アメリカ連合規約
1777年に大陸会議で採択され「アメリカ合衆国」の国号を決定。1781年3月に発効し、アメリカ合衆国憲法が施行される1788年まで、合衆国の最高法規(憲法)とされた。
アメリカ連合規約 Articles of Confederation は、大陸会議において1776年から審議が始まり、1777年に採択された。次いで、順次13ステーツ(=邦。旧13植民地)の承認を得た後、1781年3月に発効した。その後、1788年のアメリカ合衆国憲法の発効によって失効するまで8年間のアメリカ最高の法規であった。
第1条に「本連合をアメリカ合衆国と称する」と規定された。こうして正式に発足したアメリカ合衆国は、主権・独立・自由を有する13の邦(ステーツ)からなる連合国家であり、各邦の代表によって構成される連合会議は、宣戦と講和・外交使節の交換・条約の締結などの外交権を持つこととなった。13植民地から始まったステーツは「邦」または「州」と訳されるが、日本でのアメリカ史の記述では一般に、1781年のアメリカ連合規約発効の後を「邦」、アメリカ合衆国憲法制定後を「州」として区別している。
しかしその後も西部の新領土の帰属、さらにそこに黒人奴隷制を認めるかどうかが、新たに発足した連合会議で激しく議論がなされることになった。連合会議は1787年、ハミルトンの提案によって憲法制定会議を発足させ、同年9月にアメリカ合衆国憲法が成立、88年に施行されたことによって、アメリカ連合規約は役割を終えた。
第1条に「本連合をアメリカ合衆国と称する」と規定された。こうして正式に発足したアメリカ合衆国は、主権・独立・自由を有する13の邦(ステーツ)からなる連合国家であり、各邦の代表によって構成される連合会議は、宣戦と講和・外交使節の交換・条約の締結などの外交権を持つこととなった。13植民地から始まったステーツは「邦」または「州」と訳されるが、日本でのアメリカ史の記述では一般に、1781年のアメリカ連合規約発効の後を「邦」、アメリカ合衆国憲法制定後を「州」として区別している。
過渡的な最高法規
アメリカ連合規約は、議決は各邦1票、重要な決定については全邦一致で決定とされていたため、迅速な問題解決ができず、また中央政府である連合会議(大陸会議を継承)は外交権は付与されたが課税権や徴税権を持たず弱体であったため、より強力な中央政府の創設を主張する声が強くなっていく。連合規約のもとにあった8年間を「危機の時代」とも言う。(引用)独立が宣言された後、大陸会議は直ちに中央政府の実験を開始した。ペンシルヴェニアのジョン=ディキンソンは、州にわずかな権力しか与えない強力な中央政府制度を提案した。だが、彼の同僚の中には、そのような制度は彼らがようやく打倒した専制政治に似すぎていると考える者もあった。対抗案として彼らが提案した「連合規約」 Articles of Confederation では、中央政府の権力をことさらに弱めてしまった。連合規約の下では、中央政府は裁判所も、行政上の指導権も、交易や通商を取り締まる権限も、州に請求する以外に独立した歳入源も与えられていなかった。さらに大部分の重要な問題については、連合に参加する、すべての州の同意が必要とされた。この背骨を抜かれた中央政府案は1777年11月に諸州に提示され、ようやく全州の承認が得られた1781年3月1日、施行される運びとなった。<R=ナッシュ・G=グレイブス/足立康訳『人物アメリカ史』上 トマス・ジェファソン p.127-8>
批准がおくれた理由
アメリカ連合規約が、1776年7月のジョン=ディキンソンの起草した原案が大陸会議に報告され、翌年11月から批准のために13の邦(ステーツ)に回された。しかしの批准は81年3月までの5年近い時間が必要であった。批准にこのような長時間を要したのは、アパラチア山脈の西に広がる広大な西部領土の領有権について、それを連合全体に帰属させようとする意見に対して、複数の邦がその領有権を主張したからである。その背景には土地投機業者の思惑がうごめいていた。最終的には新領土は連合全体に帰属することが決まり、ヴァージニア、ニューヨーク、コネティカットの各邦がオハイオ川以北の土地の領有権を移譲することを約して(コネティカットは一部を保有した)、メリーランドが最後に批准して成立した。<紀平英作編『アメリカ史』世界各国史24 1999 吉川弘文館 p.82>しかしその後も西部の新領土の帰属、さらにそこに黒人奴隷制を認めるかどうかが、新たに発足した連合会議で激しく議論がなされることになった。連合会議は1787年、ハミルトンの提案によって憲法制定会議を発足させ、同年9月にアメリカ合衆国憲法が成立、88年に施行されたことによって、アメリカ連合規約は役割を終えた。