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総裁政府

1795~99年のフランス共和政の行政府。1794年のテルミドールのクーデタでロベスピエールのジャコバン派政権が倒されて成立した。翌年の憲法によって共和政は継承されているが、有産者に限定する制限選挙を基盤としたブルジョワの代表として5人の総裁による集団指導体制が取られた。しかし王党派・急進共和派などの動きで政情不安定が続き、軍人ナポレオンの台頭を許し、1799年にブリュメール18日のクーデタで倒され、統領政府が成立した。

 フランス革命で成立した第一共和政の後半、1794年7月のテルミドールのクーデタでジャコバン派がたおされた後の、1795年憲法によって成立したフランス共和政下の政治体制。1795年10月から1799年11月まで存続した。
 政府は5人の総裁 Directoire からなる集団指導体制がとられ、250名の議員からなる元老会と下院にあたる五百人会の二院制がとられた。五百人会の選挙は財産資格による制限選挙に戻された。1795年憲法は私有財産の不可侵を掲げ、財産資格による制限選挙でブルジョワ有産者階級の利益を守り、王政への復帰とジャコバン独裁の再現のいずれをも防止することをはかった。

95年憲法と王党派の反乱

 テルミドールのクーデタ(1794年7月)から総裁政府発足(1795年10月)までの間には次のような経緯がある。
 1795年憲法は1795年3月に国民公会で採択された。この憲法はフランスで施行された最初の共和制憲法であったが、下院にあたる五百人会の議員は普通選挙ではなく直接税を納付する男性だけであり、有産市民・地主の利益を守るものであった。しかも国民公会は、王党派や旧ジャコバン派の当選を阻止しようとして、新議会の3分の2は現議員からえらばなければならないと決定した。
ヴァンデミエールのクーデタ この決定に対して、特に王党派が強く反発し、1795年10月、パリ市民を武装させて蜂起し、権力の奪取を図った。国民公会はバラスに鎮圧を命じたが、十分な武力を持たず、危機に陥った。バラスはそのとき、26歳の軍人ナポレオンを副官に任じ、鎮圧にあたらせることにした。ナポレオンは砲兵隊を指揮して反乱軍を撃退することに成功した。この王党派による「ヴァンデミエールのクーデタ」を鎮圧したことでナポレオンの存在は中央政界で知られるようになり、「ヴァンデミエール将軍」の渾名がつけられた。次いでナポレオンは国内軍最高司令官に抜擢され、その後の急速な台頭のきっかけとなった。

総裁政府の発足

 王党派のクーデタを鎮圧することに成功した後、10月21日~27日に両議会の選挙が終わり、国民公会は解散して、約500人からなる新たな議会が発足した。新議会は「右派の議員が過半数を占め、そのなかには自認王党派・隠れ王党派も多数いた。」<J.ゴデショ『フランス革命年代記』p.154>
 発足した議会の下院にあたる500人議会によってつくられた50人の候補者のリストに基づき、上院にあたる元老議会は行政府の長である5人の総裁を選んだ。バラス、ラ=レヴェリエル=レポ、ルベル、ルトゥルヌール、シェイエスである。シェイエスは自分の手になる憲法草案が国民公会で拒否されたのが不満で断り、カルノに代わった。5人の総裁は全員、ルイ16世の死刑に賛成した者であった。この総裁政府の下に、司法、内務、外交、陸軍、海軍、財政からなる閣僚が選ばれた。<J.ゴデショ『同上書』p.158>
フリュクチドールのクーデタ しかし、総裁政府は常に、左右両派から脅かされることとなった。1797年3月の選挙(財産による制限選挙)でも王党派が多数を占めたので、危機感を持った総裁政府は9月に軍隊を動員して王党派議員を逮捕するというフリュクチドール(実月)のクーデタを実行した。

バブーフの陰謀

 総裁政府の統治を脅かすのは右派だけでなく、フランス革命を進化させ徹底的な社会変革に向かうべきであるという左派の動きもあった。フリュクチドールのクーデタの前、1796年の春には、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑でバブーフらが逮捕された。これがバブーフの陰謀と言われた事件で、バブーフは捕らえられて処刑されたが、共産主義の運動の先駆とも言われている。危機感を強めた総裁政府は、1798年5月には今度は左派の議員を議会から排除するというフロレアル(花月)のクーデタを実行した。しかし、1799年6月には議会で左派が台頭し、総裁の二人が排除されるというプレリアル(草月)のクーデタが起こった。

ナポレオンの台頭

 1793年に王党派とイギリスによって占領されていた海軍基地トゥーロンを奪回したことで知られる、コルシカ出身の若い軍人ナポレオン=ボナパルトの存在がにわかに注目されるようになった。ナポレオンはロベスピエール派と見なされて一時不遇であったが、国民公会の有力者バラスに近づいて1795年10月に起こった王党派のヴァンデミエールのクーデタを鎮圧し、総裁政府成立後はフランス軍の将校として復活していた。ナポレオンはフランスの国威を発揚し、総裁政府の権力を強めるために、当時実質的にオーストリアに支配されていた北イタリアを解放することをかかげてフランス軍を侵攻させることを提案した。あいつぐクーデタ騒ぎで政情不安が強まり、また対外的な戦争でも不利な情勢が出てきたため、総裁政府は外交面で強力な方針を打ち出し、国民の支持を得る必要なでてきたことから、ナポレオンのイタリア侵攻策を採用した。

イタリアとエジプトへの遠征

 1796年4月からナポレオンの指揮するイタリア遠征(第1回)が開始され、フランス軍は海岸沿いに侵攻して5月にはミラノに入城、さらに11月にはアルコーレの戦いでオーストリア軍を撃破して北イタリア支配を達成した。
 軍事指導者としての揺るぎない地位を獲得したナポレオンは1798年5月にはエジプト遠征を開始し、アレクサンドリアやカイロを占領するという成果を挙げた。実際には陸上ではオスマン帝国のマムルークの抵抗でシリア遠征に失敗し、また海戦ではネルソンの率いるイギリス海軍にアブキール湾の戦いに敗れているが、ナポレオンの名声は高まった。

ナポレオン独裁体制への転換

 ナポレオンは第2回対仏大同盟の結成によって本国に危機が生じたという理由で秘密裏に帰国し、より強力な政権を望むブルジョアの支持を背景にして権力の奪取に動いた。1799年11月のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、自ら第一統領に就任して統領政府を樹立した。このクーデタは、共和政を目指して進んできたフランス革命を終結させ、国民が皇帝を選出するという形での独裁政治へとフランスが転換することを決定づけた。