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カトリック教徒解放法

1829年、イギリスでカトリック教徒が公職に就くことを認めた法律。自由主義的改革の一環として出された。

 1829年4月13日に成立したイギリスの法律で、カトリック教徒が公職に就くことを認めた自由主義的改革のひとつ。イギリスではエリザベス1世による国教会の確立以来、カトリック教徒はきびしく差別されていた。特に1673年の審査法で公職から排除されていた。つまり、国会議員にもなれない、ということであった。1801年にイギリスはアイルランドを併合したが、カトリック教徒の権利は認められなかったので、この合同に反対する動きも強かった。

オコンネルらの運動

 イギリスの植民地支配下にあったアイルランドでも、19世紀前半のヨーロッパにおける自由主義と民族主義の高揚にあわせて、民族主義運動が起こってきた。まずはイギリス帝国内のアイルランドの自治を認めさせる運動として始まった。
 アイルランドの地主、オコンネルは「カトリック協会」を設立して、カトリック教徒の権利の実現をめざして運動を開始していた。1828年に審査法が廃止され、非国教徒の公職就任などは可能となったが、カトリック教徒には依然として公職就任の権利は認められていなかった。その年の夏、オコンネルは、自らアイルランドの下院議員補欠選挙に立候補して当選したが、カトリック教徒であることを理由に議席につくことが出来なかった。これを機に運動が盛り上がり、時のトーリ党ウェリントン内閣が「カトリック教徒解放法」の制定に踏み切り、翌1829年に議会で成立した。これによってカトリック教徒に国教会教徒と同等の権利が認められた。
 しかし、トーリ党保守派や一般国民のなかには、カトリックに対する反発、差別意識は根深く、アイルランドにおけるカトリック教徒への差別問題は、その後も「アイルランド問題」として現代まで続いていく。
POINT  カトリック解放法の意義   カトリック教徒の権利を制限することは、イギリス宗教改革以来のイギリス王室の基本的な姿勢であったので、ウェリントン内閣がカトリック解放法を制定しようとすると、時のジョージ4世(ハノーヴァー朝)は、退位を脅しに使った捨て身の反対の態度をとった。しかし、ウェリントン内閣は世論を背景にして議会に上程し、成立させた。
(引用)この件で、王がイギリス政治における独立権力ではなくなったことが、まざまざと示されました。新聞をはじめとする報道と圧力団体の勢力増大により新たな世論が形成されるようになったことが、その大きな要因でした。<池上俊一『王様でたどるイギリス史』2017 岩波ジュニア新書 p.123-124>