世界史用語解説 授業と学習のヒントappendix list

世界史用語解説

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コンドルセ

フランス革命期の思想家、科学者。公教育の世俗化、民主化と平等化の推進を主張した。ジロンド派としてジャコバン派独裁政府によって排除され、自殺した。

エベール
Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet (1743-1794)
Wikimedia Commons
 コンドルセ Condorcet 1743-1794 は、フランスの百科全書派を継承する啓蒙思想家であり、数学者でもあった。科学アカデミーの書記として活躍していたが、フランス革命が始まると、シェイエスらとともに1789年協会を設立して、1791年からは立法議会の議員に選出されて、革命政府の諸政策立案に関わった。

ジロンド派として教育改革にあたる。

 特に公教育については実施には至らなかったが政治権力から自立した義務教育機関の設立を盛り込んだ「教育計画」を提案した。次いで国民公会議員にも選出され、ジロンド派の共和主義の理論家として活躍した。
 国民公会では新たな憲法草案の作成にあたり、当時フランスに来ていたアメリカ独立革命の指導者トマス=ペインの協力を得て、長大な憲法原案を作成した。それは王政を完全に否定し、厳格な分権制を盛り込んで、行政権を持つ《執行府》の大臣は立法府から独立して国民が直接選ぶ(しかも毎年半数改選)とした。ジャコバン派はそれを「大臣による王政」として反対した。

ジャコバン派と対立、逮捕される

 コンドルセは国民公会で前国王16世の処刑に反対し、ジャコバン派との対立が明白になった。ジロンド派が国民公会から追放された後に制定された1793年憲法(ジャコバン憲法)にも反対したため逮捕状が出された。そのため逮捕を逃れて逃亡生活を送ったが、1794年、ついに逮捕され、獄中で自殺した。コンドルセは「最後の百科全書派」と言われ、逃亡中に書いたその著書『人間精神の進歩の歴史』は「18世紀の遺書」といわれている。

コンドルセの教育論

 数学者としても業績を残しているコンドルセであるが、近代的な公教育の理念を打ち立てたという点でも重要な人物である。革命の過程でジロンド派として失脚し、その教育計画はすぐには実現しなかったが、ナポレオン期・王政復古反動期を経て、19世紀のフランスで義務教育の無償化などが実施されたこと生きたことになる。コンドルセの教育論には次のように要約されている。
(引用)コンドルセは『人間精神進歩の歴史』という社会哲学的遺作でも知られているが、彼のプランで最も注目されるのは、教育の政治権力からの独立を強調している点である。コンドルセの知育中心主義は、エリート主義の主張ではなく、教会権力による宗教教育や国家権力によるイデオロギー教育の拒否を意味している。「およそ、教育の第一条が真理のみを教えることにある以上、公権力が設立した教育機関は、一切の政治的権威からできるかぎり独立していなければならない」。
 そのため彼は「社会の義務としての公教育」を説き、就学義務の強制は主張しない。また、教育の機会均等を重視し、初等教育と中等教育とのあいだに横たわる深淵を取り払うことを主張する。すなわち、19世紀に支配的であった複線型ではなく、今日にみられるような単線型の公教育システムを、無償制として提唱している。この主張は、近代公教育論の一範型を示すものであり、今日ではごく穏当な見解であるように思われよう。だが、政治的イデオロギー渦巻くこの時期にあっては、まことに冷静かつ勇気ある行為といわねばならない。<谷川稔『十字架と三色旗』2013 岩波現代文庫 p.106>
 しかしジャコバン派政権=ロベスピエール独裁政権は、「新しい公民」を国家が統制する徳育教育で推し進めるというルペルチエやサン=ジュストの主張を支持し、コンドルセの提案は否定された。1793年5月30日、初等学校設置法が採択され、同年末にはこの無償・義務教育法も可決されたが、その教育の精神的な方向は、徳育中心論者ブキエの線に沿ったものだった。