に奴隷解放宣言が出され、それ以後各国に広がり、1888年のブラジルを最後に世界から奴隷制度は(一応のところ)姿を消す。 → 奴隷制度廃止