ワット
産業革命期のイギリスの発明家で、1760年代に蒸気機関の改良に取り組み、1784年にピストンの上下運動を円運動に転換する装置を開発、機械動力として実用化に成功し、新たな動力源を実現、産業革命に大きな功績を残した。
ジェームズ=ワット James Watt 1736-1819 はイギリスの産業革命を代表する発明家で、1769年に蒸気機関の改良を行って実用化し、特許を取った。さらに1784年に汎用的な動力源として工場や交通機関に使用できるように工夫し、数々の業績を上げた。
イギリスでは16世紀から家庭用暖房燃料として石炭の需要が急増していたが、炭坑での排水を行うポンプの改良が待たれていた。まず1708年にニューコメンが蒸気機関の原型となる気圧機関を発明し、1712年にバーミンガムの炭鉱で初めて実用化したが、1760年代までは、水をポンプで汲み出すという限られた目的で炭坑で使われているだけであった。数学器具製造業者ジェイムズ=ワットは、スコットランドのグラスゴウ大学からその模型を修理するよう依頼された。彼は気圧機関の主な欠陥が、蒸気の注入と凝縮が交互に行われることに原因しているのを知り、その改良に取り組んだ。
ワットの改良型蒸気機関 1781
ワットは試行錯誤の上、ピストンの上下運動を回転運動に転化させることに成功し、1781年に特許を取得した。これによって蒸気機関は単なるポンプから複動型で回転式の蒸気機関となり、原動機から発する動力をベルトでつなぐことで工場の機械を動かす動力に利用することができるようになった。つまり、ワットによる蒸気機関の改良によって、風力・水力・畜力・人力と言った農業社会段階の動力源に替わる、新たな動力源がえられたこととなった。機械制工場に安定した動力を提供することが可能となった。それが産業革命をさらに進展させることとなった。
イギリスでは16世紀から家庭用暖房燃料として石炭の需要が急増していたが、炭坑での排水を行うポンプの改良が待たれていた。まず1708年にニューコメンが蒸気機関の原型となる気圧機関を発明し、1712年にバーミンガムの炭鉱で初めて実用化したが、1760年代までは、水をポンプで汲み出すという限られた目的で炭坑で使われているだけであった。数学器具製造業者ジェイムズ=ワットは、スコットランドのグラスゴウ大学からその模型を修理するよう依頼された。彼は気圧機関の主な欠陥が、蒸気の注入と凝縮が交互に行われることに原因しているのを知り、その改良に取り組んだ。
蒸気機関の改良
(引用)そして1765年のある日曜日の午後グラスゴウの緑地を散歩していた時、彼は、突然あるインスピレーションのひらめきを覚えた。彼は別に一つコンデンサーを用いることによって、そのコンデンサーをいつも冷たくしておくと同時にシリンダーを常時熱くしておくことができるという解決法に思い当たったのである。数週間のうちに一つの模型が作られた。しかし、それを構造の完全な機関に仕上げるための技術的諸困難が克服されるまでには、なお多くの歳月が経過した。<アシュトン/中川敬一郎訳『産業革命』 岩波文庫 p.79>こうしてワットは1769年に、シリンダーと冷却装置を分離、蒸気力だけでピストンを上下させる蒸気機関を製造したが、それはまだポンプの限界を超えるものではなかったため、産業用の動力には向いていなかった。1771年にアークライトが最初に作った紡績工場も、ダービーシャ州の川沿いに立てられ、水力紡績機が用いられていた。しかし水力は川の水量の増減によって稼働率が変化してしまううえ、工場を労働力をえにくい都市から離れた川の側に立地させなければならなかったことから、自然条件によって変動せず、都市の近くに立地させることのできる安定したた動力源が求められることとなった。
複動型回転式蒸気機関の発明
ワットの改良型蒸気機関 1781
遅れた実用化
しかしワットの蒸気機関はまだこの段階では現代のものにくらべて巨大であり、効率も悪かったため、すぐに工場動力として導入されたわけではなかった。マンチェスターに最初の蒸気機関を動力とする紡績工場が作られたのは1789年のことであった。ワットの蒸気機関の改良はけして順調だったのではなく、途中何度か破産という試練を受けている。しかしの努力は産業革命を推進するもっとも重要な動力源をつくり出し、その名は、現在も電流の単位ワットとして残されている。Episode ワットの伝説と本当の業績
ワットが少年時代、鉄瓶の蓋が蒸気で持ち上がるのを見て、蒸気力に気付いたという話はあまりにも有名で、子どもの頃聞かされたに違いない。しかし、富塚清の『動力物語』(現在は『動力の歴史』として三樹書房から再刊されている)によれば(引用)ジェームズ・ワットは、グラスゴーに近いグリーンノックにおいて1736年に出生した。ニューコメンの死後七年、もう彼のエンジンは、実用され出してからすでに30年の日子を経て、一応の評価を得ていた。だから、少年読み物などによく出ていた、ワットの少年時代の逸話、鉄瓶の蓋のことは、作り話と見るのが正しいだろう。もうそのヒントは不用だったのである。ただし、少年時代にそれを見て、「ほほ!」と思ったくらいのことはあったかもしれない。まあこれは“ニュートンの林檎”なみのお話と思えばよい。<富塚清『動力物語』1980 岩波新書 p.59/『動力の歴史』2002 三樹書房として再刊>ワットの蒸気機関の改良という業績は、熱機関を汎用的な動力として実用化し、繊維産業その他の産業、鉄道・基線への利用を通じエネルギー革命(第1次)をもたらしたことに尽きるが、それが現代の地球温暖化などの環境問題の始まりとなったという功罪は論じても仕方がないことであろう。ワットの業績は蒸気機関にとどまらない。「工学の基礎固めの各種の仕事」をしている。
(引用)その中のもっとも著名なものが、動力の観念及びその測定方法の確立、目安として馬力の制定である。今日。馬力は廃止されたが、その代わりとして彼の名に因むワット、キロワットが公認となっている。これで蒸気機関そのものは、身辺から消滅したものの、彼の名は生き残り、家庭での日常語となった。<富塚清『動力物語』p.58>ほかに遠心調速機、気筒内圧測定装置(インジケーター)などなど、今日残っているものである。