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コーヒー

エチオピア原産でイスラーム世界で拡がり、16世紀以降、世界の主要な交易品となった嗜好品。17世紀イギリスではコーヒーハウスが流行。18世紀以降はヨーロッパ諸国のアジア、南米などでプランテーションで生産された。

 コーヒーの木は年間を通して霜の恐れのない温暖な気候と、年間1200ミリの降雨量を必要とするので、ヨーロッパ大陸では栽培できない。亜熱帯の適当な高度の一帯が「コーヒーベルト」地帯といわれ、主に北半球の温帯に集中する先進国の需要をまかなっている。コーヒーの原産地はエチオピアであり、16世紀には紅海を渡ってアラビア半島のイエメンで栽培されるようになり、イスラーム教のスーフィズム(神秘主義)の信者が眠気を払い祈りに専念するために用い始めた。
 1536年、イエメンがオスマン帝国領となってから、イスラーム世界に広がり、1555年にはイスタンブルでコーヒーが普及しはじめ、「コーヒーの家」が多数作られるようになった。紅海の入り口に近いアラビア半島のモカが最初に盛んになった積出港である。

ヨーロッパに伝わる

 初めはレヴァント商人の東方貿易(レヴァント貿易)で、ついで17世紀からはオランダやイギリスの東インド会社によってヨーロッパにもたらされ、広く飲まれるようになった。イギリスではピューリタン革命から王政復古期に、ロンドンなどで「コーヒーハウス」が出現し、市民の情報交換の場となった。ウィーンでは1683年の第2次ウィーン包囲の時、オスマン帝国軍を撃退したが、トルコ軍の陣営の中にコーヒー袋が残されており、それを呑んだ男がカフェを開いたのが始まりだという伝説が生まれた(史実としては確かめられていない)。

コーヒープランテーションの拡大

 オランダ東インド会社セイロン島ジャワ島にコーヒーを移植し、1712年以降ヨーロッパに輸入するようになった。ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりもコストダウンに成功、ヨーロッパのコーヒー需要の中心となる。ついでフランスはハイチやマルティニーク島、イギリスはジャマイカなど、西インド諸島でコーヒー・プランテーションを作り、三角貿易でもたらされる重要な商品となった。ブラジルがコーヒーの産地として進出するのは19世紀からで、次第に他を圧倒するようになり、世界最大の産地となった。
 またドイツは東アフリカ植民地のキリマンジャロ山麓などで広大なプランテーションを設けコーヒー生産にあたった。ドイツ本国でもコーヒーの需要が増えたが、第一次世界大戦では物資不足から市民生活の中でコーヒーは生クリーム、砂糖とともに姿を消し、1918年のキール軍港の水兵反乱の際には食料庫のコーヒー豆が略奪されたという。<臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る』1992 中公新書 などによる>

Episode バッハのコーヒーカンタータ

 バッハには歌劇の作品はないが、カンタータという形式の歌手が扮装せずに掛け合うような作品がある。その中でよく知られた作品である『コーヒーカンタータ』は、1732~34年に作曲された。ちょうどそのころ、ライプツィヒでコーヒーが大流行し、依存症が社会問題化していた。バッハはさっそくこれを取り上げ、コーヒー好きの娘になんとかそれを止めさせようとする父親が口説く、という場面の音楽劇にした。父親がコーヒーを止めなければ結婚させないぞ、とおどすと困った娘はしかたなく従う。父は安心して婿を探しに行くが、娘はコーヒーを飲むのを許してくれる婿でなければ結婚しないと心に誓う。娘の心を知った父親は、最後はやっぱりコーヒーは止められないと一緒に歌う。特に娘がコーヒーを讃美するアリアがソプラノ歌手の見せ場(聞かせどころ)となっている。 → YouTube Johann Sebastian Bach: "Kaffeekantate" (Leipziger Medizinerkonzert, April 2016)
 “コッヒー!コッヒー!と叫ぶように歌うのを聞いていると、まさかバッハも21世紀にスターバックスの宣伝をすることになるとは考えなかっただろうと思うが・・・”

Episode コーヒールンバ

 “昔アラブの偉いお坊さんが、恋を忘れたあわれな男に、しびれるような香りいっぱいの、こはく色した飲みものを教えてあげました。やがて心ウキウキ、とっても不思議なこのムード、たちまち男は若い娘に恋をした”
と歌うのはご存じ(?)西田佐知子の『コーヒールンバ』。原曲はベネズエラのマンゾ=ペラーニが1958年に作曲、ウーゴ=ブランコのアルバ演奏で世界的にヒットしたもの。その歌詞にはコーヒーの起源の話が語られていたのでした。 → Uta-Net コーヒールンバ 西田佐知子

出題

 06年 センター本試 世界史B

アメリカ人とコーヒー

 イギリス植民地であった北アメリカでは、本国と同じように紅茶が愛飲されていた。しかし現在ではカナダでは相変わらず紅茶だが、アメリカ合衆国ではコーヒーの方がよく飲まれている。カナダではアメリカの4倍の紅茶が飲まれているという。愛国心の強いアメリカ人が紅茶を飲まなくなった歴史的起源は、1773年12月のボストンで起こったボストン茶会事件にさかのぼる。これは本国のジョージ3世がアメリカ向けのに課税して密輸を防ごうとしたことに反発して起こった「ティー・ジャック」だった。
 それでもジョージ3世が茶税を取り下げなかったので、ニューヨーク、フィラデルフィアなどで愛国派のアメリカ女性は午後のティーパーティで紅茶をボイコットするという抵抗運動を開始した。このアメリカ独立戦争のきっかけとなった事件以来、アメリカではコーヒーを飲むことが愛国的態度となった。ボストン茶会事件の策略はボストンのグリーン・ドラゴンというコーヒーハウスで練られ、独立宣言が最初に読み上げられたのはフィラデルフィアのマーチャンツ・コーヒーハウスだった。<ビル・ローズ『図説世界史を変えた50の植物』2012 原書房 p.30-「チャノキ」、p.57「コーヒーノキ」>
 今や世界的なコーヒーショップチェーンとなったスターバックスコーヒーは、1971年にシアトルで起業し、80年代に現在のスタイルの店舗を拡大して急成長した。トランプ大統領がメキシコ不法移民の国外退去を言い出したときには、移民の積極的採用を打ち出し、反トランプの姿勢を示した。その一方で、障害者排除や黒人客に対する差別的接客が問題になったこともある。最もアメリカらしい企業として注目されている。

ジャワ島のコーヒー

 オランダ(ネーデルラント連邦共和国)のオランダ東インド会社は17世紀にジャワ島を支配したが、次第に貿易から領土支配へと関心を変化させ、ジャワ島での商品作物の生産に力を入れるようになったが、そこで新しい作物として導入されたのがコーヒーであった。コーヒーを初めて味わったオランダ人は1616年にアラビアのモカに赴いたファン=デル=ブルークであるとされており、アムステルダムには17世紀の終わりごろまでは南アラビアのイェーメン地方産コーヒーに限られていた。ところがオスマン帝国がコーヒーの海外輸出を制限したため、1658年にはセイロン島で栽培が始められた。その後インドのマラバール海岸からジャワ島にコーヒーの苗木が送られ、何度かの失敗を経て、17世紀末にはジャワ島西部のバタヴィアの周辺での栽培に成功し、利潤も大きかったところから主要な商業作物となった。ジャワにおけるコーヒーは、他の砂糖、茶、綿、藍、ゴムなどと同じように、現地の農民に栽培と供出を義務づける義務供出制で栽培され、買い取り価格は会社が一方的に定めるものであった。
(引用)このほろ苦い飲み物ほどジャワの農業のあり方を、いやジャワそのものを変えたものはおそらくないであろう。その意味で、コーヒーと共に明けた18世紀はジャワに大きく脚光を当てたことになる。そしてその火が鮮やかなだけに、黒く彩られる陰の部分もまた限りなく暗かったと言うことができよう。<永積昭『オランダ東インド会社』1971 講談社学術文庫版 2000 p.171>