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啓蒙思想

18世紀の西ヨーロッパ(特にフランス)で興った、キリスト教的世界観や封建的思想を批判し、人間性の解放を目ざす思想。その影響を受けて啓蒙専制君主も現れたが、絶対王政の市民革命にもつながった。

 18世紀フランスに興った、従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想。その世紀末のフランス革命を思想面で準備しただけでなく、「王権神授説」などにかわる新しい支配体制を模索した絶対主義諸国の君主の政治思想にも影響を与えた。

啓蒙の意味

 「啓蒙」とは、「蒙(無知蒙昧の蒙。物事に暗いこと)」を「啓(ひら)く」ことで、無知を有知にする意味。18世紀フランスに起こった啓蒙思想での「無知」とは、封建社会の中で教会的な世界観の中に閉じこめられていた人々のことを言い、彼らに対して「人間」や「社会」、あるいは「世界」や「自然」の真実を教え、無知から解放することが「啓蒙」であった。その啓蒙思想は当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政と、そのもとでのアンシャンレジーム社会に対する攻撃という毒を含むこととなった。
「啓蒙とは何か」 カントは『啓蒙とは何か』(1784)で次のように定義している。
(引用)啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。<カント/木田元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か』2006 光文社古典新訳文庫 p.10>
 カントに言わせれば、「指示待ち人間」は「未成年状態にある」ということですね。サペーレ・アウデ!

啓蒙思想の前提

 17世紀は科学革命の時代と言われ、イギリスのニュートンやベーコンによって切り開かれた自然探求とロックの政治思想で展開された経験論と、デカルトやスピノザなど大陸で始まった人間主体の思想である合理論によって、神を絶対視した世界観は動揺し、自然科学が著しく発展した。その影響を受け、人間や社会、国家のあり方を根底から見直す動きとして現れたのが啓蒙思想であった。17世紀の「科学の時代」に対して、18世紀は「啓蒙の時代」と言われている

主な啓蒙思想家

 特にその先駆的な動きをもたらしたのが、フランス啓蒙思想であった。モンテスキューの三権分立論などの国家論、ヴォルテールの宗教的寛容論、ルソーの社会契約説などが代表的な啓蒙思想である。それらの新しい思想を集大成したものがディドロダランベールが中心となって編纂した『百科全書』であった。フランスの多くの啓蒙思想家がその執筆にあたったので彼らを百科全書派ともいう。また、ケネーは『経済表』を著して重農主義を主張し、イギリスではアダム=スミスが『諸国民の富』を著して重商主義を批判し、産業革命による資本主義経済への移行を理論付け、古典派経済学の理論を打ち立てた。

啓蒙思想の影響と広がり

 18世紀の西ヨーロッパは主権国家が形成され、各国は絶対王政の支配の下にあった。絶対主義国家は領土争いにやっきとなり、七年戦争が勃発した。それは新大陸やアジアでの植民地抗争と結びついた「世界大戦」の面があった。そしてイギリスでは産業革命が始まりつつあった。つまり封建社会の崩壊、貴族社会の崩壊とそれにかわる近代市民社会の胎動が始まった時期だったといえる。そのような中で啓蒙思想は、近代社会誕生の「産婆」役を担っていた。ルソーやディドロの思想はやがてフランス革命を生み出すことになる。同時に絶対王政を維持したい君主たちも、「上からの改革」の必要を察知し、啓蒙思想に学びながら支配を合理化するという「啓蒙専制君主」が現れた。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)、オーストリアのヨーゼフ2世などがその典型であった。

参考 啓蒙の時代

 現代の日本のイギリス史家近藤和彦は、18世紀のキーワードとして「重商主義・啓蒙・公共圏」をとりあげ、その中の「啓蒙」について、次のようにまとめている。
(引用)啓蒙は、古代とイスラームの遺産を受けついだルネサンス以来の合理主義・科学が成熟点をむかえた17世紀末~18世紀に、ヨーロッパの知の基調をなした。これは西欧文明が、近世に新しく拡大した世界のすべてを理解しなおそうというと欲した渾身の自己了解の試みであり、古代以来の知を組みかえ、展開すべき先端哲学であり、総合科学である。理性に照らしあわせてみずからの非合理なものを排そうとした実学であり、歴史や伝統、そして信仰を相対化する普遍主義であり、知と理性を信じ、現在の文明に自負をもち、未来を楽観する進歩思想であった。これは基本的に世俗合理主義であり、キリスト教の枠内にとどまる場合は理神論にかたむいた。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.127~128>
 さらに近藤氏は、啓蒙を考える場合のポイントとして次の三点をあげ、具体的に説明している。
  • 世界市民的(コスモポリタン)ひろがり 国際的な都会人と情報のネットワーク。ヴォルテールはイギリスやプロイセンに滞在し、ディドロはペテルブルクに旅行し、ヒュームはパリの大使館に勤務、アダム=スミスがルソー、ケネーらと文通していたころ、ギボンはローザンヌとイギリスを往復し、ネッケル夫人と恋愛し、ローマの廃墟で『ローマ帝国衰亡史』を着想した。このような知的エリートだけでなく、ユグノーやフリーメイスン、そして普通の商人が全ヨーロッパ的・環大西洋的に活動した。芸術ではドイツのレッシングが熱心にイギリス文学を紹介し、ヴィヴァルディの楽譜がアムステルダムで刊行され、バッハがそれを研究した。モーツァルトはザルツブルクに生まれ、マンハイム、ミュンヘン、パリ、ロンドン、アムステルダム、イタリアの諸都市をまわり、ウィーンで死んだ。フランクリンやトーマス=ペインのようにヨーロッパとアメリカの英領植民地の双方で活躍した。
  • 実学としての性格 文芸的であると同時に政治的出版、世論/公論の発達と表裏一体であった。アンシャンレジームのもとにあったヴォルテールモンテスキュールソーはイギリスの立憲政治や中国の文物を表象として捉え、宗教や諸制度の非合理を批判した。『人生論』のヒューム、『モラル感情論』のアダム=スミス、『経済表』のケネーも文通、相互批判をしながら社会と経済を分析した。スミスの『諸国民の富』と同じ1776年に刊行された『統治論断片』でベンサムは「最大多数の最大幸福」を論じ、その著作はフランス語にも翻訳され、全ヨーロッパに普及した。
  • 先端総合科学としての博物学 新しく獲得された非ヨーロッパのめずらしい文物を知り、理解するための調査・学問が発達した。スウェーデン人リンネは生物の分類を確立し、同じくスウェーデン人博物学者兼宗教学者スウェーデンボルクは西欧を遍歴し、ロンドンで死んだ。イギリスのクック、フランスのブーガンヴィルの太平洋・オセアニア探検には博物学者や画家が同行した。ビュフォンの『博物学』も18世紀的知識の普及に大きな役割を果たした。博物館・植物園が造られたのもこの時期であり、大英博物館は1753年に発足し、王立植物園は1759年に設立された。ウィーン、ペテルブルク、パリにも博物館・美術館が開設された。
百科事典の編纂 こうした啓蒙の三つの側面の集大成として生まれたのが百科事典の編纂である。最初に1728年にはロンドンで、E=チェインバースの『百科事典』が刊行され、フランスではディドロダランベールらによる『百科全書―科学・芸術・職業の理論的な事典』が1751年から刊行が開始された。『ブリタニカ百科事典』は1768年から刊行が始まり、その改訂は今に続いている。
宗教と世俗化 啓蒙は一般的に世俗化を意味した。フランスではアンシャンレジーム期に教会・戒律離れが進み、イギリスでは名誉革命の寛容法とその後のホイッグ体制のもとで、国教会低教会派(非国教徒との妥協を図る派)とプロテスタント非国教徒の連携がなされた。それに対する国教会高教会派(非国教徒の排除を主張する派)はたびたび反発して騒擾を起こしている。<近藤和彦『文明の表象 英国』1998 山川出版社 p.128~133>
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カント/木田元訳
『永遠平和のために/
啓蒙とは何か』
2006 光文社古典新訳文庫

近藤和彦
『文明の表象 英国』
1997 山川出版社