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コルシカ島

地中海の島で現在はフランス領。古代にはローマの属領、ゲルマン人の諸国の支配を受けた後、ジェノヴァ共和国領となる。18世紀にジェノヴァから独立運動が起きたが結果的にフランス領となった。1769年にナポレオンが生まれた。

コルシカ島・サルデーニャ島

コルシカ島とサルデーニャ島 YahooMap

 コルシカ島 Corsica(フランス語では Corse)は、地中海に浮かぶ島の一つで、フランスに最も近い。その南にサルデーニャ島がある。中心都市は現在は西岸のアジャクシオ。
 古代にはフェニキア人、ギリシア人が渡来し、交易が行われていたが、カルタゴの勢力圏となった。ポエニ戦争でローマの支配が及び、シチリア島、サルデーニャ島に続き紀元前231年に属州となった。5世紀の民族移動期にはヴァンダル人に征服され、その後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、ランゴバルド王国と支配者が代わった。774年、ランゴバルド王国がカール大帝に滅ぼされ、トスカナ辺境伯が置かれるとコルシカもその一部となった。

ジェノヴァ領となる

 9世紀にはイスラーム勢力が侵攻し、11世紀までその支配を受けたが、1077年にグレゴリウス7世は、コルシカはカール大帝からローマ教皇に寄進されているとして、ピサ司教を派遣して統治にあたらせた。しかしイスラーム勢力を排除することに成功したジェノヴァ共和国がコルシカの支配権を握るようになり、14世紀半ばからには領土として支配を続けた。

独立運動とフランスへの売却

 18世紀に入ると、コルシカではジェノヴァからの分離独立運動が始まり、1729年からたびたび反乱が起こった。 パスカル=パオリに率いられた独立運動は1755年には島の行政権を獲得するなど力をつけ、ジェノヴァは対応に困り、1768年、ルイ15世のフランスにコルシカを売却してしまった。フランスは軍隊を派遣してパオリの独立運動を弾圧、パオリはイギリスに亡命した。これはヨーロッパ中の関心と同情を集めた。フランスは住民の反抗を抑えるため、養蚕業を奨励したので桑の栽培などの農園がひろがった。その後、フランス革命の混乱に乗じて、パオリはイギリス海軍の支援を受けてコルシカ島にもどり、独立の気運が再び高まったが、イギリスは独立を認めず、結局1794年2月から96年11月まで保護領として支配した。パオリは失意のうちに1807年にロンドンで死んだ。

ナポレオンの故郷

コルシカ ナポレオンの生家
コルシカ アジャクシオのナポレオンの生家。19世紀の絵画
Napoleon A Biographical Companion p.69
 ナポレオンのボナパルト家は、北イタリアから16世紀初めにコルシカに移住して地主となった家で、ナポレオンの父のカルロは農園を経営してはじめは独立運動に加わったが、フランス王が介入してくるとそれに協力したことによって貴族の称号を与えられた。コルシカ独立運動が失敗に終わった翌年の1769年8月15日、ナポレオンはカルロ=ボナパルトの子としてにコルシカの中心都市アジャクシオで生まれた。その生家は現在も残されており、記念館になっている。
 1779年、10歳のナポレオン少年は家族と共にコルシカを離れ、ブーリエンヌ陸軍幼年学校に入学した。ナポレオンはコルシカがフランス領に戻ってから、1799年に3日間だけ滞在しただけで、その後は足を向けることはなかった。

Episode コルシカのマキ

 コルシカ島に広がっている灌木の密林をマキといい、そこに盗賊が逃げ込むと逮捕は不可能になると言われていた。マキの生い茂る「山へ逃げこんだ男」、つまりお尋ね者はバンディット bandit といわれた。
 『カルメン』の作者として知られるフランスの作家メリメは、ナポレオン3世時代に文化財保護の技官としてコルシカを訪れ、その体験から幾つかの作品を残しているが、その一つの短編『マテオ・ファルコネ』にはこのマキを舞台とした話である。
(引用)マキ(雑木林)はコルシカの羊飼いたちの故郷である。のみならず、およそ司法権と事を構えたものの逃れ行く故郷である。・・・もしも諸君が人殺しか何かやったなら、ポルトーヴェッキオのマキへ逃げこむがよろしい。上等の小銃が一挺と火薬と弾丸さえあれば安心して暮らしていける。・・・<メリメ/杉捷夫訳『マテオ・ファルコネ』 岩波文庫『エトルリヤの壺』所収 p.11-12>
 マキに隣接する家に住むマテオ・ファルコネは10歳の息子フォルチュナトに留守番をさせて家畜の羊を追いにマキに入った。息子が一人で留守番をしているところに、マキに隠れていたお尋ね者が町に出たところを警邏隊に見つかって逃げこんできた。息子はお尋ね者を納屋に匿ったが、追っ手の警邏隊隊長の時計をやるという言葉に釣られて隠し場所を教えてしまう。お尋ね者が捕まったところにちょうど父が帰ってくる。そして息子の裏切りでお尋ね者が捕まってしまったことを知った父親は、裏切り者はおれの子ではないといって・・・、と言う物語。マキに隠れ住む無法者たちの堅い結束力、裏切り者はたとえ息子でも許さないという、まさに任侠の世界がコルシカにあった。
 コルシカのマキは、お尋ね者の逃げこむ世界だったが、権力や警察に対する抵抗の象徴ともなった。そこから、第二次世界大戦中にナチス・ドイツとヴィシー政権に対するレジスタンス運動を続けたフランス人たちも「マキ」と称した。

Episode 名物の復讐劇 ヴァンデッタ

 おなじくメリメの中編『コロンバ』(1840)は、コルシカ名物の復讐劇の話。コルシカには、ジェノヴァからの独立運動の先頭に立って戦ったものの子孫が名家(カポラルという)としていくつか続いていた。彼らは血族の結束が固く、一族に加えられた恥辱はかならず晴らさねばならないと信じていた。ましてや敵対する家の者に一家の誰かが殺されれば、復讐を遂げなければならないのがコルシカの掟だった。コルシカ出身の青年中尉オルソは、ナポレオン戦争に従軍して大陸に渡り、開明的な気風に染まって帰島し、父親があるささいなことから殺されていたが、もはや復讐などは考えなかった。しかし妹コロンバは、兄に執拗に復讐を迫る。男勝りのコロンバにおされて、オルソは復讐劇を演じなければならない羽目に陥っていく。話の結末はメリメを読んで頂くことにして、コルシカでのこの「伝統的な」復讐の習慣(?)は、ヴァンデッタ Vandetta といわれて、よく知られていた。中世フランスのオルレアン家とブルゴーニュ公の敵対、イタリアのゲルフギベリンの敵対(ロミオとジュリエットの物語の背景)の封建的気風が、コルシカには19世紀まで残っていた。

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書籍案内

メリメ/杉捷夫訳
『エトルリヤの壷―他五編』
1971 岩波文庫

メリメ/杉捷夫訳
『コロンバ』
1931 岩波文庫