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ポンパドゥール

フランス・ブルボン朝ルイ15世の愛妾(一般にポンパドゥール夫人と言う)。宮廷で実権を振るい、文化の保護も行う。この時期に宮廷ではロココ美術が盛んになった。また夫人はしばしば外交にも関係し、オーストリアのマリア=テレジアの外交革命に力を貸したとも言われる。

ポンパドゥール夫人
ポンパドゥール像
ロココ様式のド=ラトゥール画
 18世紀のフランス、ブルボン朝のルイ15世の宮廷で最も実力があったのは、その愛妾ポンパドゥール Pompadour 1721-1764 であった。彼女は平民の出身であったがその美貌と才知でルイ15世の心をつかみ、1745年に公式愛妾と認められて以来、宮廷を牛耳る実力者として君臨し「ポンパドゥール夫人」と言われた。政治に関心のないルイ15世は、ポンパドゥールの政治にへの関与を許し、人事なども彼女に任せたという。フランスの外交方針を180°展開させた「外交革命」にも一役買っていた。彼女は啓蒙思想家の保護者でもあり、重農主義で知られるケネーは彼女の主治医であった。またディドロの百科全書の出版を助けたりもした。時代の先端を行く女性だったわけで、自ら「私が支配する時代」と言ったという。しかしその1年で香水100万フランを使うというけた外れの浪費は、ブルボン朝の財政を悪化さえ、フランス革命の要因のひとつとなった。
 右の図はフランスのロココ美術を代表する画家の一人、モーリス=カンタン=ド=ラトゥールの1752年の作品。パステルを用いて才色兼備をうたわれた女性を描いている。<高階秀爾監修『カラー版西洋美術史』美術出版社 p.118>

Episode ポンパドゥールの教養

 彼女はマリヴォーやモンテスキューと文学を語り、ヴォルテールと文通して哲学を論じた。歌と踊りと芝居が得意で、モリエールの芝居やリュリのオペラにも自ら出演して喝采を浴びた。さらにクラヴサンを弾き、絵を描き、版画まで自分で作っている。会話は才気に満ちて人をそらさず、宮廷での晩餐会やサロンでは、完璧なホステスであった。
 彼女は貴族の出ではなく、平凡な市民の家の生まれだった。父は銀行家に傭われていた書記で、母は頭のよい美人であったが社交界とはまったく縁がなかった。しかし、彼女の母親譲りの美貌は子供のころから人目を引いたようで、9歳の時に占い師から「あなたは国王の心を支配するようになるだろう」と言われたという。それでは彼女はどうやって高い教養を身につけたのか。彼女を教育したのは「叔父」と言われているが、実際は血のつながりのない、父を傭っていた銀行家の知り合いであった国王の財政徴収官をつとめていた富豪ド・トゥルネムという人だった。おそらく彼女の母を愛人にしていたのだろう。その男がジャンヌ=アントワネット(彼女の本名)に演劇と舞踏、その他文学、歴史、体育などあらゆる面で一流の先生をつけて教育した。事実彼女は当時の宮廷の女性としては異例のたいへんな読書家だった。彼女の死後、その蔵書は売り立てに出されたが、目録には3525冊の本が挙げられ、いずれも子牛またはモロッコ皮の見事の装丁で、しかもほとんどすべて読んだ跡があったという。
 ジャンヌ=アントワネットは「叔父」の世話でデティオルというその甥と結婚、宮廷の仮面舞踏会に出席し、そこでルイ15世に見いだされた。国王の愛妾になるためにはそれなりの身分が必要だったので、ルイ15世はポンパドゥール侯爵領をあたえ、彼女は「ポンパドゥール侯爵夫人」となった。彼女はその人柄からか、王妃からも国王の寵姫としてみとめられ、1745年から5年ほど国王の寵愛を独占した。その後も1764年にこの世を去るまで、彼女は国王の良き友人として、そして王妃や王子たちにも歓迎されてヴェルサイユ宮殿ですごした。<高階秀爾『歴史のなかの女たち 名画に秘められたその生涯』1978 岩波現代文庫再刊2008 p.247-560>

ポンパドゥールとロココ美術

 ポンパドゥールは、宮廷画家のブーシェを庇護し、彼からデッサンと版画の手ほどきを受けた。ブーシェには、彼女を描いた肖像画が数点残されており、いずれも18世紀のロココ美術の代表作とされている。しかしポンパドゥールはブーシェだけを特別に保護したのではなく、当時はまだ社会的地位の低かった芸術家たちを貴族社会に対して認知させようと努力したのだった。
(引用)ポンパドゥール夫人は決して権力者としてブーシェを自分に奉仕させたのではない。ブーシェもまた、金と栄誉のために自分の芸術的良心を侯爵夫人のために売ったわけでもない。二人はお互いの信頼関係にもとづいてロココという美的創造の機関車の両輪として活動したのだ。<飯塚信雄『ロココの時代-官能の十八世紀』1986 新潮選書 p.55>