イエナの戦い
1806年10月、プロイセンが、ナポレオンのフランス軍と戦って敗れた戦い。イエナ=アウエルシュテットの戦い、ナポレオンの「プロイセン戦役」ともいう。ベルリンを占領したナポレオンは「大陸封鎖令」を発した。
一連のナポレオン戦争の一つで、1806年10月14日、ナポレオンのフランス軍とプロイセン軍が戦った。イエナはドイツ中部にあり、戦場となった地域から、イエナ=アウエルシュテットの戦いとも言う。またナポレオンの「プロイセン戦役」という場合もある。
ベルリン勅令 両軍は中部ドイツのイエナとアウエルシュテットでと戦ったが、ナポレオン軍は優位に戦いをすすめ、10月にプロイセンの首都ベルリンを占領、プロイセンにとっては首都をフランス軍に占領されるという屈辱を味わうこととなった。この情勢の中でイギリスはフランス支配下のアムステルダムなどの港を海上から封鎖してフランスに圧力をかけてきた。それを受けたナポレオン1世はイギリスに対する戦略として、翌11月ベルリンにおいて、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発した。
プロイセン改革の発端 イエナの戦いの敗北、ティルジット条約での国土喪失はプロイセンに大きな衝撃を与えることとなった。敗戦の要因を、プロイセンの古い国内体制にあると考え、ナポレオンのフランスの進んだ面は取り入れなければならないと考えた宮廷内の改革派が台頭し、一連のプロイセン改革が始まることとなる。また、ナポレオンのフランスの支配を受けることになったドイツ人の中から、民族の自覚を促す動きも強まり、哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ!」の講演を行い、ドイツ国民精神の覚醒を促した。
ナポレオンとプロイセンの戦争
ナポレオン1世は前年、トラファルガーの海戦でイギリスに敗れたものの、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシアの連合軍を破り、大陸では圧倒的な力を示した。そのうえで1806年には自らドイツ諸侯との間でライン同盟を結成して、ドイツ西南部を実質的に支配下においた。プロイセンは1795年以来、対仏同盟には加わっていなかったが、このフランスの侵出を警戒して宮廷内に対仏強硬論が台頭し、ロシアと同盟してフランスと戦うことを決意した。1806年10月14日、ロシアとの同盟の上で、プロイセンは対仏宣戦を布告した。ベルリン勅令 両軍は中部ドイツのイエナとアウエルシュテットでと戦ったが、ナポレオン軍は優位に戦いをすすめ、10月にプロイセンの首都ベルリンを占領、プロイセンにとっては首都をフランス軍に占領されるという屈辱を味わうこととなった。この情勢の中でイギリスはフランス支配下のアムステルダムなどの港を海上から封鎖してフランスに圧力をかけてきた。それを受けたナポレオン1世はイギリスに対する戦略として、翌11月ベルリンにおいて、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発した。
ティルジット条約
翌6月、ナポレオンはロシアのアレクサンドル1世をフリートラントの戦いで破り、1807年に一連のプロイセン・ロシアとの戦争の講和条約としてティルジット条約を締結した。プロイセンは敗北の代償としてエルベ東岸とポーランドを失い、ウェストファリア王国・ワルシャワ大公国が分離することとなり、ロシアは大陸封鎖令の遵守を約束させられた。プロイセン改革の発端 イエナの戦いの敗北、ティルジット条約での国土喪失はプロイセンに大きな衝撃を与えることとなった。敗戦の要因を、プロイセンの古い国内体制にあると考え、ナポレオンのフランスの進んだ面は取り入れなければならないと考えた宮廷内の改革派が台頭し、一連のプロイセン改革が始まることとなる。また、ナポレオンのフランスの支配を受けることになったドイツ人の中から、民族の自覚を促す動きも強まり、哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ!」の講演を行い、ドイツ国民精神の覚醒を促した。