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ウェリントン

イギリスの軍人、政治家。1815年、ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破り、その再起をくじいた。トーリ党政治家として、1820年代の諸改革にも取り組んだ。

ウェリントン
 ウェリントン Wellington 1769-1852 は、イギリス軍を率いてナポレオン軍と戦った軍人。トラファルガーの海戦ネルソンとともに、ワーテルローの戦いでナポレオンを破った国民的英雄とされている。その後政治家に転じ、トーリー党に属し、1828~30年には首相もつとめた。
 軍人としてのウェリントンはまず、1808年にナポレオン軍がスペインに侵攻し、兄ジョセフをスペイン王に据えたことに対してスペインの反乱が起きると、イギリス軍を率いてポルトガルからスペインに進撃して、ナポレオン軍を破った。ナポレオンはその後、ロシア遠征に向かい、フランス軍が手薄になったのに乗じて、1814年までにナポレオン軍をスペインから撤退させた。

ワーテルローでナポレオンを破る

 ロシア遠征に失敗して急速に勢力の衰えたナポレオンが退位し、引退先のエルバ島を脱出してフランス皇帝に返り咲くと、1815年、現在のベルギーでのワーテルローの戦いでナポレオン軍を迎え撃ち、巧みな軍の統率で勝利を閉め、ナポレオンのヨーロッパ再征服の野望を打ち砕いた。

トーリ党を率い首相として

 このナポレオンとの最後の戦争で勝利した将軍として有名となり、国民的英雄となったが、その後は政治家としても重要な働きをした。政治家としてのウェリントンは、トーリ党の政治家としても、ピット亡き後のイギリスを牽引した。時代はヨーロッパ大陸諸国がウィーン体制下にあり、保守反動の時代であったが、彼は保守一辺倒ではなく、改革にも積極的であって、自由主義的改革にも取り組み、1828年審査法の廃止1829年カトリック教徒解放法の制定の時の首相であった。1830年9月リヴァプール・マンチェスター鉄道の開通式にも首相として参列している。彼は首相退任後も保守派トーリ党の指導者として重きをなし選挙法改正問題では一貫して反対であったが、1832年ホイッグ党グレイ内閣が改正案を提出したときには、世論の大勢は選挙法改正の方に向かっていると判断し、上院の議場から反対派100人の議員を率いて退出し、第1回選挙法改正の成立を妨げなかった。

Episode セントポール寺院地下の霊柩車

(引用)イギリス国教会の大聖堂、ロンドンのセントポール寺院の地下室に、イギリス人の精神構造を物語るグロテスクな、しかしきわめて興味深い歴史的遺物がある。セントポール寺院の地下は墓場になっており、ネルソンとウェリントンのばかでかい墓がある。・・・その地下室の一番奥に、高さ7、8メートル、長さ10数メートルもある無骨な格好をした車がある。全部が鉄製でゴテゴテとした模様が刻まれており、前のほうには怪獣のひげのように剣や胄がくっつけてある。・・・なんであろうといぶかって説明書きを読んでみると、ウェリントンの墓であった。・・・この霊柩車は(ナポレオンとの戦いにおいて)ウェリントンがフランス軍から捕獲した大砲や銃を鋳つぶして作ったものである。・・・(1852年)彼の遺体は、この霊柩車にのせられて、病院からセントポールまで運ばれたという次第である。・・・<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.186>
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