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ホイッグ/ホイッグ党

1670年代末にあらわれたイギリス議会初期の政党で、王権の制限、人権の保護を重視する革新派で、王権擁護派のトーリ党ときそった。18世紀前半にウォールポールが内閣を組織した。1830年頃、自由党と改称した。

 ホイッグ、ホイッグ党 Whig (ウィッグと表記されることも多い)とは、イギリス議会において、カトリック教徒であるジェームズの王位継承を認めず、新教徒の庶子モンマス公を相続者とすることを主張し1670年に王位継承排斥法案(この法案は議会で否決された)に賛成した人びとで、シャフツベリーを首領として地方のジェントリを中心とし王権よりも民権を重視する傾向があった。敵対するトーリから、「スコットランドの謀反人」という意味のホィッグ(ウィッグ)と言われた。スコットランドは反イングランド感情が強く、王室にも反抗的であったので、反王権の一派に対する蔑称として使われたが、やがて彼ら自らもホイッグと称するようになった。 → 政党/政党政治

トーリ党との抗争

 トーリとホイッグは王政復古期のチャールズ2世の時期に生まれたが、次のジェームズ2世がカトリック復帰を明確にすると一致して反国王にまわり、名誉革命を実現させた。しかし、ウィリアム3世から次のアン女王の時代を経て、再び王位継承問題が起こると、ホイッグはハノーファー選帝侯のゲオルク(英語読みでハノーヴァー朝ジョージとなる)の招聘を認めたのに対し、トーリの多くは大陸に追われたステュアート家のジェームズ=エドワード(ジェームズ2世の息子)をフランスから呼び戻すことを主張した。彼らはジャコバイト(ジェームズのラテン名に由来する)とレッテルを貼られ、ジョージ1世が即位すると、1715年に反乱を起こした。このジャコバイトの反乱は鎮圧され、ハノーヴァー朝のもとではトーリは危険な反王権勢力として警戒され、議会でも少数派にとどまり、ホイッグ党が議会の多数を占めるようになった。

ウォルポール、責任内閣制を開始

 ハノーヴァー朝ジョージ1世のもとで王政を支え、議会で多数を占めたホイッグを指導したのがウォルポールであった。彼は1721年、首相(プライム・ミニスター)として内閣を主催し、約20年にわたり安定した政治を実現し、重商主義政策を採ってイギリスの繁栄を実現した。しかし、長期政権が続いたこと、外交政策につまずきがあったことなどで、人気が落ち、下院議員選挙でホイッグ党が少数党になったことを受け、1742年に辞職した。これが議会に対して責任を持つ責任内閣制(議院内閣制)の先例となった。

産業革命期、自由主義改革を推進

 ホイッグは次第に非国教徒と都市の商工業者の利害を代表するようになり、産業革命後は、選挙法改正などで自由主義の立場をとり、1820年~30年代の一連の自由主義的改革を推進し、1832年にはホイッグ党のグレイ内閣で第1回選挙法改正を実現した。
 1830年ごろから自由党を称するようになり、ブルジョワ自由主義政党として、貴族・地主層を基盤としたトーリ党の後身である保守党との二大政党が交互に政権を担当するようになった。大英帝国の繁栄期とされる19世紀後半はヴィクトリア朝では、自由党はグラッドストンが指導し、保守党のディズレーリと対抗した。
 なお、アメリカ合衆国でも初期の政党にホイッグ党があった。
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