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ラテンアメリカ

ほぼスペイン植民地であったメキシコ以南のアメリカ大陸、中南米地域をいう。インディオの文化、植民地支配を行ったスペインの文化、奴隷として連れてこられたアフリカ系黒人の文化が混合し、独自の文化を形成した。

地域

 ラテンアメリカは一般に「中南米」地域を言う。中南米は「中米」は現在のメキシコ・中央アメリカ諸国・カリブ海域を含み、「南米」は南アメリカ大陸を意味する。この地域をラテンアメリカというのは、1860年代にフランスのナポレオン3世がメキシコを支配したときに、スペイン植民地(イスパノアメリカ)一帯を、スペイン・ポルトガル・フランスに共通するラテン性を強調してフランス語でラメリーク=ラティーヌと称し、その英語表記ラテンアメリカが日本で定着した。つまりラテンアメリカとはラテン系の文化を継承している地域という意味になる。厳密にはこの地域には、カリブ海のジャマイカなどはイギリス、スリナムはオランダという非ラテン諸国で独立した国々もあるが、地域名称としてはすべてラテンアメリカに含めている。


(1)ラテンアメリカの歴史

歴史

 ラテンアメリカの歴史は、「先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代」に大別される。1492年のコロンブスの到達以後が「植民地時代」であり、1810年に始まる独立戦争を経て一斉に独立する1820年代以降が「独立国家の時代」といえる。ただし、カリブ海諸国の独立は1960年代(キューバとパナマは20世紀初頭)までずれこむ。
先コロンブス時代 「先コロンブス時代」にはメソアメリカ文明にはじまり、アステカ文明インカ文明に代表されるインディオの文明が存在していた。いずれも旧大陸とは直接的な関係をもたない、独自な文明と社会を形成した。

ラテンアメリカの植民地化

スペインの進出 1492年、スペイン王が派遣したコロンブス艦隊が西インド諸島(カリブ海域)に到達したことでこの世界が一変する。スペインは西インド諸島を1510年代前半までで植民地化し、20年代に大陸に進出した。1521年のコルテスによるアステカ王国征服に続いて、メキシコ以南の地峡地帯を征服、次いで30年代に南米大陸に進出し、1532年にピサロによるインカ帝国征服が行われた。スペインは南北アメリカ大陸植民地を、アステカ王国の跡地にヌエバ=エスパーニャ副王領、インカ帝国の跡地にはペルー副王領として支配した。このスペインによる植民地支配は、1820年代の一斉独立までの約300年の間、続くことになる。
ポルトガルの進出 ポルトガル1494年トルデシリャス条約で南米大陸のブラジルの東端を勢力圏として認められ、1500年カブラルが到達してから植民地化をすすめ、砂糖プランテーションを設けて支配した。
黒人奴隷の流入 スペイン・ポルトガルいずれの植民地でも、始めはインディオ(インディアン)を奴隷として使役したが、かれらは過酷な労働と白人がもたらした感染症で人口が激減し、労働力不足が起こった。それを補うものとして、17世紀中頃からアフリカから多数の黒人奴隷がもたらされた。
 その結果、植民地時代に本国生まれの白人(スペイン人はイベリア半島にあるので半島人のいう意味のペニンスラールと言われた)、新大陸生まれの白人(クリオーリョ)、白人と現地人との混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、黒人(自由人と奴隷がいた)、現地人(インディオ)、という人種的な身分制が形成され、ラテンアメリカの歴史に深い蔭を落としている。

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(2)ラテンアメリカの独立

19世紀初頭、フランス革命の影響がおよんだことと、本国スペインがナポレオンに征服されたことを機に中南米地域の独立運動が活発となり、1804年のハイチを皮切りに、20年代に次々と独立を達成した。その動きはヨーロッパのウィーン体制を揺るがすこととなった。

 スペインによる植民地支配は、インディオ人口の急激な減少、アフリカからの大量の黒人奴隷の移入と言った過去に例のない変動を新大陸にもたらした。原住民であるインディオはスペインの武力支配の下で、労働力として強制的に労働させられ、その不満は強まっていった。1780年にはペルーにおいて、最初のインディオの反乱であるトゥパク=アマルの反乱が起こっているが、この反乱はスペイン軍によって鎮圧された。1791年、エスパニョーラ島西部のフランス植民地サン=ドマングでトゥサン=ルベルチュールの指導する黒人暴動が始まり、ジャコバン派独裁政権が成立すると、ハイチ独立を承認させることに成功し、1800年には自由主義的憲法の制定まで進んだ。これらのインディオや黒人の反乱に危機感を抱いたのが、支配層であった現地生まれの白人であるクリオーリョであった。クリオーリョは本国政府に代わって直接的な支配を現地で確立するには、独立の道を選ぶしかないと考えるようになった。彼らにとって参考になったのが、北アメリカ大陸における1776年のアメリカ独立革命であった。
 さらに、フランス革命によって自由・平等の理念が実現したこと、ナポレオンスペイン征服(1808年)によって、ラテンアメリカに独立の気運が高まった。ヨーロッパ本国の動きは約2ヶ月遅れでラテンアメリカの植民地にもたらされていた。

独立運動の開始

 最初に独立を達成したのはフランス革命の直接的な影響によって起こった、黒人奴隷の解放闘争という性格も持っていた、トゥサン=ルベルチュールの指導したハイチであった。1804年1月1日に独立を達成したハイチは黒人による共和政国家であったが、それ以後のラテンアメリカで独立を達成していった諸国は、現地生まれの白人であるクリオーリョが主体となったものだった。1808年のメキシコイダルゴの蜂起などが続き、1810年代から20年代にかけて中南米諸国が一斉に独立を達成していった。

サン=マルティンとシモン=ボリバル

 1811年には南米大陸で最も早くパラグアイが独立宣言、1814年にはアルゼンチンが続いた。その独立戦争を戦ったクリオーリョのサン=マルティンは、大遠征を敢行、アンデスを越えて1818年にチリ独立を達成した。
 そのような中で、同じくクリオーリョ出身のシモン=ボリバルの「大コロンビア」構想のようなラテンアメリカの統合の動きがあったことは注目されるが、結果的に地域対立を克服することができず、群小国家の分立という形になった。また独立後も複雑な人種的身分制社会を抱え、産業の未発達もあって貧富の差が大きく、独裁権力が出現したりクーデタが相次ぐなどが政治的不安定が続いた。キューバなどハイチ以外のカリブ海域諸国の独立は遅れ、20世紀にずれこむ。

あいつぐ独立

 ラテンアメリカでの独立運動は、本国スペインで1820年から23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に最も高揚し、1821年にサン=マルティンがペルーの独立を宣言した。ペルー情勢はその後悪化してサン=マルティンは撤退したが、替わってシモン=ボリバルが1824年のペルー南部でのアヤクチョの戦いで残存するスペイン軍(王党派)に大勝したことが決定的となった。メキシコでは1821年にイトゥルビデが国王就任を宣言し立憲君主国として独立したが、民衆の反発を受けて追放され、24年に共和政となった。この間、ポルトガル領のブラジルも1822年に独立を宣言した。ウルグアイはアルゼンチンとブラジルの緩衝地帯であったので双方からの介入が続き、独立は遅れて1830年であった。

ウィーン体制の動揺

 この動きに対して、ウィーン体制下で復活したヨーロッパの絶対王政諸国はラテンアメリカ諸国の独立への介入を図ろうとした。特に1823年にフランスを中心とする神聖同盟諸国がスペインに介入して立憲革命を弾圧し、ラテンアメリカにおけるスペイン植民地を復活させるため、軍隊をメキシコに出兵しようという計画が持ち上がると、アメリカ合衆国はモンロー教書を発表して、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を批判し、相互の不干渉の原則を打ち出して牽制した。また、イギリス外相カニングは、自国製品の市場としてこの地域がスペインから独立することを期待して支援していたので、ヨーロッパ諸国の中で唯一アメリカ合衆国を支持し、ウィーン体制から距離を置くこととなった。そのために、ウィーン体制とそれを支えていた四国同盟(五国同盟)にひび割れが生じることとなった。

参考 クレオールの先駆者たち

 ベネディクト=アンダーソンは『想像の共同体』(1983)のⅣ「クレオールの先駆者たち」において、「ナショナリズムを考察する上で、18世紀後半、19世紀初頭の新興アメリカ諸国家がきわめて興味深いのは、これらの国家が、ナショナリズムの勃興について偏狭なヨーロッパ的思考を大きく支配してきた(中略)二つの要因をもってしては、ほとんど説明がつかないということによる」と述べている。二つの要因とは、一つはブラジルにせよ、アメリカ合衆国にせよ、あるいはスペインの元植民地にせよ、言語はこれらの国々を本国から分化する要因ではなかったことである。アメリカ合衆国も含め、すべての国家はクレオール国家であり、彼らが叛旗を翻した当の相手と言語、出自を共通にする人びとによって指導された。もう一つは、少なくとも南アメリカと中央アメリカでは、まだヨーロッパ流の「中産階級」などとるにたらぬ存在だったことである。「独立戦争のリーダーシップは、多数の大地主、そして彼らと同盟した少数の商人、さまざまの専門的職業者(プロフェッショナルズ、法律家・軍人・役人など)によって掌握されていた。(クレオール=クリオーリョ
(引用)・・・ベネズエラ、メキシコ、ペルーなどの場合、マドリードからの独立に当初、拍車をかけた要因は、「下層階級」の政治的動員、すなわち、インディオあるいは黒人奴隷の反乱への恐怖であった。(中略)ペルーでは、トゥパク=アマルーに指導された大農民一揆の記憶がなお新しかった。1791年には、トゥサン=ルベルチュールが黒人奴隷の反乱を指導し、この結果、1804年は、西半球における第二の独立共和国が誕生して、ベネズエラの大奴隷農園主を戦慄させた。1789年、マドリードがより人道的な新奴隷法を発布し、主人と奴隷の権利義務関係を詳細に規定したときには、「クレオールは、奴隷が、悪徳と独立(!)に染まりやすく、経済的に不可分であるとの理由で、国家の介入を拒絶した。ベネズエラでは(中略)農園主は法律に抵抗し、1794年にはこれを停止させた。」解放者ボリバル自身、かつて、黒人の反乱は「スペインの侵略より一千倍も始末が悪い」と語ったことがある。・・・当時すでにヨーロッパ二流の国家であり、しかもつい先頃までナポレオンに征服されていたスペインに対する大陸的闘争がかくも長期化したこと、これは、ラテン・アメリカのこれら独立運動の「社会的な層の薄さ」を物語っている。<ベネディクト=アンダーソン/白石隆・さや訳『定本想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』2006 書籍工房早山 p.93-94>
 また、なぜ、ほとんど3世紀にわたって平穏に存続してきたスペイン・アメリカ帝国が、これほど突然に18の別々の国家に分裂したのかという問を立て、ラテンアメリカ諸国が、共通のスペイン語という言語を使用しているにもかかわらず、一つの国家として独立しなかった理由は、これらの新生共和国が16~18世紀の行政上の単位であった事をその理由として上げている。その点でこれらの諸国は19世紀後半から20世紀初めに誕生したヨーロッパの新興国家とははっきりとした対照をなしており、その点で南アメリカの共和国は20世紀なかばにアフリカ及びアジアの一部に成立する新興国家のさきがけであった、と指摘している。<同書 p.95,97>

(3)ラテンアメリカの従属

アメリカ合衆国が1898年の米西戦争を契機に勢力を伸ばし、ラテンアメリカはその帝国主義に従属する傾向を強めた。

アメリカ帝国主義とラテンアメリカ

 アメリカ合衆国は1823年のモンロー教書以来、南北アメリカ大陸全体に対するヨーロッパ諸国の干渉を排除し、アメリカの勢力圏とする姿勢を持ってきたが、19世紀後半になると、アメリカ帝国主義の急速な展開がラテンアメリ赤でも見られるようになった。  1889年の第1回パン=アメリカ会議、98年の米西戦争を通じてその姿勢は強められ、キューバの独立を支援しながらキューバに対してプラット条項を認めさせて事実上保護国とした。この時キューバに設けられたアメリカのグアンタナモ基地は今もその支配下にある。
カリブ海政策 さらにセオドア=ローズヴェルト大統領のカリブ海政策が有名である。その政策は、棍棒外交ともいわれた武力を背景とした強引な外交手法により、アメリカの国益を拡大するものであり、1903年にコロンビアに介入してパナマ共和国を独立させ、パナマとの間に有利な条約を締結してパナマ運河の権利と運河地帯の支配権を獲得したことに典型的に見られる。
宣教師外交   第一次世界大戦直前の民主党の大統領ウィルソンは、露骨な経済的進出が国際的な非難を浴びたことから、対ラテンアメリカ外交を宣教師外交といわれる穏健な手法に転換させたが、それは民主主義の理念を押しつけるためには武力介入をも辞さないというものであり、その姿勢はメキシコ革命への干渉にも現れている。この干渉に失敗したアメリカ外交は、次第にラテンアメリカに対する力を弱めていった。
善隣外交 第一次世界大戦後の1933年以降は、フランクリン=ローズヴェルト大統領の「善隣外交」が展開された。それは世界恐慌期にアメリカ資本の投下先、原料供給地、市場としてラテンアメリカ地域を囲い込んでおくというブロック経済政策といえる。それを表明したのが1933年、ウルグアイのモンテヴィデオで開催された第7回パン=アメリカ会議においてであり、その現れが34年のキューバの完全独立承認(プラット条項の廃止)であった。

(4)ラテンアメリカの第二次世界大戦後

第二次世界大戦後のラテンアメリカ地域はアメリカ合衆国との関係をさらに強めた。しかし、1959年のキューバ革命を契機に反米の動きも活発となった。また、社会主義革命の試みも進んだが、軍事独裁政権が権力を握る国も多く、政情不安が続いた。

第二次世界大戦前後のアメリカとラテンアメリカ

 第二次世界大戦の前後の時期に、ラテンアメリカの各国にアメリカと結んだ軍事政権が誕生した。キューバのバティスタ、ニカラグアのソモサなどがそれにあたる。また市民層が成長した地域では民族主義と経済発展を掲げて国民の人気を集め、独裁的な政治を執るポピュリズムと言われる形態が出現した。メキシコのカルデナス政権、ブラジルのヴァルガズ政権、アルゼンチンのペロン政権がそれにあたる。
 東西冷戦期にはアメリカは共産主義勢力がラテンアメリカ地域に浸透することを警戒し、経済協力と集団安全保障体制を強めるとともに反米、反政府運動には軍隊を派遣して鎮圧に当たった。これらの戦後アメリカのパン=アメリカ主義の路線によって、1947年9月にリオデジャネイロで締結されたリオ協定(米州共同防衛条約)が成立、48年には米州機構(OAS)を発足させた。1947年には反米活動を妨害する大統領直属の諜報機関として中央情報局(CIA)を設置し、1954年にはグアテマラでアメリカ資本のユナイテッド=フルーツ社を接収したアルベンス政権をその謀略によって倒している。

キューバ革命とキューバ危機

 1959年1月1日キューバ革命で親米バティスタ政権が倒され、カストロ政権が1961年5月1日キューバ社会主義宣言を出して社会主義に傾くと、アメリカのケネディ政権は大きな危機感を抱いて、キューバ以外の諸国と進歩のための同盟を結成して、キューバ包囲網を強めた。1962年10月22日キューバ危機では米ソの衝突を回避したが、社会主義国キューバはアメリカののど仏に位置して存続し、現在まで対立関係は改善されていない。
 カストロの指導したキューバ革命が成功し、社会主義を標榜した国づくりを開始すると、その影響がラテンアメリカ各地におよんだ。カストロの協力者ゲバラも、世界同時革命を目指して南米各地を転戦した。しかし、アメリカ合衆国の軍事支援と、アメリカ多国籍企業の経済支援を受けた軍事独裁政権は各国の革命運動弾圧し、社会主義のキューバ以外への拡張を押さえ込んだ。

軍事独裁政権

 1970年代のラテンアメリカ諸国には、相次いで軍事政権の登場し、軍政下に置かれるようになった。軍事政権は強権で議会政治と民主主義を押さえつけ、反対派に対する非人道的な措置を行い、国際的非難が起こる場合もあた。1973年、アメリカの支援でアジェンデ政権を倒したチリピノチェト政権などにその典型例が見られる。また1976年に始まるアルゼンチンの軍事政権は反対派に対する徹底的な弾圧を加え、同じく75年にはウルグアイでも軍事政権が成立している。
コンドル作戦 1975年頃に中南米諸国に一斉に現れた軍事政権は、それぞれの国内での反政府活動、左派や自由主義者の活動、労働運動・学生運動などを弾圧するために共同歩調を取っていた。それを主導したのはチリのピノチェト将軍であり、「祖国を共産主義の脅威から防衛する」という目的を掲げて互いに情報を提供し、クーデターの手段を共有した。チリ軍部はその作戦を、アンデスを越えて飛んでいく大鳥になぞらえ、「コンドル作戦」となつけた。また、スパイの手法や拷問のやり方はアメリカのCIAが設立した「米軍アメリカ学校」(パナマ運河が返還まではパナマに置かれ、それ以後はアメリカ国内に移った)に中南米各地から派遣された軍人に教えられていた。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.126、p.145>
 具体的にコンドル作戦に参加した軍事独裁政権は、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジルと言われているが、その実態には判らないこともいい。

アメリカの軍事介入

 アメリカはラテンアメリカ地域にたびたび直接的な介入し、親米的な軍事政権を支援している。1973年のチリのアジェンデ政権を崩壊させたチリ軍部クーデター、1979年のニカラグア革命への介入、1981年からのエルサルバドル内戦への干渉、1983年のグレナダ侵攻などである。これらは共和党政権下で行われたが、民主党のカーター政権は、77年に新パナマ運河条約で運河地帯の主権をパナマに返還することを約束した。共和党ブッシュ政権は89年にパナマ侵攻を行い、アメリカにとって都合の悪い政権を排除し、中南米への影響力を維持しようとしたが、冷戦の終結後は直接的介入の大義が無くなり、パナマ運河返還も約束通り1999年に実現させた。

(5)ラテンアメリカの現在

第二次世界大戦後、革命運動はキューバ以外ではアメリカの支援を受けた軍事独裁権力によって抑えられ、それらの諸国では新自由主義経済が導入され、貧富の差が拡大した。それに対する民衆の不満が強まり、2000年代に入り、反米を掲げる政権が各国に誕生した。しかし、2010年代には左派反米政権の腐敗や独裁化も問題となり、ラテンアメリカ諸国の多くは岐路に立っている。

現在のラテンアメリカ

 ラテンアメリカ地域はほぼ独立し、現在は33ヵ国を数える。南米ではフランス領ギアナ、カリブ海ではアメリカ領プエルトリコ、フランス領マルティニーク島などが独立していない。33の独立国のうち、スペインを旧宗主国とするのは18ヵ国で、中南米のほとんどを占め、これらではスペイン語が公用語とされている。カリブ海域を中心としたイギリスを旧宗主国とする国が12ヵ国で、これらでは英語が公用語とされている。他にハイチがフランス語、ブラジルがポルトガル語、スリナムがオランダ語という、それぞれ旧宗主国の言語を公用語としている。ただしカリブ海域で使われている英語・フランス語は本来のものからかなり変形し、クレオール語と言われている。<国本伊代『概説ラテンアメリカ史』2001 新評論>

軍政の失敗と民政移管

 チリのピノチェト政権に典型的に見られるように、軍事独裁政権は財政危機を新自由主義経済によって乗り切ろうと、いずれも緊縮財政、規制緩和、外資導入などを行ったが、それは貧富の差が拡大をもたらし、ラテンアメリカ各地で貧困層が増加した。
 さらにアルゼンチンでは軍政政府が国民の不満を戦争に転化しようとしてナショナリズムに訴え、イギリスとの間で1982年にフォークランド戦争を起こしたが敗北し、それが契機となって軍政反対の声が強まった。

独裁政権の打倒続く

 その結果、次第に軍事独裁政権による人権抑圧と、構造的な貧困に対する対する大衆的な不満が強まり、1980年代にはいるとチリ民政移管アルゼンチン民政移行など、民政移管が広がった。
 中米のニカラグアでは1937年から続くソモサ独裁政権がサンディニスタ民族解放戦線によって倒された。ニカラグアはその後アメリカの介入があるなど苦難の道を歩んだ。

南米南部共同市場の形成

 またラテンアメリカ諸国の経済的自立を目指して、アメリカを排除した経済共同体形成の動きが具体化していった。1988年にブラジルアルゼンチンで結成した南米南部共同市場(メルコスル)は、91年にパラグアイとウルグアイが加盟し、その他の中南米諸国も準加盟国となって、域内の関税撤廃、対外共通関税の取り決めなどを行った。

反グローバリズム

 中南米の民衆が強く反発したのは、新自由主義と共にグローバリズムの進行という事態であった。アメリカは1990年にブッシュ(父)大統領が「北はアラスカから南はフエゴ島まで」として、米州全域の経済ブロック構想を提唱していたが、クリントン大統領となってからの1994年1月1日にアメリカ・カナダにメキシコを加えた北米自由貿易協定(NAFTA)が発足した。これによってメキシコがアメリカ経済に従属し、農業が破壊されると警戒した農民は強く反対していたが、協定発足のその日に、メキシコ南部のチアパス州で「サパティスタ民族解放戦線」を名乗る武装グループが蜂起し、メキシコ南部からグァテマラとの国境地帯に解放区をつくり、しばらくの間、抵抗を続けた。
 1990年代、ペルーでは日系のフジモリ大統領が登場した。強権的な手法で経済の立て直しを図ったが、1996~7年には左派民族主義ゲリラのトゥパク=アマル革命運動による日本大使館占拠事件が起こった。それを押さえ込んだあとは治安の維持につとめ、一時は国民的人気も高かったが、2000年の大統領選挙では不正を暴露され、急激に人気が急落、裁判で有罪となった。

経済危機とIMF

 2000年には深刻なアルゼンチン経済危機が始まった。政府は国際通貨基金(IMF)の融資を受ける条件として、極端な緊縮財政策を実施、01年には激しいストライキが起き、さらに02年にも暴動となって国政はマヒ状態に陥った。ドゥアルテ大統領は巨額の対外債務の不払いを宣言、いわゆるデフォルト(債務不履行)に陥った。これらは、中南米諸国に共通する、強権的な独裁権力が、権力維持のために軍事支出を増大させ、その穴埋めに外国から借金し、そのために起こった財政危機をIMFの融資で切り抜けようとしたために起こったものであった。IMFは融資の条件として、厳しい緊縮財政、社会保障の切り捨て、規制緩和などのをいわゆる新自由主義的な「小さな政府」への転換を要求した。IMFに従属した政権は、自己の負債を国民生活を犠牲にして解消しようとした。2000年代にそれに対する民衆的な怒りが、中南米各国で顕著になっていく。

2006年、反米政権の誕生

 1998年に「貧困の救済」を掲げてベネズエラの大統領となったチャベスは、明確にアメリカの介入と新自由主義に反発する姿勢を採った。その影響は、2000年代の初めに急速に中南米に広がった。2002年にはブラジルに左派労働党のルーラ大統領が当選、農地改革を開始した。アルゼンチンでは2003年に左派のキルチネル政権が誕生、前政権が2001年末の経済危機に際してIMF融資条件を満たすために緊縮財政、銀行預金の引き出し制限などを強行したことによって混乱に陥っていた経済の立て直しに取り組みを開始した。2005年にはウルグアイで最初の左派政権バスケス大統領が登場し、2006年にはボリビアで社会主義運動党のモラレスが大統領に就任(初めての先住民出身)して反米を明確にし、その一週間後にはチリの大統領選挙で与党の統一候補、社会党のバチュレが当選した。チリ史上最初の女性大統領であり、1973年の軍部クーデターで逮捕投獄された経験を持つ。さらにペルーでは中道左派のガルシア大統領に返り咲いた。エクアドルでも反米左派のコレアが、「バナナ王」と言われた右派の大富豪を破って大統領に当選した。また同年、ニカラグアでは80年代に左翼革命政権を担っていたオルテガが16年ぶりに政権を奪回した。一連の動きの総仕上げとして、ベネズエラでチャベス大統領が再選された。このように2006年には中南米地域に一斉に反米勢力が登場して「反米大陸」となっている。明確に親米政権が残っているのは、コロンビアのウリベ大統領のみという状況となった。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 などによる>

革命政権の腐敗と混乱

 しかし、2000年代に入って台頭したラテンアメリカの反米政権は、「革命」を称してアメリカとの関係断絶、資本の国有化などを進めたがその歩みは順調ではなかった。各国で生まれた左派政権そのものが独裁化し、利権の私物化、民主的な手続きの否定、社会保障の改悪など、改革を後退させ、いずれも強権的な支配権力の腐敗が深刻になった。ベネズエラのチャベス大統領は露骨な反米姿勢と、石油産業国有化で得られた富を貧民層に配分することで大衆的なで人気を高めたが、憲法改正によって大統領の地位を無期限に延長するなどの独裁的な姿勢は次第に批判されるようになった。2013年に病没し、後継のマドゥロが同様の強権的な政治を続けているが、原油価格の低落によって経済が悪化したことから激しい反政府運動が起こった。2018年5月の大統領選挙で再選されたが、大規模な不正が行われたとして選挙の無効を主張する国民議会議長ファン=グアイドが別に国民議会から大統領に選出されるという混乱が生じている。
 左派革命政権が腐敗し、政治活動や言論が制限され、反発を受けるという例は、ニカラグア革命後に権力をにぎったオルテガ大統領にも見られ、2018年には大規模な反政府暴動が起きている。ブラジルでは2003年からルーラ大統領による左派政権が続き、社会保障を充実させるなど順調に進んで2011年には女性のルセフが後継の大統領となり、2016年にはリオデジャネイロ・オリンピックが行われたが、同じ時期に汚職問題が明るみに出て人気が急落し、2019年の大統領選挙では国益と経済成長の優先を掲げたボアソナーロが当選した。ボリビアでも同じく左派で初のインディオ出身の大統領だったモラレスが選挙の不正を理由に政権を追われ亡命している。
アメリカとキューバの国交回復 ラテンアメリカでは、独裁政権の出現と革命、民主化の動きが交互に波のように繰り返される傾向がある。また冷戦期にはアメリカの直接的な軍事介入が見られたが、最近はそのような動きは表だってはいない。2015年のアメリカとキューバの国交回復は、アメリカとラテンアメリカ諸国の反目という従来の対立軸を大きく変化させる可能性を含んでいる。トランプ政権でキューバとの国交回復が棚上げにされたが、かつてのアメリカのようなモンロー主義の系列につながるカリブ海政策を採ることは出来ないであろう。