チャールズ2世
ピューリタン革命後のクロムウェル独裁が終わった後、王政復古によって即位したイギリス国王。カトリック復興を策し議会と対立した。
イギリス・ステュアート朝の国王(在位1660~85年)。チャールズ1世の子。ピューリタン革命で父が処刑されると、スコットランドにのがれて1651年スコットランド王を宣言。しかしクロムウェルのスコットランド遠征軍に敗れて、フランスに亡命。クロムウェル死後の1660年、ロンドンに戻り、「ブレダの宣言」を発して絶対王政の復活を否定したので議会は彼がチャールズ2世として即位することを承認し、同1660年5月、王政復古となった。 → イギリス(5)
議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。チャールズには継嗣がなく、同じくカトリックの弟ジェームズの王位継承を認めるかどうかで議会内に対立が生じ、ジェームズの王位継承を認めるトーリ党と、反対するホィッグ党という二つの党派がうまれる。結局、王位継承が認められジェームズ2世となるが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命となる。
・チャールズ2世はルイ14世の資金援助を得てイギリスのカトリック化を進める。
・イギリスはフランスのオランダ侵攻に併せてオランダを攻撃する。
しかしこの密約は議会の知るところとなり、国王のカトリックへの傾斜に対する反発が生じることとなった。
オランダの危機 密約の結果として、1672年にイギリス・フランスのオランダ侵攻が同時に始まった。これはフランスではオランダ戦争、イギリスでは第3次英蘭戦争にあたる。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)にとって最大の危機となったが、ウィレム3世(後のイギリス王ウィリアム3世)を中心にねばり強く抵抗し、独立を守った。
同じ1672年、チャールズ2世は国内では「信仰自由宣言」を出し、カトリック解放を図った。議会はそれに反対して、1673年に審査法を議決してカトリック教徒の官職就任を阻止した。このような議会の反対に遭いチャールズ2世はカトリック復帰を断念した。また議会は戦争に対しても御用金を支出することを否決し、第3次英蘭戦争でも海軍がオランダ海軍に敗れ、財政難から戦争を継続できず、オランダを屈服させることは出来なかった。
しかし、最後に問題があった。稀代の女性好きであったチャールズ2世には愛人との間に17人もの子どもがいた。ところが、ポルトガル王家から嫁いだキャサリン王妃(彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたという)との間には世継ぎが生まれなかったのである。このため弟のヨーク公爵(後のジェームズ2世)が王位継承者となったが、彼は公然たるカトリック信者だった。議会ではカトリック信者の王位継承を認めないという法案が上程された。「怠惰王」と渾名されていたチャールズ2世であったが、この時だけは貴族院に足繁く通い、法案を阻止しようとした。王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていた。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った。<君塚直隆『物語イギリスの歴史(下)』2015 中公新書 p.25-27>
ブレダの宣言
絶対王政への復帰を否定したチャールズ2世が王政復古の前の議会との約束。1660年、フランス亡命から戻ったステュアート家のチャールズが発したもので、新しい土地所有者の所有権の保障、革命関係者の大赦、信仰の自由、軍隊給与の支払いの保証など、つまり絶対王政を復活させないことを約束したもの。議会はこの条件を入れてチャールズのイギリス国王即位を認め、王政復古となった。しかし即位後のチャールズ2世は、ブレダの宣言に反してカトリックの復興をはかるなど、議会に対立して絶対王政の復活を策した。議会との対立
チャールズ2世は、1665年からは第2次英蘭戦争を起こした。1665年にはペストの流行、1666年はロンドン大火、オランダ海軍との四日海戦で敗戦が続いたが、この頃までは議会とも協力して難局を乗り切った。しかし、1670年にはフランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結び、カトリック信者としてその復興を策し、議会との対立を深めていった。チャールズ2世は自ら口に出さなかったが、密かにカトリックに改宗していたのだった。段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は、1672年に「信仰自由宣言」を出し、カトリックを公認しようとした。議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発して、1673年に審査法を制定、また1679年には人身保護法を制定して市民の権利の保護を図った。チャールズには継嗣がなく、同じくカトリックの弟ジェームズの王位継承を認めるかどうかで議会内に対立が生じ、ジェームズの王位継承を認めるトーリ党と、反対するホィッグ党という二つの党派がうまれる。結局、王位継承が認められジェームズ2世となるが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命となる。
ドーヴァーの密約
1670年、イギリスのチャールズ2世とフランスのルイ14世との間で結ばれた密約。チャールズ2世は赤字財政に苦しみ、密かに同じカトリック信者であったフランス王ルイ14世に財政援助を得ようとして、見返りに、スペイン王位継承の場合はルイ14世を支持すること、オランダ共和国とスペイン領南ネーデルラントを攻撃する場合には協力することを申し出た。一方のルイ14世は、当時オランダへの侵攻を計画中であり、オランダを屈服させるためにはイギリスの協力が必要であった。その結果結ばれた密約の要点は次のようなものであった。・チャールズ2世はルイ14世の資金援助を得てイギリスのカトリック化を進める。
・イギリスはフランスのオランダ侵攻に併せてオランダを攻撃する。
しかしこの密約は議会の知るところとなり、国王のカトリックへの傾斜に対する反発が生じることとなった。
オランダの危機 密約の結果として、1672年にイギリス・フランスのオランダ侵攻が同時に始まった。これはフランスではオランダ戦争、イギリスでは第3次英蘭戦争にあたる。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)にとって最大の危機となったが、ウィレム3世(後のイギリス王ウィリアム3世)を中心にねばり強く抵抗し、独立を守った。
同じ1672年、チャールズ2世は国内では「信仰自由宣言」を出し、カトリック解放を図った。議会はそれに反対して、1673年に審査法を議決してカトリック教徒の官職就任を阻止した。このような議会の反対に遭いチャールズ2世はカトリック復帰を断念した。また議会は戦争に対しても御用金を支出することを否決し、第3次英蘭戦争でも海軍がオランダ海軍に敗れ、財政難から戦争を継続できず、オランダを屈服させることは出来なかった。
Episode 「怠惰王」の最後のがんばり
1661年、チャールズ2世の戴冠式がウェストミンスター修道院で盛大に行われた。ピューリタン革命で中世以来受けつがれてきた王冠、王笏、宝珠はすべて溶かされ貨幣として鋳造されてしまっていたので、すべて新たに造り直さなければならなかった。新国王は父チャールズ1世のような野心は抱かず、日々の政治は大臣や議会に任せた。議会は一度を除き、毎年開催した。その治世には、1665年のペストの流行、翌1666年のロンドン大火(1666)、第2次英蘭戦争(1665~67)でのオランダ海軍との戦争での敗北があったが、議会の協力で乗り切った。しかし、最後に問題があった。稀代の女性好きであったチャールズ2世には愛人との間に17人もの子どもがいた。ところが、ポルトガル王家から嫁いだキャサリン王妃(彼女はイギリス宮廷に茶を飲む習慣をもたらしたという)との間には世継ぎが生まれなかったのである。このため弟のヨーク公爵(後のジェームズ2世)が王位継承者となったが、彼は公然たるカトリック信者だった。議会ではカトリック信者の王位継承を認めないという法案が上程された。「怠惰王」と渾名されていたチャールズ2世であったが、この時だけは貴族院に足繁く通い、法案を阻止しようとした。王の熱意が通り、法案は否決されたが、議会はヨーク公は子がなく、死ねばオランダ総督に嫁いだメアリかデンマーク王子に嫁いだアンがいずれも新教徒なので、どちらかを迎えればよいとたかをくくっていた。安心したチャールズは1685年2月6日に世を去った。慎重だった彼は、死の床で自らがカトリックであることを告げ、息を引き取った。<君塚直隆『物語イギリスの歴史(下)』2015 中公新書 p.25-27>