オコンネル
19世紀前半、アイルランド出身でカトリック教徒の解放運動、アイルランド民族運動の指導者として活躍した。
オコンネル Daniel O'Connell(1775-1847) はアイルランド西部のケリー州出身の弁護士。1801年にイングランドがアイルランドを併合してからも続くカトリック教徒に対する差別の撤廃を求める運動を指導した。1823年に、月1ペニーという安い会費で参加できるカトリック協会を設立し、階層の違いを超えた幅広いアイルランド人の結集をはかり、大衆運動を展開した。オコンネルの大衆運動の盛り上がりに、イギリス政府も対応を迫られた。
1843年、オコンネルはイングランドとアイルランドの合同を解消し、アイルランド独自の議会を開設することをめざして大衆運動を展開した。それはかつてアイルランドの英雄ブライアン=ボルーが侵入してきたヴァイキングと戦って大勝利を収めたという歴史的な場所クロンターフを会場に選び、数回にわって何万という大衆を動員、そのすさまじい大衆デモの威力は「怪物集会(モンスター・ミーティング)」と言われた。しかし、このときはカトリック教徒解放法とちがって、イギリス議会内に同調者があらわれなかった。政府(保守党ピール内閣)は10月8日、集会の開会を禁止した。あくまで合法的に運動を進めようとしていたオコンネルは、涙をのんで政府の命令に従うことにした。アイルランドの大衆の失望は大きく、運動は分裂し、実力で独立を勝ち取ろうという青年アイルランド党の運動が主流となっていく。オコンネルは間もなく1847年に失意のうちに亡くなった。<以上、波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994 中公新書 p.159-166>
長く続く北アイルランド紛争の最初の一コマだった。
カトリック教徒解放法の実現
そんなとき、1828年夏、オコンネルはイギリス下院議員のクレア県補欠選挙に立候補した。カトリック信者は当選しても議員になれないことは判っていたが、反カトリック派の候補者を落選させるためだけに立候補したのだった。立候補を禁止する法律はなかった。そして対立候補の二倍以上の票を獲得して目的を達した。もちろん政府はオコンネルに議員の資格を与えなかったが、これをきっかにアイルランドのカトリック教徒の間に政府を非難する声が強まった。暴動の危険性も出てきた状勢を見たトーリ党ウェリントン内閣は、1829年4月13日、カトリック教徒解放法を議会に提出し、可決成立した。こうしてイギリス及びアイルランドではカトリック教徒にも議員、閣僚、裁判官、陸海軍の将官になる道が開かれ、彼自身も改めて下院議員となり、イギリス議会で政府のアイルランド政策を批判し、その独立を求める運動を展開するようになった。アイルランド独立運動との関わり
1840年にオコンネルは「合同法撤廃協会」をつくり、イギリスとアイルランドの合同の白紙撤回を掲げて運動を開始した。アイルランド独立をめざす若い世代は青年アイルランド党を結成し、当初はオコンネルとともに運動を進めていたが、あくまで合法的な手段の平和的な運動に固執するオコンネルと対立するようになり、アイルランド独立運動の主流となっていった。そのためオコンネルは次第に運動から排除されるようになり、1847年に失意のうちに死去した。なお、同時期に展開されていたチャーティスト運動の指導者オコンナーO'Connor とは別人。Episode オコンネル時代の怪物集会
オコンネルは1775年、アイルランドのケリーの小地主の息子として生まれ、カトリック教徒でありながら法律を学び、弁護士となった第一号である。1814年に政界に入り、1847年まで一世を風靡した政治家であり、この時代を「オコンネルの時代」と言う人もいる。オコンネルは、常に合法的な大衆運動をめざした。1ペニーという安い会費で会員になれるカトリック協会をつくり、選挙を通じてカトリック教徒解放法を実現したことにその精神が現れている。現在のアイルランドの首都ダブリンには、彼の名を冠したオコンネル・ストリートという目抜き通りがある。1843年、オコンネルはイングランドとアイルランドの合同を解消し、アイルランド独自の議会を開設することをめざして大衆運動を展開した。それはかつてアイルランドの英雄ブライアン=ボルーが侵入してきたヴァイキングと戦って大勝利を収めたという歴史的な場所クロンターフを会場に選び、数回にわって何万という大衆を動員、そのすさまじい大衆デモの威力は「怪物集会(モンスター・ミーティング)」と言われた。しかし、このときはカトリック教徒解放法とちがって、イギリス議会内に同調者があらわれなかった。政府(保守党ピール内閣)は10月8日、集会の開会を禁止した。あくまで合法的に運動を進めようとしていたオコンネルは、涙をのんで政府の命令に従うことにした。アイルランドの大衆の失望は大きく、運動は分裂し、実力で独立を勝ち取ろうという青年アイルランド党の運動が主流となっていく。オコンネルは間もなく1847年に失意のうちに亡くなった。<以上、波多野裕造『物語アイルランドの歴史』1994 中公新書 p.159-166>
カトリックの解放者としての評価
現在のアイルランド共和国では、オコンネルは「解放者」LIberator と呼ばれ、首都ダブリンの目抜き通りオコンネル・ストリートの入り口には、1864年に作られた巨大なオコンネル像が建っている。ところが北アイルランドのベルファストではオコンネルの評判は極端に悪い。プロテスタントから見れば、オコンネルは敵とみられている。1864年の銅像の除幕式にベルファストから参加したカトリックの一団が帰って行ったところ、カトリックを待ち構えて駅前に集まったプロテスタント(オレンジメンと言われる)はオコンネルを嘲笑する歌をうたい、肖像を焼き払って気勢を上げ、両派の衝突事件に発展した。<堀越智『北アイルランド紛争の歴史』1996 論創社 p.48-51>長く続く北アイルランド紛争の最初の一コマだった。