タバコ
新大陸からもたらされた嗜好品で、ヨーロッパから世界各地に広がり、重要な貿易品となった。はじめは薬用として用いられたが、17世紀から世界各地で嗜好品として独自の発展をしはじめ、商品作物として農業を支え、タバコ産業には大企業も成立した。しかし、現在ではその健康上の有害性が明らかになり、喫煙は公共の場でできなくなっている。
タバコという植物
葉タバコの畑
タバコはナス科タバコ属に分類され、栽培種2種、野生種64種、園芸種1種が知られており、原産は南米アンデス山脈である。ヨーロッパ人渡来以前から先住民が用いていたが、7世紀のマヤ文明に遡ることは確かである。タバコに含まれるニコチンは身体に生理的変化をもたらすアルカロイド(植物塩基)で、喫煙や噛みタバコや嗅ぎタバコにより体内に吸収される。喫煙にはパイプや葉巻、紙巻の形態の違いがあるが、紙巻タバコがもっとも吸収速度が速く、15~20秒で身体の隅々まで達する。このアルカロイド依存性こそが人類を虜にし、人類は「禁断の快楽」に身を委ねることになった。 → アメリカ大陸原産の農作物
コロンブスたちが出会ったタバコ
コロンブスは1492年10月12日朝、西インド諸島に初めて上陸した。その航海記の同年10月15日条によると、最初に上陸したグァナハニ島の近くのサンタマリアとフェルナンディナと名付けた二つの小さな島の中間で丸木舟に乗った男(インディオ)と出会った。「彼は、握りこぶしほどの大きさの彼らのパンを少しと、水を入れた瓜殻と、赤土を粉にして練ったものと、乾いた葉っぱを持っていました」とり、この乾いた葉っぱがタバコだったようだ。11月6日条には「(キューバ島に上陸した)キリスト教徒の二人は、途中で大勢の女や男が火の付いた棒片と、いつも彼らが薫香に使う草を手にして、部落を通りすぎて行くのに出会った」と報告している。これがヨーロッパ人が見た最初のタバコだった。またコロンブスの航海に参加したラス=カサスの『インディアス史』では、「この草は乾いた葉につつんであって、紙鉄砲のような形に作られており、その一端に火をつけ、反対の端を吸って、息と共にその煙を吸うと、肉体が眠ったようになり、ほとんど酔っぱらったようになる。それで疲れが治るのだという。この紙鉄砲を、彼らはタバコと呼んでいる」と述べている。<ラス=カサス編/林屋永吉訳『コロンブス航海記』1977刊 岩波文庫 p.48,p.84,p.266>Episode ニコチンの語源
ニコチンは、フランス語でタバコのこと(nicotiane)であるが、これは16世紀の中頃、ポルトガル駐在のフランス大使であったジャン=ニコが、タバコをリスボンから本国のフランソワ2世に献上したことで、タバコがフランスで知られるようになったことから、その通称がニコチンと言われるようになったという。フランソワ2世の母で、フランスの実権を握っていたカトリーヌ=ド=メディシスが、ニコから送られたタバコを頭痛薬として使用した(嗅ぎタバコ)ことから、フランスの宮廷でタバコが流行するようになった。<宇賀田為吉『タバコの歴史』岩波新書 1973 p.51>万能薬とされたタバコ
ヨーロッパでタバコが社会的に承認される上で大きな役割を果たしたのは、ジャン=ニコよりも同時代のセビーリャの内科医ニコラス・モナルデスである。彼は1571に著した薬草誌で、タバコを万能薬と説き、多彩な薬効のみならず空腹や渇きをいやす効果などを讃え、当時の正統な医学体系たるガレノスの体液説にタバコを位置づけた。タバコを医学的に意味づけ、文化的に組み込むことに成功した彼の著作はヨーロッパ各国語に翻訳され、少なくとも2世紀にわたり影響を与えた。しかし、一方で早くからタバコの習慣性による害毒を非難する向きもあったことも確かである。<以下、和田光弘『タバコが語る世界史』世界史リブレット90 2004 山川出版社 に依る>タバコの世界への拡散
タバコは1575年ごろ、スペイン人がガレオン貿易によってメキシコからフィリピンに持ち込み、アジアへと伝播した。インドネシアやフィリピンではオランダやスペインによるタバコのプランテーション経営が展開された。日本には1600年前後にフィリピン経由で伝えられ、中国にもほぼ同時期、明代晩期にフィリピンから福建あたりに持ち込まれた。一説にはマテオ=リッチが関与していたとの説もある。清代には男女を問わず喫煙が普及したが、一方でタバコの拡大は食糧生産を圧迫する恐れがあったことから、喫煙しなかった康煕帝や雍正帝は禁令を発している。イスラーム世界にも最初、医薬として導入され、トルコへは17世紀初頭にイギリス人商人によってもたらされた。しかし喫煙はコーランの教えに反するとされ、火災の危険性もあってオスマン帝国のアフメト1世などは禁令を発している。イランにはポルトガル人によって持ち込まれたがサファヴィー教団のアッバース1世らは断続的に喫煙者を処刑している。インドには1605年にムガル帝国のアクバル帝に献上されているが、その子ジャハンギールは禁煙令を発している。たびたびの禁令にもかかわらず、タバコの依存性はアジアでのタバコの生産をもうながし、トルコはオリエント種の一大産地となった。
ヨーロッパのタバコ
イギリスへのタバコの伝来には有名なウォルター=ローリーの逸話があるが、これは史実ではなく、イギリスへのタバコ導入の嚆矢はジョン・ホーキンズが、1564年にフロリダのフランス人入植地で見たパイプ喫煙を、翌年本国に持ち帰ったときと考えられている。パイプ喫煙は最初にイギリス、ついでオランダへと伝播し、17世紀の三十年戦争をつうじてヨーロッパ中に広がった。もっともローリーがタバコと縁が深かったことは、彼が推進したヴァージニアの探検・植民プロジェクトで北米大陸先住民から喫煙の知見を得たことは確かである。こうしてイギリスでは17世紀にタバコの消費量が急増し、女性や子どもにも喫煙者が増加した。17,18世紀になってもタバコの薬効は広く信じられ、ペストなどの疫病に効果があるとされていた。タバコ植民地ヴァージニア
後にヴァージニア植民地の首府となるジェームズタウンの建設に盡力したジョン=スミスと、彼を助けたインディアン族長の娘ポカホンタスの話はディズニーのアニメになって有名であるが二人は実在の人物である。スミスがイギリスに帰国した後にキリスト教に改宗したポカホンタスが再婚した相手であるジョン=ロルフは、ヴァージニア植民地にタバコを導入した人物だった。ところが本国のジェームズ1世は『タバコへの反論』という本を自ら書くほどタバコ嫌いの国王だった。ジェームズ1世はタバコを規制するためにスペイン植民などからの輸入に高い関税をかけたが、タバコの消費は逆に増加し、関税の増収という結果をもたらした。そこで政府は重商主義政策の一環として、1624年にタバコ栽培をヴァージニアなどの自国植民地に限定した。さらに1660年の航海法などでタバコは砂糖、インディゴ(藍)などとともに生活上・軍事上重要な植民地産物に指定され、外国への直接の輸出が禁じられた。こうしてタバコはイギリス重商主義の「航海法体制」の不可欠の要素に組み込まれた。ヴァージニア・タバコの盛衰
ジョン=ロルフは西インド諸島からタバコの葉っぱを持ち込み、ヴァージニア土着のものよりもマイルドでヨーロッパ市場にとって魅力的な品種の栽培に成功した。ヴァージニアの気候が適していたことと、運搬に便利な河川と輸出に便利な港があったことも成功の理由だった。ヴァージニアのタバコの生産高は1624年の20万ポンドから1638年の300万ポンドに跳ね上がり、ヨーロッパ・タバコ市場で西インド諸島を抜いて第一の供給源となった。タバコ反対論者だったジェームズ1世もタバコ輸入から得られる税金が王室財政を潤すことがわかってからは賛成派に転じた。タバコはヴァージニアでの生産コストの5倍から10倍の価格でイギリスで売買されたので、ヴァージニアではすべての土地がタバコ畑に替えられた。年季奉公人 1619年に成立したヴァージニア議会では投資家が土地をひろげやすくし、永住する意思のある移民に100エーカーの土地を安い地代で分配した。さらに使用人一人につき50エーカーを保証したので、裕福な投資家は本国からやってくる青年を年季奉公人として雇って、タバコ・プランテーションの土地をひろげた。彼らは本国では土地を持つことが出来ない農家の次男坊、三男坊で、そのままであれば餓死するしかない境遇から抜け出そうとしてアメリカにやってきた。渡航費は無料、衣食住は保証され、契約期間(4~7年)が満期になれば自由になれ、政府から50~100エーカーの土地が与えられる条件だった。しかし年季中の労働は苛酷で、実際は雇い主の所有物、つまりその間は奴隷に等しかった。運良く年季が明けて自由になっても与えられる土地は荒れ地で開墾できず、家庭を持とうにも女性はほとんどいなかったから出来なかった。
タバコ・プランテーションの労働 タバコ栽培には、1年の内9ヶ月の間、種まき、移植、雑草駆除、害虫駆除、刈り入れ、保存、梱包と手間がかかった。それに加え常に未開の森林を開墾し続けなければならない。なぜならば、タバコ作りを三年間続けると土地は生産性を失ってしまうからだった。タバコ・プランテーションを維持するには生産と開墾という苛酷な労働に耐える労働力を常に必要としていた。地元のインディアン(アルゴンキン族)を隷属させようとする試みは苛酷な労働で死亡する者や逃亡する者が続出し、失敗した。1619年からはアフリカからの黒人奴隷を使役することが始まったが、1650年代までは白人年季奉公人への依存が最も強かった。
黒人奴隷への急激な転換 1660年代から状況が一変した。タバコの価格が下落し始める一方、イングランドの経済成長が始まり、新大陸への移民が少なくなってきた。その結果、1700年頃にはヴァージニアの白人年季奉公人はとんどいなくなってしまった。代わって浮上したのが黒人奴隷労働だった。始めは黒人奴隷は年季奉公人に比べて高い買い物と考えられていた。4年契約の年季奉公人の価格は一人約15ポンドであったが、奴隷は一人25ポンドから30ポンドで取引されていたからだ。しかし、投資と考えれば、奴隷は終身労働なので「死にさえしなければ」お得な買い物だと考えられるようになった。奴隷をなるべく死なないように使役すれば割が良い、という風潮が強まり急速に年季奉公人から黒人奴隷労働への転換が進んだ。1650年にチェサピーク湾地域の黒人奴隷はたったの300人(全人口の2%)しかいなかったのが、1700年には1万3000人(13%)に跳ね上がった。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.66-72>
18世紀にイギリスで産業革命が始まると、綿織物工業が発達し、その原料としての綿花を栽培する綿花プランテーションがアメリカ南部で急速に広がる。
コーヒーハウスとタバコ
17~18世紀、イギリスではコーヒーが流行し、ロンドンを中心にたくさんのコーヒーハウスが作られた。コーヒーハウスがはやらせた習慣の一つが喫煙であった。(引用)「聖なるタバコ! そは万人の苦痛と悩みにやすらぎを与う!」とうたわれたタバコもまた、17世紀後半から18世紀にかけて、価格の急激な低下によっていちじるしく大衆化したと思われる。ただ、徴税の便宜もあって本国では栽培が禁止され、植民地でのみ生産が許されたタバコは、茶とならぶ政府のドル箱的商品とあって非常に高率の関税をかけられていた。したがって密輸も多く、正確な輸入数量をおさえることはむずかしい。当初、タバコは一般にパイプで吸われており、コーヒー・ハウスに出入りする人たちの必需品となっていた。<角山栄編『産業革命と民衆』1992 生活の世界歴史10 河出書房新社>
タバコ=プランテーション
近世において商業ベースのタバコ生産は、最初西インド諸島で試みられたが、この地域ではやがて砂糖が主役の座を占めることとなった(砂糖革命)。キューバが葉巻生産地として急成長するのは、19世紀になってタバコの需要が増加してからである。北米大陸の「タバコ植民地」におけるタバコ=プランテーションでは、最初は白人の年季奉公人が労働力とされていたが、17世紀末以降、アフリカからの黒人奴隷が労働力となり、三角貿易が展開された。
1740年代から北米大陸植民地では、多角化が進展し、タバコ=プランテーションでも次第に小麦に転換するものが増えていった。ヴァージニアの大プランターであったワシントンも、タバコから小麦への転換を試みた一人であり、アメリカ独立革命の過程でタバコのモノカルチャーから脱却していく。
Episode 黄金の嗅ぎタバコ入れ
18世紀のイギリスでは「嗅ぎタバコ」が大流行した。さらにフランスやプロイセンに広がった嗅ぎタバコは上流社会に好まれ、「嗅ぎタバコ入れ」は豪華な装飾を施し、珍重された。マリ=アントワネットのウェディングバスケットのなかには、黄金の嗅ぎタバコ入れが52個おさまっていたという。ナポレオンも嗅ぎタバコを愛好したことは、ディクソン・カーの推理小説『皇帝の嗅ぎタバコ入れ』にも登場している。様々な喫煙形態
19世紀半ばになると、イギリスではパイプタバコが一般的になる。葉巻は中南米から直接もたらされたスペインで愛好されていただけだったが、ナポレオン軍のスペイン遠征の時にフランス兵が葉巻に親しみ、フランスに持ち帰ったためヨーロッパ中に広がったという。葉巻はドイツでは市民的・ブルジョワ的象徴性を帯び、フリードリヒ2世(プロイセン王)は葉巻喫煙を禁止し、ようやく三月革命で許された。フランスの文学者メリメの傑作『カルメン』はセビーリャの王立タバコ工場で葉巻を巻く女工カルメンを主人公としており、男たちは葉巻を吸い、女たちは紙巻き煙草を吸っている場面が描かれている。アメリカでは独立後の19世紀に入り、独特の「噛みタバコ」が発達した。第7代大統領ジャクソンも噛みタバコを好み、ホワイトハウスの中であたりかまわず唾を吐いたという。噛みタバコには様々な形状があり、「ツイスト」というのは文字どおりねじって紐状にしたもので、少しずつ削って噛む。大リーグの野球選手が噛みタバコを噛んではペッと吐き出している様子は現在でもなじみ深い。 → 煙草と塩の博物館 ホームページ 特に「タバコの歴史と文化」のページが参考になる。
Episode ミラノの煙草ストライキ
ミラノがオーストリアの支配下にあったウィーン体制の時代、「煙草ストライキ」といわれた暴動が起き、ミラノ蜂起のきっかけになった。それはミラノ市民が煙草(葉巻)の値上げに反発して,1848年元旦に一斉に禁煙、つまりタバコ・ボイコットをおこしたことに端を発する。驚いたオーストリア当局は、翌日オーストリア配下のクロアチア兵やハンガリー兵を街に繰り出させ、これ見よがしに煙草の煙を市民に吹きかけて徴発した。怒った市民が兵士を襲い反乱が始まり、一旦はオーストリア軍をミラノから排除して市政を握るという革命にまで発展した。結局はオーストリア軍に反撃されてミラノの蜂起は弾圧されてしまうが、それが1848年革命の民衆蜂起の一つとなった。Episode クリミア戦争と紙巻タバコ
俗説では紙巻タバコ(シガレット)が始まったのは、1853~56年のクリミア戦争からだという。トルストイの『セヴァストーポリ』にはセヴァストーポリ要塞の戦闘で、ロシアとフランスの将兵がタバコをつうじて交流する場面がでてくる。フランス兵がパイプの火をロシア兵に移してやり、戦闘の合間に手軽に喫煙するため、葉を紙に巻いて吸っている。しかし既にスペインでは中南米の先住民から紙巻タバコを採り入れており、それを「シガリリョ」と言っていた。ゴヤの絵にも紙巻タバコを吸う人物が描かれている。イギリスではフィリップ=モリスが、クリミア戦争から帰還した兵士たちの需要に応えるため、トルコ葉を用いたロシア風紙巻きタバコを製造・販売し、それが後のタバコ多国籍企業に成長する。世界のタバコ資本
19世紀末に、アメリカのデュークが紙巻タバコの高速巻上機を発明、大規模な機械生産が始まった。ついでイギリスにも紙巻タバコ製造会社が登場し、激しい国際競争が始まった。その結果、紙巻きタバコがタバコ消費量の多くを占めるようになったが、その反面、このころからタバコの健康への害に警鐘を鳴らす、反タバコ運動も始まり、またイギリス資本によるタバコ生産の独占に反発するイランのタバコ=ボイコット運動が1891年に起こっている。また、アメリカでは反独占の動きが強まり、セオドア=ローズヴェルト大統領はシャーマン反トラスト法を駆使して巨大トラストにいどみ「トラスト・バスター」の異名をとったが、彼が「悪しきトラスト」としてやり玉に挙げたのがデュークが創始した紙巻タバコの「アメリカン・タバコ社」だった。1907年に訴えられた同社は、長い裁判のすえ、1911年に連邦最高裁の判決でトラスト解体が命じられ、4社に分割されることになった。
中国と日本のタバコ
タバコが中国に伝来した時期は正確にはわからないが、文献上では17世紀初頭から現れる。そのルートはフィリピンから福建に伝えられたとする説、東南アジアから海路で広東に伝わったとする説、日本から朝鮮を経て遼東に至るルートだとする説、さらにインドシナ内陸から雲南へ、という説がある。史料では福建、広東経由とするものが多く、万暦(1573~1620)年末に「淡把姑(タバコ)」が福建に伝えられ、きざみタバコを長い管の先につめ、火をつけて吸うという東アジア独特の煙管(キセル)で喫煙するようになったと伝えている。さらに北方の軍事地帯に急速に広がり、長城の外では馬一匹と煙草一斤が交換されたという。崇禎16(1643)年には禁煙の令が出されたが、誰も守る者がなく、その頃には子どもも煙草を吸っていたという記録もある。浮世絵
日本では平戸のイギリス商館長コックスの1615年8月7日の日記に「これら日本人が男女児童を問わず喫煙に熱中するのをみると、不思議の感にたえない。しかも、煙草がはじめて用いられてから、まだ十年にもならないのである」と書いている。早くも慶長14(1609)年に煙草の禁令が出されている。禁令が出されたのは、日本も中国も、農民が煙草を栽培することで穀物生産が阻害されることが理由であったが、禁令にもかかわらず広がったのは、農民にとって煙草栽培が現金収入の手立てだったからである。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.66-70>