イタリア遠征
1796年、総裁政府のもとでナポレオンが行ったオーストリアなどとの戦い。この第1次遠征で大きな勝利を占め、北イタリアをオーストリアから解放、その名声が高まった。翌年、カンポ=フォルミオの和約で戦闘を終えた。その後、エジプト遠征では当初の軍事的成功をおさめたものの、エジプト支配には失敗したため急遽帰国、1799年、総裁政府の弱体化を突いてブリュメール18日のクーデタに成功、統領政府を樹立して第一統領となり独裁権力を握った。さらに軍事的成功を得るため、1800年5月、第2次遠征をアルプスのサン=ベルナール峠越えのルートで敢行し、翌月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に大勝し軍事的権威を高めた。
第1次イタリア遠征
フランス総裁政府によって派遣されたわずか26歳のナポレオンは、1796年4月、フランス軍実数約2万5千を率いてアルプスの南の海岸線を進んでイタリアに入り、オーストリア・サルデーニャ王国連合軍7万と対峙した。12日、サヴォイアの近郊モンテノッテでオーストリア軍を破ると、28日サルデーニャ王が休戦申し入れ、サヴォイアとニースをフランスに割譲、300万リラの戦争賠償金を払い、ピエモンテ(北イタリア)へのフランス軍の通過を認めるなどの条件を飲んだ。5月にはミラノに入城し、さらにロンバルディアを押さえ、さらにヴェネト地方に進出し、オーストリア軍からボローニャなどの都市を解放した。注意 イタリア戦争とイタリア遠征 ナポレオンの「イタリア遠征」(イタリア戦役ともいわれる)は、この1796年の第1次と、1800年の第2次がある。有名なアルプス越えを行ったのは第2次の時。なお、フランス王のイタリア遠征には、1494年のシャルル8世のナポリ遠征と1521年のフランソワ1世の侵攻(この時はカール5世と戦い敗れた)があるが、こちらはイタリア戦争と言っている。こちらもイタリア戦役と言われることもあるのでややこしいが、一般に「イタリア遠征」というのはナポレオンの2次にわたる出兵のことをいう。15~16世紀と18~19世紀なので時代は離れているが、用語の区別に留意しよう。またこれらはいずれもイタリアの歴史でも重要な事項なので、注意しよう。
イタリア統一への刺激となる
ナポレオンは平定した北イタリアにシスパダーネとチザルピーネという二つの共和国をつくり、1797年10月にオーストリアのフランツ2世との間でカンポ=フォルミオの和約を結んで戦闘を終えた。この和約でヴェネツィアはオーストリアに割譲されることとなり、その自治共和国としての歴史を終えた。翌11月にはナポレオンはイタリアを去ったが、この短い遠征はイタリアに大きな影響を与え、各地に君主政に代わる共和政の樹立と、統一国家の形成を求める声が強まり、イタリア統一運動(いわゆるリソルジメント)の第一歩となった。また、これ以後のヨーロッパに嵐のごとく吹き荒れるナポレオン戦争の幕開けであった。 → イタリア(フランスによる支配)参考 『パルムの僧院』
スタンダールが描くナポレオンのイタリア遠征 スタンダールの代表作の一つ『パルムの僧院』(1830年作)の冒頭で、ナポレオン軍のミラノ入城について、次のように述べている。(引用)1796年5月15日、ボナパルト将軍は、ロティ橋を渡ってカエサルとアレクサンドロスがいくたの世紀を経て一人の後継者をえたことを世界に知らしめたばかりの、あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った。イタリアが数ヶ月にわたって見てきた勇気と天才の奇蹟は眠っていた民衆の目を覚ました。・・・・(その日)、全国民はいままで自分たちが尊重していたあらゆることは、じつにばからしく、ときにはいとわしいことだと知った。オーストリアの最後の連隊が撤退すると同時に旧思想はまったく没落し、命を敢然と投げ出すことが流行しだした。数世紀間を味もそっけもない気持で過ごした後、幸福になるためには祖国を現実的な熱情をもって愛し、英雄的な行為を求めなければならないことを人々はさとった。カルロス5世とフェリペ2世の猜疑心の強い専制政治によっていままで深い闇におしこまれていたのだ。その像をひっくりかえした。と、人々はたちまちかがやかしい光につつまれた感じだった。<生島遼一訳『パルムの僧院』 スタンダール全集(人文書院刊) p.7>
エジプト遠征失敗とブリュメール18日のクーデタ
イタリア遠征で勝利し、凱旋将軍としてパリに帰還したナポレオンは、次に総裁政府からイギリス方面の総司令官に任命された。イギリスを攻撃する前に、イギリスのインド支配に打撃を与えることが必要と考えたナポレオンは、エジプト遠征を開始、1798年7月にアレクサンドリアに上陸した。その迅速な行動はナポレオンの軍事指導者としての名声をさらに高めたが、エジプトでは現地の抵抗が強く、またイギリス海軍の反撃もあって、必ずしも成功とは言えず、ナポレオンは99年10月に帰国した。しかし、総裁政府の混乱が続くなか、1799年11月のブリュメール18日のクーデタでナポレオンが権力を握り、フランス革命の終結を宣言して自ら第一統領に就任、実質的な独裁政権を樹立した。第2次イタリア遠征
第一統領となったナポレオンであったが、その権力は不安定だった。国内には独裁に反対する共和派、ブルボン朝復活を画策する王党派が活動し、国外では対仏大同盟(第2回)に包囲されている状態だった。権力を確立するためには再び軍事的な成功が必要であると考えたナポレオンは、オーストリアが北フランスで攻勢を強めていたことを口実に、第2回イタリア遠征を実行した。第1回では海岸線からイタリアに入ったが、今回はアルプス山脈を越えてオーストリア軍を奇襲する戦略を立て、1800年5月8日、自ら軍を率いてサン=ベルナール峠に向けてパリを出発した。5月とはいえ雪の降る峠を大軍で通過するという困難な行軍を成功させ、不意を突かれたオーストリア軍が撤退する中、6月2日にはミラノに入った。なお、このとき、ナポレオンが「余の辞書に不可能という文字は無い」と言ったというが、史料ではその発言は確認できていない。またこの時、画家ダヴィドに描かせた『サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』の勇壮な絵は、ナポレオンのイメージ作戦に役立ち、「アルプス越えの英雄」としてのナポレオンのイメージが固定されることとなった。
6月14日にはジェノヴァの東方でのマレンゴの戦いとなった。オーストリア軍も態勢を整えて優勢となり、フランス軍は一時、敗色が濃くなってパリにはナポレオン敗北のうわさが届いたため、反ナポレオン派は勢いずいたが、退却命令を出さずに戦場にとどまったナポレオンが局面を逆転させることに成功し、勝利を収めた。
「戦争は政治の延長」 ナポレオンは「わが権力はわが名誉に由来し、名誉は予のもたらす戦勝に由来する。予の権力は、その基礎としてさらに新しい名誉と戦勝をつけくわえなければ、失墜するであろう。征服が予の現在を作り、征服のみが予を維持することができる。」といったという。ナポレオン戦争に従軍した経験から、『戦争論』を著した軍事史家クラウゼヴィッツが「戦争は他の手段をもってする政治の延長にほかならない」と言ったことがあてはまっている。<井上幸治『ナポレオン』1957 岩波新書 p.74>
マレンゴの危機から権力確立へ
この苦戦はナポレオンにとって「マレンゴの危機」であり、パリではブルボン朝復活運動やジャコバン派の反ナポレオンのテロ事件が続いた。ナポレオンは事件の容疑者を次々と逮捕、死刑や流刑に処して取り締まった。そのような社会不安に対する政策としてナポレオンはカトリック教会との和解に乗り出し、1801年にローマ教皇と宗教協約(コンコルダート)を結び、さらに対外的には1802年にはイギリスとの講和であるアミアンの和約を成立させた。ナポレオンは、二度のイタリア遠征という軍事行動での勝利をテコにして独裁権力を確立し、コンコルダートによる旧勢力との一定の妥協、アミアンの和約によるイギリスとの対決の回避によって支配を安定させたと言うことが出来る。