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自由主義

絶対王政下の束縛を脱し、経済活動や政治活動の自由を実現させる運動。19世紀前半のウィーン体制に対してヨーロッパ各国で自由主義運動が展開された。

 18世紀の啓蒙思想に始まり、経済の発展を背景にして高まった、人間(個人)を封建的な束縛から解放し、自由を実現させることを求める運動である。経済的には経済活動の自由と特権の廃止などを要求し、政治的には憲法の制定、議会の開設、普通選挙の実現を通じて一般市民の参政権を実現することを求めた。アメリカ独立革命フランス革命ナポレオンの登場によって火のついた後、ウィーン体制の時期には各国の反動体制のもとで抑圧されながら、運動が展開された。また自由主義の運動は、封建的な分断国家にとどまっていたドイツやイタリアでは一つの国民国家を作り上げようというナショナリズム(国民主義)と結びついていた。

ウィーン反動体制に対する抵抗

 1810~20年代に、ヨーロッパ各地でウィーン反動体制の締め付けに対する自由主義、民族の独立と国民的統一を求めるナショナリズムの運動がさかんに起こった。ドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)が宗教改革300年にあたる1817年に蜂起し、イタリアではカルボナリ(炭焼党)が1820年に蜂起した。またブルボン王朝支配下のスペインでは、1820年に憲法制定を求めてスペイン立憲革命が起こった。さらに、保守反動勢力の中心勢力とみなされヨーロッパの憲兵と言われていた専制政治(ツァーリズム)下のロシアで、1825年にデカブリストの反乱が起こった。これらはいずれもオーストリアとフランス、さらにロシアの絶対王政の君主の軍隊によって鎮圧されたが、ウィーン体制はつねに脅かされていたと言える。
 1830年にフランスで七月革命が起きると、それに刺激されてベルギーの独立ポーランドの反乱ドイツの反乱イタリアの反乱が相次いで起こり、ウィーン体制は大きく動揺した。フランスの七月王政のもとで選挙法改正運動に対する弾圧が強まり、ついにパリ市民が立ち上がって二月革命が起こった。

ウィーン体制の崩壊

 1848年、二月革命でフランス七月王政が倒れ、共和政体が成立したことは、ただちに全ヨーロッパに衝撃をもって伝えられた。プロイセンのベルリンと、オーストリアのウィーンでも相次いで三月革命がおこり、特にウィーンではメッテルニヒが失脚し、それがウィーン体制の終わりを象徴的する出来事となった。各国で共和政または立憲君主政の政治形態を定めた憲法が制定され、市民の政治的権利が認められて自由主義は大きく前進したが、それに対する反動としてフランスでのナポレオン3世の第二帝政やドイツ帝国のビスマルクのもとでの軍国主義など、自由の抑圧が別の形で続くこととなった。

イギリスの自由主義改革

 一方、議会制度がすでに成立していたイギリスでは、産業革命後のブルジョワジーの成長に伴って選挙法改正が進んで選挙権が拡大され、1830年代には労働者の選挙権要求へと転換した。並行してブルジョワジーの要求による自由貿易主義カトリック教徒解放法奴隷貿易禁止などの自由主義的改革が進捗し、ウィーン体制下のヨーロッパ大陸諸国に対する経済的優位を確立していった。
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