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イタリア遠征

1796年、総裁政府のもとでナポレオンが行ったオーストリアなどとの戦い。大きな勝利を占め北イタリアを解放、その名声が高まった。翌年、カンポ=フォルミオの和約で戦闘を終えた。

 フランス総裁政府によって派遣されたわずか26歳のナポレオンは、1796年4月、フランス軍実数約2万5千を率いてアルプスを越えて、オーストリアサルデーニャ王国連合軍7万と対峙した。12日、サヴォイアの近郊モンテノッテでオーストリア軍を破ると、28日サルデーニャ王が休戦申し入れ、サヴォイアとニースをフランスに割譲、300万リラの戦争賠償金を払い、ピエモンテ(北イタリア)へのフランス軍の通過を認めるなどの条件を飲んだ。5月にはミラノに入城し、さらにロンバルディアを押さえ、さらにヴェネト地方に進出し、オーストリア軍からボローニャなどの都市を解放した。

イタリア統一への刺激となる

 ナポレオンは平定した北イタリアにシスパダーネとチザルピーネという二つの共和国をつくり、1797年10月にオーストリアのフランツ2世との間でカンポ=フォルミオの和約を結んで戦闘を終えた。この和約でヴェネツィアはオーストリアに割譲されることとなり、その自治共和国としての歴史を終えた。翌11月にはナポレオンはイタリアを去ったが、この短い遠征はイタリアに大きな影響を与え、各地に君主政に代わる共和政の樹立と、統一国家の形成を求める声が強まり、イタリア統一運動(いわゆるリソルジメント)の第一歩となった。また、これ以後のヨーロッパに嵐のごとく吹き荒れるナポレオン戦争の幕開けであった。 → イタリア(フランスによる支配)

参考 『パルムの僧院』

 スタンダールが描くナポレオンのイタリア遠征 スタンダールの代表作の一つ『パルムの僧院』(1830年作)の冒頭で、ナポレオン軍のミラノ入城について、次のように述べている。
(引用)1796年5月15日、ボナパルト将軍は、ロティ橋を渡ってカエサルとアレクサンドロスがいくたの世紀を経て一人の後継者をえたことを世界に知らしめたばかりの、あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った。イタリアが数ヶ月にわたって見てきた勇気と天才の奇蹟は眠っていた民衆の目を覚ました。・・・・(その日)、全国民はいままで自分たちが尊重していたあらゆることは、じつにばからしく、ときにはいとわしいことだと知った。オーストリアの最後の連隊が撤退すると同時に旧思想はまったく没落し、命を敢然と投げ出すことが流行しだした。数世紀間を味もそっけもない気持で過ごした後、幸福になるためには祖国を現実的な熱情をもって愛し、英雄的な行為を求めなければならないことを人々はさとった。カルロス5世とフェリペ2世の猜疑心の強い専制政治によっていままで深い闇におしこまれていたのだ。その像をひっくりかえした。と、人々はたちまちかがやかしい光につつまれた感じだった。<生島遼一訳『パルムの僧院』 スタンダール全集(人文書院刊) p.7>