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アイルランド問題(19~20世紀)

1801年、イギリスに併合されたアイルランドにおいて、カトリック系住民に対する抑圧など、イギリスの統治に対する不満が強かった。19世紀後半になって、民族主義運動が高まり武装蜂起が始まって以降を特にアイルランド問題という。1870年代からイギリス政府も対策に乗り出し、宗教的差別や土地所有の不平等を解消がすすんだが、第一次世界大戦で頓挫し、戦中・戦後から運動が先鋭化、独立を求める激しい武力闘争が続いた。1921年、北アイルランドを分離してアイルランドの独立を認めるという妥協が成立したが、その後もアイルランドの内戦、さらに第二次世界大戦後は北アイルランド紛争が激化した。1998年にようやく和平が成立した。

 アイルランドは、ブリテン島のイングランドと異なるケルト人(ゲール人)歴史と伝統を有している。しかし、12世紀以来、アングロ=サクソン人のイングランドの進出が続き、特にイギリス宗教改革で成立した国教会がアイルランドにも強要され、北アイルランドにプロテスタントが入植するようになって、特に北アイルランドには新旧両派が混在する状態となった。その両者の間の宗教的対立という形での対立が、その後、20世紀にいたるまで延々と続いた。
 → 18世紀までについては、アイルランドの項に詳述。  19世紀のアイルランド問題  20世紀のアイルランド問題

イギリスの歴史上の三つの誤り

 イギリスの歴史には、アイルランドに対する三つの誤りがあり、それが19~20世紀のアイルランド問題・北アイルランド紛争につながっている、という指摘がある。
(引用)英国のおかした三つの誤りとは、第一に1169年のアングロ・ノルマンによるアイルランドの侵略、第二に17世紀初頭のアルスター地方へのプロテスタントの入植、第三に1801年のアイルランドの併合である。このうちいずれか一つでも欠けていれば、現在の北アイルランド問題は生じなかったであろう。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.150>
  • 第一の誤りとされるのは、アイルランド側の諸侯の内紛からプランタジネット朝ヘンリ2世がアイルランドに出兵、アイルランドの王権を主張し、アングロ=ノルマン系の領主を入植させ、大陸風の封建制度を持ち込んだこと。
  • 第二の誤りとは、イギリスで宗教改革を進めたヘンリ8世によってアイルランドへの国教会強制が始まり、エリザベス1世はアルスター地方(北アイルランド)にロンドンの富裕な国教会信者を多数入させた。さらに17世紀にはクロムウェルの遠征、ウィリアム3世の遠征で武力によってカトリック勢力が抑えられ、アイルランド植民地化は決定的となった。
  • 第三の誤りとされるのは1801年のアイルランド併合。イギリスはアイルランドでの民族運動の高揚を押さえるため、全島を直接統治することにした。カトリック教徒は無権利のままに置かれた。

19世紀のアイルランド問題

アイルランド民族族立運動の始まり

 18世紀後半のアメリカの独立、フランス革命の影響を受け、アイルランドでもイギリスによる圧政、特にカトリック信者に対する不当な扱いに対する反発が強まり、独立の気運が高まっていった。
ユナイテッド=アイリッシュメンの蜂起 1791年にはウルフ=トーンが「統一アイルランド人協会」(ユナイテッド・アイリッシュメン)を組織し、初めて明確なアイルランド独立の声を上げた。ウルフ=トーンはフランス革命の共和思想の影響を受け、自由・平等・博愛を掲げ、プロテスタントとカトリックの平等を実現しようとした。彼が掲げた緑と白とオレンジの三色旗は現在のアイルランド国旗に継承されている。緑はナショナリスト(独立を主張するカトリック教徒)、オレンジはユニオニスト(イギリスとの合同維持を主張するプロテスタント)、白は両者を結びつける友愛・平和を象徴している。1798年に起こした反乱はイギリスによって鎮圧されたが、ウルフ=トーンが掲げた理念、①イギリスとの結びつきを断つ、②武力によって独立を達成する、③共和政を樹立する、の三点はこれに続くアイルランド独立運動の理念として継承されていく。1803年にはメンバーのロバート=エメットが100人ばかりの同市とイギリス支配の牙城であるダブリン城を攻め入ったが失敗し、公開の処刑台で絞首刑になった。

アイルランド併合と抵抗

 アイルランド独立運動に衝撃を受けたイギリスのピット首相は、1801年1月1日、一方的にアイルランドを併合し、これによって国号は「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。
 カトリック教徒であった住民の多くは審査法によって公職に就けないなどの差別を受けていた。当時は、ヨーロッパ大陸でのウィーン体制の時代であったが、イギリスでは産業ブルジョワジーの台頭によって自由貿易主義とともに自由主義的改革が進み、1828年には非国教徒は公職に就けない審査法が廃止された。しかしまだカトリック教徒は公職に就くことが出来ず、従って議員になることも出来なかった。
オコンネルの運動 アイルランド人のオコンネルは苦学して法律を学び、議員にはなれないことを承知しながらイギリスの議会選挙に出馬して当選した(選挙に出ることは禁止されていなかった)。このような運動によってオコンネルは支持者を拡げ、翌1829年4月13日にはカトリック教徒解放法が制定された。これらはアイルランドとの融和を図る目的もあったが、カトリック教徒の公職への進出をプロテスタント側が反発し、その対立はかえって強まってしまった。また、オコンネルはアイルランドに独自の議会を開設し、自治を実現することを目指したが、あくまで合法的に進めようとしたその運動には限界があり、大衆的な支持は次第に失われた。

ジャガイモ飢饉と独立運動の激化

 産業革命に取り残されたアイルランドの小作人の貧困は1845年~49年の大飢饉(ジャガイモ飢饉)でさらに進行し、多くのアイルランド人が移民としてアメリカなどに移住していった。そのような危機の中で、19世紀後半の民族主義(ナショナリズム)の高揚の影響を受けて、土地の獲得と自治の実現を激しく要求する運動が起こった。
青年アイルランド党とフィニアン 彼らは、19世紀前半のオコンネルの合法的な運動にあきたらず、実力行使、武装蜂起も辞さない方針を立て、青年アイルランド党を結成した。彼らは、ヨーロッパで革命が渦巻いた1848年革命のなかで蜂起し、民族独立、イギリスとの分離を掲げて戦ったが、鎮圧されてしまった。その後も、フィニアンと名乗る秘密組織が独立運動を続け、1867年にイギリス殖民地の白人支配地であるカナダの自治が認められたことに刺激されて、武装蜂起したがこれも鎮圧された。

アイルランドの土地戦争

 1870年代には、アイルランド国民党が議会内で自治獲得の運動を行い、またアイルランド土地同盟が結成されて、小作人の解放を求めて起ち上がった。1870年、グラッドストン自由党内閣は「アイルランド土地法」を制定し、問題の解決をはかったが農民の不満は解消できなかった。1880年にはイギリス人地主と小作人の対立は激化し、アイルランド各地で両者が衝突する「土地戦争」(1880~83年)に発展した。しかし、アイルランドの農民を指導したアイルランド国民党のパーネルらも投獄され、本国の弾圧により、運動は退潮した。

Episode 「ボイコット」の語源

 ”仕事をボイコットする”などのように「ボイコット」という語は日本語化しているが、もとはこの時代のイギリス人のある人の姓から来ている。1880年、イギリス人地主の土地の管理人ボイコット大尉が、小作人のアイルランド人を追放しようとしたに対して、小作人は彼との交渉の一切を絶ち、召使いは家を離れ、商人は物を売らないという抵抗を行った。そのためボイコット一家が餓死に瀕して屈服するという事件が起こった。このことから、この法律に触れない抵抗運動は「ボイコット運動」というようになり、全国に広がった。

アイルランド自治法案の否決

 1884年の第3次選挙法改正でアイルランド国民党が議席を伸ばすと、グラッドストンは議会内で国民党の支持が必要であったため、アイルランド自治法案を議会に提出することにした。しかし、アイルランドに自治を与えることには、北アイルランドのプロテスタントでイギリスとの合同を維持することを主張する保守派には認められないことであったので、保守党は激しく抵抗した。グラッドストンのアイルランド自治法案は1886年の第1次をはじめとして、3次にわたり提案したが、下院は通過しても、上院(貴族院)で阻まれ、19世紀中には成立しなかった。20世紀に入ってもアイルランド問題は、イギリスにとっての「のどに刺さったトゲ」として引き継がれていく。
 アイルランド自治法案にはアイルランドの対立する両宗派の中にはそれぞれ根強い反対の主張があった。北アイルランドのプロテスタントはアイルランド全島が自治国となることで本国と分離されることを危惧して反対、イギリスとの統一の維持を望んだ(ユニオニスト)。また南アイルランドに多いカトリックは、イギリス帝国の枠内での自治では国教会の首長でもあるイギリス国王に服従することになるので、完全な独立を求め反対した(ナショナリスト)。

20世紀のアイルランド問題

第一次世界大戦~第二次世界大戦後のアイルランド問題はイギリスの抱える最大の問題だった。第一次世界大戦中の1916年にアイルランド独立派によるイースター蜂起がおこり、それは鎮圧されたが1918年選挙で独立を主張したシン=フェイン党が躍進、1919年にアイルランド共和国樹立を宣言した。それを認めないイギリスとの戦争を経て、1921年に北アイルランドを除き独立を認める妥協が成立しアイルランド自由国が誕生した。その後は、北アイルランドの中にアイルランドとの合併を求めてイギリスに対して激しいテロ活動を繰り返す、北アイルランド紛争へと変化した。1970~80年代、テロとそれに対する報復が最も激しくなったが、1998年、イギリスのブレア内閣の下で北アイルランド和平合意が成立した。

第一次世界大戦中の独立運動

 1801年のイギリスのアイルランド併合以来、19世紀のアイルランド問題は、イギリスにとって「のどに刺さった骨」として未解決のまま推移していた。20世紀に入り、1905年にはアイルランドの独立をめざすシン=フェイン党が結成されたが、初めはアイルランド語の復興などを目指す穏健が運動を行った。
アイルランド自治法の制定と実施延期 1914年9月、イギリス議会でようやくアイルランド自治法が成立した。それは1911年の議会改革によって下院で3回可決された法案は上院で否決されても成立するという下院優先の原則が定まったためであった。その結果、アスキス自由党内閣が提案したアイルランド自治法案が9月に下院で可決されたことによって成立となったのだった。ところが7月に第一次世界大戦が勃発していたために、その実施(つまりアイランドへの自治付与)は延期されることなった。
イースター蜂起 延期に反発したアイルランド独立派の中で、急進派アイルランド自由主義同盟(IRB)は1916年2月24日の復活祭の日に武装蜂起(イースター蜂起)し、ダブリンで激しい市街戦となった。反乱は小規模なものに終わり、イギリス軍によって鎮圧されたが、その際のイギリス軍の行動がアイルランド民衆の強い反発を受けた。イギリスが派遣した軍隊は残虐行為を重ね、一般人にも犠牲が及んだ。また鎮圧後の反乱首謀者に対する処罰も苛酷で、裁判なしに次々と処刑された。反乱は失敗したが、この時の蜂起がアイルランド独立の第一歩であり、同時に長く続く20世紀のアイルランド問題のはじまりでもあった。
シン=フェイン党の躍進 イギリス本国政府の激しい弾圧に反発した住民は、アイルランドの独立を政治信条として掲げる政党であるシン=フェイン党を支持するようになった。シン=フェイン党はすでに組織されていたが当時はまだ勢力も小さく、イースター蜂起には一部を除いて組織としては参加していなかった。しかしイースター蜂起後のアイルランド民衆の反イギリス感情の受け皿として、急速に支持を伸ばしていった。大戦がまた終結しない、1918年にイギリスが徴兵制をアイルランドにも適用したことに対する反発もあり、その年行われた総選挙でシン=フェイン党が大勝した。
1918年総選挙でシン=フェイン党が勝利 1918年12月のイギリス総選挙が行われ、アイルランドの選挙区ではシン=フェイン党が圧勝し、それまでのアイルランド国民党に代わって最多議席(105議席中の73議席)を獲得した。選挙民はイギリス議会の交渉で自治を実現することを目指した国民党(かつてアイルランド土地法の実現に大きな役割を果たした)に代わり、イギリスからの分離独立を掲げるシン=フェイン党を支持するようになったのであるが、この選挙でシン=フェイン党が勝利した理由の一つは、1918年に実現した選挙法改正(第4回)であった。この選挙で21歳以上の男子と30歳以上の女子の普通選挙が実現したことで、有権者数が急増し、低所得者層が新規有権者となったことが挙げられる。シン=フェイン党はイギリスからの分離独立だけでなくアイルランドの零細農民を救済する農地改革を訴えており、新規有権者がシン=フェイン党の大勝をもたらしたと考えられる。<森ありさ『アイルランド独立運動史 シン・フェイン、IRA、農地紛争』 1999 論創社 p.40-42>

イギリス=アイルランド戦争(アイルランド独立戦争)

アイルランド共和国の独立宣言 イギリス議会の総選挙で当選したデ=ヴァレラらシン=フェイン党員は、本国の議会に登院することを拒否し、1919年1月21日にダブリンで独自のアイルランド共和国議会を開設した。開会初日に「アイルランド共和国」の独立宣言を決議、諸外国に独立国であることを宣言した。独立の国際的承認をえるため、おりから開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ条約を締結した)に代表を派遣した。しかし、国際社会はアイルランド独立にほとんど関心を払わなかった。共和国大統領となったデ=ヴァレラはヨーロッパ諸国では無くアメリカの支援を得ようと、内戦勃発する中、コリンズらの反対を押し切って渡米してしまった。
アイルランド共和国軍の結成 アイルランド共和国の独立宣言を認めないイギリス本国との間に1919年1月から武力衝突が始まり、次第に本格的な戦争となっていった。アイルランド共和国の幹部の一人マイケル=コリンズはそれまでのさまざまな武装勢力を義勇兵として組織し、実質的にアイルランド共和国軍=IRAを発足させ、対イギリス武装闘争を開始した。戦闘は1919年1月に始まり20年には最も激しくなった。
戦争の意味 この戦争はアイルランド側からは「独立戦争」の意義づけであって「アイルランド独立戦争」というが、「イギリス=アイルランド戦争(英・アイ戦争)」とも言われたり、シン=フェイン戦争と言われることもある。義勇兵は民衆の支持を受けてゲリラ的な抵抗を続け、労働者も呼応して各地でストライキを起こすなど、イギリス側官憲を悩ませた。それは、まだ明確な指揮命令系統のある軍隊ではなかったので「戦争」というのには躊躇するかも知れないが、しかしその歴史的意義から見て、「内戦」と片付けるわけにはいかない。
ブラック・アンド・タンズ アイルランド軍に対して本国政府は20年春から鎮圧軍6000を投入して激しく戦った。このとき本国政府が派遣した軍隊は、第一次世界大戦の復員兵を中心にしており黒色とカーキ色と制服を着用していたので「ブラック・アンド・タンズ」と呼ばれ、アイルランド人に対して容赦ない暴力をふるった。アイルランドの民衆には、1649年のクロムウェルのアイルランド征服の時の「クロムウェルの呪い」を思い出される恐怖であったので、アイルランド人に強い憎しみを生んだ。
アイルランド分割の提案 イギリスのロイド=ジョージ挙国一致内閣はアイルランドとの戦争を終息させることも画策しなければならなかった。そこで1920年12月に議会にアイルランド統治法を提出し、可決された。それは、アイルランドを南北に分割し、プロテスタントの多い北は一定の自治を与えるもののイギリス領に止め、カトリックの多いその他地域にはカナダなどと同じ自治領として高度な自治を与えようというものであった。
 アイルランド側にも、北ではイギリスの方針に従って停戦の動きが出て、南側でも長期のゲリラ戦でイギリス本国軍に抵抗していたものの、陰惨な戦闘が続いたことで荒廃が進み、民衆も闘争に疲弊してきたため、デ=ヴァレラは武力抵抗の中止を命じ、1921年7月ようやく休戦した。
イギリスにとってのアイルランド独立戦争 イースター蜂起と英・アイ戦争は、自由と民主主義擁護を掲げて第一次世界大戦に参加したイギリスの足下で起こった民族闘争であり、イギリス国家の理念を根幹から揺るがす戦争であった。しかも、大戦中にロシア革命や各地の民族運動が起こり、イギリスはインドの独立運動を抱えていた。それだけにイギリスにとっても安易に妥協できない理由があったとも言える。

「自由国」成立と北アイルランドの分離

 イギリス国内と国際世論も停戦と妥協を求めた(特にアイルランド系移民の多いアメリカでは停戦を求める声が強かった)ため、ロイド=ジョージ挙国一致内閣は戦闘を中止し、交渉に応じた。数度にわたる交渉の結果、1921年12月6日、両者が妥協しイギリス=アイルランド条約案に合意した。それはロイド=ジョージが考案したアイルランド統治法に沿って、アイルランドからプロテスタントの多い北部(アルスター地方の一部)を分離してイギリス領に止め、カトリックの優勢な南部にイギリス帝国内の自治領(ドミニオン)にとどまることを条件に自治を認めアイルランド自由国とする、というものであった。

シン=フェイン党の分裂と内乱

 この妥協案に対してシン=フェイン党は、それを認めざるを得ないとするマイケル=コリンズら多数派と、妥協を拒否しあくまでアイルランド全島の完全独立と共和政実現をもとめるデ=ヴァレラら少数派に分裂した。「イギリス=アイルランド条約」はアイルランド国民議会にかけられた結果、条約は賛成64,反対57の僅差で批准された。しかしその結果、シン=フェイン党は多数派の統一アイルランド党と、妥協に反対した少数派でデ=ヴァレラをリーダーとする独立共和党に分裂した(党名は変遷し一定していない)。独立共和党は地下に潜り、イギリス及びアイルランド自由国政府に対する抵抗を続け、アイルランド人同士で殺し合う内戦へと移っていった。

アイルランド自由国

 アイルランドの南部26州は北部6州を分離し、1922年1月16日に正式にアイルランド自由国を成立させたが、この国は独自の憲法と議会を持ちながらイギリス帝国を構成する自治領(ドミニオン)となったのであり、カナダ、オーストラリアなど同じくイギリス国王代理の総督に統治される国家であったので、共和政とは言えなかったので一部には不満は残ったが、グリフィスやコリンズら主流派は将来的な完全独立への第一歩ととらえた。外交上は実質的な主権国家として扱われ、翌年には国際連盟にも加盟を認められた。
 北アイルランド(アルスター地方のうちの6州)はプロテスタントが多く、カトリックによる支配をきらったことと、ベルファストなどの都市の工業化が進んでいたのでイギリス経済との分離を嫌った資本家層が反対したため、イギリス連合王国に留まり、議会と自治政府政府が設けられたが、それはあくまで地方自治に留まった。少数派となったカトリック系住民の中には、ナショナリストや共和派はなおもアイルランドへの併合を求めて運動を続けたので、自治政府の権力をにぎったプロテスタント(ユニオニスト)は、カトリック系住民を敵視し、厳しい差別を行った。そのため両者の対立は抜き差しならぬものになっていった。

南部アイルランドの内戦

 アイルランドの南北の分割は、「ケルトの魔術師」といわれたロイド=ジョージの巧妙な交渉によって成立したが、けして平和をもたらさなかった。北アイルランドではその後もカトリック系住民のプロテスタントとイギリス政府に対する激しい反発が続き、テロ事件が続発することとなる。また南部アイルランドでは、シン=フェイン党は北部を分離して自治領となることを認める多数派と、あくまで全アイルランドの完全独立をめざす少数派が対立し、内戦となった。イギリスとの戦争では義勇兵を率いて活躍したが、条約交渉に当たって分離・自治領を認める立場を取り自由国軍を率いることとなったマイケル=コリンズは、この内戦で戦死した。

アイルランド自由国からエールへ

 全島完全独立を主張していたデ=ヴァレラはシン=フェイン党から分離した独立共和党の穏健派を率いてアイルランド共和党(フィアナ=フェイル)を結成した。当初は野党にとどまったが、1930年代に自由国政府が世界恐慌の影響を受けて経済政策に失敗すると、1932年の選挙に大勝し、1937年には新憲法を制定して実質的な完全独立を達成、国号にゲール語のエールを採用した。デ=ヴァレラは第二次世界大戦では中立を堅持するなど独自の外交によって国内生産力の向上に努めるなど、戦後にかけて同国を指導した。

第二次世界大戦後の北アイルランド紛争

 第二次世界大戦後の1949年にはデ=ヴァレラは選挙で敗れて政権が交代、新政権はイギリス連邦(1931年成立)から完全離脱するとともに、国号をアイルランド共和国とした。これによってアイルランドは、北部6州は分離したものの、最終的に本格的な独立した主権国家となった。
 一方イギリスに留まった北アイルランドでは多数派のプロテスタントと少数派のカトリックが対立、カトリック勢力はアイルランドとの合併をめざし、1969年8月アイルランド共和軍(IRA)が活動を活発化させ、70~80年代に激しいテロ攻勢を行い北アイルランド紛争は深刻の度合いを深めた。1980年代の保守党サッチャーはIRAのテロに厳しい姿勢を崩さず、対立が続いた。1984年10月にはIRAがサッチャーを狙って滞在中のブライトンのホテルを爆破するという事件があったが、サッチャーは危うく難を逃れた。

北アイルランド紛争で合意成立

労働党ブレア政権の登場 ようやく1990年にサッチャーが退陣、労働党の巻き返しが始まり、1997年にブレア政権が成立して和平の気運が高まった。ブレア首相は再三IRA側に停戦を呼びかけ、IRA側も内部に強い反対があったが、停戦に合意、12月には77年ぶりにイギリス首相(ブレア)がシン・フェイン党(アダムズ議長)をロンドンの首相官邸に招き直接会話を行った。
 和平の進捗した背景には、1993年にイギリスとアイルランドがともに加盟するヨーロッパ連合(EU)が発足したことにより、シェンゲン協定によって国境を越えた自由な往来が可能になったことがあった。
 1998年4月10日に「北アイルランド和平合意」が成立し、曲がりなりにも和平が実現した。当日は復活祭の聖金曜日であったので「聖金曜日合意」といわれた。合意によって北アイルランド地方議会の開設、アイルランド側は北イルランドを領有することを放棄(憲法を修正)のうえ、テロ組織は2年以内に武装を解除する、というものであった。これをうけて5月に南北アイルランドで住民投票が行われ、南北共に承認された。6月には北アイルランド議会新設のための選挙が行われ、7月1日に議会が開催された。これによってアイルランド紛争は事実上の解決をみたが、IRA内部の過激グループは脱退して、なおもアイルランド島一体となった統一を主張し、テロを繰り返した。しかし住民の支持を拡げることは出来なかった。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.47-53,>
 和平合意成立後も断続的なテロが行われたが、和平への大勢は動かず、2005年までにIRAが武装放棄を完了、ようやく平穏を取り戻した。
再び危険な徴候 ところが、2016年、国民投票でヨーロッパ連合脱退(BREXIT)を選んだイギリスが、2020年2月1日に正式に離脱したため、新たな問題が浮上した。元々予測されていたことだが、イギリス・アイルランド間が自由に往来できなくなる。イギリスのEU離脱交渉は2020年の12月末に、自由貿易協定の維持、漁業交渉などで一定の合意に達し、合意無き離脱は回避され、アイルランドと北アイルランドの国境手続きなどは復活したものの、大きな障害はは回避されている。