百科全書
18世紀フランス啓蒙思想を代表し、知識の体系化を図った辞書。フランス革命を準備したと言われる著作である。
1751年から72年(最終的には80年)にかけて発刊され、ディドロとダランベールが著作編集にあたった。フランス啓蒙思想を代表する書物。
ディドロ(当時は無名の哲学者だった)は「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、・・・自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つ辞典」の出版を心がけ、ダランベールの協力を得て、「知の体系化」をめざし『百科全書』(エンサイクロペディア)を編纂した。中世的なキリスト教世界観ではない、経験論に基づいた学問と技術を集大成する仕事は、新興のブルジョアジーに支持され歓迎されたが、カトリック教会はからは危険視され、保守勢力に動かされたブルボン王朝政府は『百科全書』の出版などの妨害が行われた。しかし、政府内部にも出版監督長官マルゼルブはディドロの原稿が没収されないよう手配するなど、理解者もいた。国王ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人もひそかにディドロたちを援助した。執筆には184人が協力し、世界で初めて「学問の壁」を越えた協力によって1772年までに全17巻が出版された(80年までに別人の手によって補巻も出された)。「百科全書」の出版は当時の思想状況を網羅的に含むこととなったので、フランス啓蒙思想家たちを百科全書派と言うこともある。<桑原武夫編訳『百科全書』岩波文庫 解説などによる>
ディドロ(当時は無名の哲学者だった)は「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、・・・自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つ辞典」の出版を心がけ、ダランベールの協力を得て、「知の体系化」をめざし『百科全書』(エンサイクロペディア)を編纂した。中世的なキリスト教世界観ではない、経験論に基づいた学問と技術を集大成する仕事は、新興のブルジョアジーに支持され歓迎されたが、カトリック教会はからは危険視され、保守勢力に動かされたブルボン王朝政府は『百科全書』の出版などの妨害が行われた。しかし、政府内部にも出版監督長官マルゼルブはディドロの原稿が没収されないよう手配するなど、理解者もいた。国王ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人もひそかにディドロたちを援助した。執筆には184人が協力し、世界で初めて「学問の壁」を越えた協力によって1772年までに全17巻が出版された(80年までに別人の手によって補巻も出された)。「百科全書」の出版は当時の思想状況を網羅的に含むこととなったので、フランス啓蒙思想家たちを百科全書派と言うこともある。<桑原武夫編訳『百科全書』岩波文庫 解説などによる>
『百科全書』の執筆者
全体の編集はディドロとダランベールが行い、ダランベールは序文と数学の項も執筆した。各項目の執筆にあたった主要な人物には次のような人々がいる。啓蒙思想家であるルソーとヴォルテール。『経済表』で知られる重農主義者ケネー、『博物誌』を刊行したことで知られるビュフォン。『百科全書』の編纂意図
(引用)・・・彼ら(辞典編纂者)の目標も、本質的には、今世紀が先行する諸世紀の知識の光明の上につけくわえたものを要約して示すことことではないのか。すなわち、原典をなしですませる術を教え、また従って、私たちの敵がささったままにしておくことを望むであろうこういう〔読書の苦しみの〕とげを抜いてしまうことではないのか。すぐれた抜粋によって、どれだけ無用な読書をしなくてもすむようになることだろう! それゆえ、技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人びとを啓蒙すると同時に、他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような、ひとつの「辞典」を持つことが大切だ、と私たちは信じたのである。<ディドロ、ダランベール編/『百科全書』桑原武夫訳編 岩波文庫 p.138 この部分は橋本峰雄訳>これはダランベールが、ディドロの述べた百科全書の編纂意図を説明した部分である。「すぐれた抜粋によって」「無用な読書をしなくてもすむように」、「自分自身のために自学する人々」と同時に「他人の教育のために働く勇気を持っている人々」への手引きとして辞書を編纂するというディドロの言葉は、このハイパー世界史用語集の編纂ポリシーでもあります。