審査法
王政復古期の1673年、イギリス議会が制定した国教徒以外を官職に就けないという法律。カトリック復活を策すチャールズ2世に対抗したもの。同時にカトリック以外の非国教徒も排除された。
ピューリタン革命後のイギリスの王政復古期の1673年にイギリス議会が制定した法律で、国教会信者以外の者は公職(官職)に就けないとして、カトリック信者の排除をねらったもの。審査律(Test Act)ともいう。
名誉革命後の1689年に寛容法が制定され、非国教徒の信仰の自由は認められたが、カトリックに対する排除は続き、ようやく自由主義の強まりと共に1828年になって審査法は廃止され、翌年にはカトリック教徒解放法が制定される。
1673年の審査法ではカトリック教徒と同じく非国教徒も公職から追放されたが、名誉革命の翌年1689年の寛容法によって三位一体を否定する一部(ユニテリアン)を除いたプロテスタントの信仰の自由は認められた。 → イギリスの宗教各派
審査法のねらい
イギリス議会はチャールズ2世がカトリック勢力の復興をねらって72年に信仰自由宣言を出したのに対し、そのカトリック政策を阻止することを目的とし、国王宣言を撤回させてさらに審査法を制定した。すべて官職につく者は、国教会の儀式に従って聖餐をうけ、国王至上の誓いをし、化体説反対の宣言に署名しなければならないことを定めたもので、その目的はカトリック教徒を排除することであった。国教会の政治支配
これによってカトリック信者とともに国教徒以外のプロテスタント(非国教徒という)もその対象とされた。78年には両院の議員に対しても同じような審査を課すことが定められた。これによって国王に仕える数百人のカトリック貴族が追放され、国教徒の政治支配が確立した。名誉革命後の1689年に寛容法が制定され、非国教徒の信仰の自由は認められたが、カトリックに対する排除は続き、ようやく自由主義の強まりと共に1828年になって審査法は廃止され、翌年にはカトリック教徒解放法が制定される。
非国教徒/ノンコンフォーミスト
非国教徒はノンコンフォーミスト(Noncomfomists)といわれる。つまり服従(comform)しない人びとの意味であり、イギリス国教会信者(国教会=アングリカン=チャーチの信者)以外のプロテスタント(新教)信者を指している。カトリック信者は含まれない。1673年の審査法ではカトリック教徒と同じく非国教徒も公職から追放されたが、名誉革命の翌年1689年の寛容法によって三位一体を否定する一部(ユニテリアン)を除いたプロテスタントの信仰の自由は認められた。 → イギリスの宗教各派
審査法の廃止
1828年、イギリスで非国教徒の公職就任を可能にした、自由主義改革の一つ。
王政復古期の1673年、イギリス議会で制定された審査法は、チャールズ2世のカトリック復活策に対抗して、イギリス国教会信者以外のものの公職就任を禁止するものであった。そのため、非国教徒(ピューリタンなどのプロテスタント)も除外されることになった。
この法律によって、一種の宗教差別が公認される状態であったため、19世紀の自由主義的改革の気運が高まる中で、1828年春にトーリ党のウェリントン内閣の時に審査法の廃止が議会で成立した。これによって非国教徒の公職就任は可能となったが、カトリック教徒はなお除外されていた。
この法律によって、一種の宗教差別が公認される状態であったため、19世紀の自由主義的改革の気運が高まる中で、1828年春にトーリ党のウェリントン内閣の時に審査法の廃止が議会で成立した。これによって非国教徒の公職就任は可能となったが、カトリック教徒はなお除外されていた。
カトリック教徒の権利回復
同年夏、アイルランドのクレア州の補欠選挙で「カトリック協会」の指導者オコンネルが当選したが、カトリック教徒であったことから議席を認められなかった。そのため、アイルランドのカトリック教徒が強く反発して、内乱の危機が高まったため、翌1829年春にカトリック教徒解放法が制定された。