アイルランド併合
1801年、イギリスがアイルランドを併合、国号を大ブリテンおよびアイルランド連合王国とした。
アイルランドはクロムウェルによる征服後、事実上イギリス(イングランド)の植民地となっていたが、アメリカ独立、フランス革命の影響で独立を求める運動が活発になってきた。アルスター義勇軍を組織したグラタンなどの活動によって、アイルランド議会の一定の自治も認められた。しかし、運動の過激化を恐れたイギリス政府は弾圧を強めた。さらに、革命に対する干渉に反発するフランス革命政府が、アイルランドと手を結ぶ可能性も高まっていた。そこでピット首相は1707年のスコットランド併合と同じように、アイルランドを併合することを考え、アイルランド議会の議員を買収し、イギリス議会で1800年に「合同法」(Act of Union)を成立させ、翌1801年1月1日をもって国号は正式に「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となった。
カトリック教徒差別は続く
当時、アイルランドの首都ダブリンには貴族院(定員210名)と庶民院(150の選挙区から選ばれる定員300人)の二院制からなる議会があったが、「合邦」にあたって解散し、ウェストミンスター宮殿内のイギリス議会に吸収された。その際、プロテスタント系(非国教会信者でノンコンフォーミストといわれた)は代表をイギリス議会に送ることができたが、アイルランドで多数を占めるカトリック教徒は差別され、代表を選出することさえできなくなった。ピットはカトリック教徒は官職に就けないと規定した審査法(1673年制定)を廃止して、国教徒と同じ権利を与えることに踏み切ろうとしたが、時の国王ジョージ3世に反対され、実現しなかった。また、経済的にはイギリス産業革命の波にのまれて、その農業は破壊されることとなった。 → 19世紀のアイルランド問題