四国同盟
ウィーン体制を補完する英、露、墺、普の4国の同盟。イギリスが提唱して結成した。1818年にフランスを加え五国同盟となる、
1815年、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの四国が締結したウィーン体制を補完する同盟。イギリスの外相カスルレーが提案し、四国の協力でウィーン体制下のヨーロッパの秩序と平和を維持することを大原則とし、ボナパルト家の復活とフランスの侵略戦を防止し、定期的に会議を開いて、フランスのパリ条約の実施を監視することを約した。カスルレーのねらいは、フランスの武装を解除し、ロシアのアレクサンドル1世がイギリスと対抗するためにフランスの軍事力を復興させようとした狙いを粉砕する事であった。この条約に始まる定期的な会議がこの後の国際政治に新しい行きかたをもたらした。1818年にはフランスの加盟を認め、五国同盟となる。
五国同盟
1818年、四国同盟に復古王政下のフランスが加わったウィーン体制を補完する同盟。1822年に利害の対立から自然消滅した。
1818年、先の英・露・墺・普の四国同盟にフランスを加えた同盟。四国同盟はフランスの再起を押さえる目的を持っていたが、フランスは復古王政のルイ18世のもとで、1817年には制限選挙制を定め、保守的な支配体制が完全に復活し、また18年には戦勝国に対する賠償金の支払いを内外の銀行からの調達によって済ませたため、いわば国際社会に復帰が認められた。その結果、1818年にフランスが加盟して五国同盟が成立、ウィーン体制下のヨーロッパ秩序維持が図られることとなった。五カ国は毎年定期的に会合し、ヨーロッパの国際関係の安定を図ることになっていたが、次第にその足並みの乱れが表面化していった。
五カ国同盟の消滅
1820年にイタリアのナポリでのカルボナリの蜂起やスペイン立憲革命が起こるという、自由主義・国民主義の運動に対する介入を巡ってオーストリア、イギリス、フランスの利害の対立が明確になった。オーストリアとフランスは絶対君主体制の維持というウィーン体制の理念から、スペイン立憲革命への干渉を主張したが、イギリスは各国の自由主義の実現は自国の産業資本にとって良い市場になると考え、立憲革命を支持した。1822年の五国同盟定例会議であったヴェローナ会議ではこの問題を討議したが決裂し、同年、フランス軍はピレネーを越えてスペインに侵入し、立憲革命を弾圧した。イギリスはそれに抗議し、五国同盟から離脱し、同盟会議は以後開催されず、消滅した。スペインの混乱に乗じてオーストリア、フランスなどがラテンアメリカに勢力を伸ばそうとしたことに対して、翌1823年のアメリカがモンロー教書を発表すると、イギリスはアメリカを支持し、ヨーロッパ大陸諸国との対立をより鮮明にした。これ以後、イギリスは対外的な同盟関係をもたない、光栄ある孤立といわれた孤立主義を採ることとなる。