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カンポ=フォルミオの和約

1797年、イタリア遠征を敢行したナポレオンがオーストリア軍を破り、締結した講和条約。北イタリアなどでフランスとオーストリアの勢力圏を分割した。

 フランス革命の末期の1797年10月総裁政府のもとで、ナポレオンイタリア遠征を行い、オーストリア軍を撃破した。ナポレオン軍がウィーンに迫る中、オーストリアはナポレオンとの講和に応じ、カンポ=フォルミオの秘密和約が成立した。カンポ=フォルミオ Campo Formio は北イタリアの都市。

ナポレオンが単独で締結

 カンポ=フォルミオの和約は、出先の軍司令官ナポレオンが単独でオーストリアと結んだ秘密和約であった。その内容は、フランスはライン川左岸と、オーストリア領ネーデルラント(南ネーデルラント、後のベルギー)、および※イオニア諸島を獲得。またオーストリアは、ナポレオンが北イタリア(ミラノ)に作ったチサルピナ共和国を承認した。その代わりに、ヴェネツィアはオーストリア領とすることが決められ、これによってヴェネツィアは共和国としての歴史に終止符を打った。
イオニア諸島とは地中海の一部、イオニア海に浮かぶ島々。現在はギリシア領。古代ギリシアのエーゲ海西岸のイオニア地方ではない。このイオニア海にあるイオニア諸島をナポレオンがフランス領としたのは、後のエジプト遠征へ布石であったのだろうか。
意義 この和約によって、1792年の対オーストリア開戦以来のオーストリアとの戦争はいったん終わり、オーストリアが敗北してこの和約の締結となったため、第1回対仏大同盟(1793年~)が瓦解することとなった。
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