北アイルランド紛争
1920年にイギリスのアイルランド統治法によって北アイルランドがアイルランドから分離されて以来、多数派のプロテスタントと少数派のカトリックとの間で宗教対立が始まった。第二次世界大戦後にも持ち越され、1960年代からさらに活発となり、IRAによるテロとそれに対するプロテスタント側の報復が度重なる事態が続いた。1970~80年代には、ベルファストやロンドンデリーなどだけでは無くロンドンなどでもテロと衝突が激しくなり、イギリス政府にとっても最大の国内課題となった。1990年代に入りEUの経済統合が進む中で、国境が事実上消滅したことで融和が進み、1998年にようやく和平が成立、その後両派も武装解除を行い一応の平穏は実現している。
もともと北アイルランドは、アルスター地方とも言われ、他のアイルランドと同じく、カトリック教徒が多かったが、イギリスの宗教改革の時代以来、イングランドからの国教会信徒とスコットランドからの長老派のプロテスタントが大量に移民してきたため、カトリック教徒は少数派になってしまった。19世紀には北アイルランド人口160万のうち、3分の2がプロテスタント、残り3分の1がカトリック)であった。 → アイルランド問題(19世紀) アイルランド問題(20世紀)
プロテスタントとカトリックの対立
多数派のプロテスタント側は、カトリックの多いアイルランドと合併されると少数派に転化してしまうので合併に反対し、イギリスとの統一(ユニオン)の維持を主張したのでユニオニストともいう。少数派のカトリック側は、アイルランド民族としてイギリスからの分離し、アイルランドへの合併を主張しているのでナショナリストと言われている。北アイルランドで対立する両派を図式化すると次のようになる。
プロテスタント(英国教会信者※)
=ユニオニスト
(イギリスとの統合維持を主張)
=過激派としてロイヤリスト
(英王室崇拝主義者)を含む
カトリック(ローマ教会信者)
=ナショナリスト
(民族主義者)
=過激派としてリパブリカン
(英との武力闘争を辞さない)を含む※※
※北アイルランドのプロテスタントはイギリス国教会信者が多いが、他にスコットランドから移住してきたカルヴァン系の長老派教会信者やルター派などの少数派もいた。※※IRAとシン=フェイン党はこの中の一派だが、北アイルランドでもベルファストなど都市部にとどまっている。<鈴木良平『アイルランド問題とは何か』2000 丸善ライブラリー p.ix,>
IRAの武力闘争
1960年代末から両派の対立が深刻になってきて、1969年8月、にカトリック系住民の「アイルランド共和国軍(IRA)」が武装闘争を展開し始めた。彼らの主張は武力による北アイルランドのアイルランド共和国への併合であり、イギリスの直接統治に対しては徹底した抵抗を行うとし、70~80年代に激しいテロ活動を展開した。この時期には、イギリスのEC加盟など、ヨーロッパ統合が進展しているが、北アイルランドの運動は、統合に反対する分離独立運動の一つと見ることもできる。「血の日曜日」 1972年1月30日、北アイルランドのデリー市で、市民団体である公民権グループのデモ隊に対し、イギリスのパラシュート部隊がなんの警告もなしに発砲して、カトリックの民衆を14人も殺害するという事件がおこった。ちょうど日曜日であったので、この悲惨な出来事は「血の日曜日」といわれた。今ではデリー城下のカトリック住民のポグサイド地区に慰霊碑が建てられていて、赤い花輪が捧げられているが、犠牲者のうち17歳が6人、19歳と20歳が各一人と、半数以上が若者であった。事件の背景には、1970年にIRAが正統派と暫定派に分裂、そのうちの暫定派が武装闘争を強化したことに対し、イギリス当局は71年に非常拘禁法(インターンメント)を施行して予防拘束を強めるなど緊張が高まっていたことがあった。世界的な公民権運動の影響を受けてアイルランドでも人権を否定する非常拘禁法への抗議として行われたデモに対する、イギリス軍の過剰な警備から発砲事件となった。北アイルランドの民衆、および南のアイルランド政府もこのイギリス軍の行為に激しく抗議したが、責任者が処罰されることは無かった。しかしイギリス政府は3月、北六州の議会を停止し、イギリス政府が北六州を直接統治すると宣言した。これは50年にわたって続いていた北アイルランドのプロテスタント系統一党による独裁政治をイギリス政府が否定したことを意味し、IRA暫定派側も無期限の停戦に応じた。しかし交渉は2週間で決裂し、抗争は80年代まで続いた。この事件には2002年に『ブラディ・サンデー』として映画化され、ドキュメンタリータッチで事件の全貌と当時のデリーでのプロテスタントとカトリックの関係などを描いている。
サッチャー政権
イギリス側に1979年に登場した保守党サッチャー政権は、テロに対して厳しい対応で臨んだので緊張が高まり、1984年10月12日には保守党大会のためにブライトンのホテルに滞在していたサッチャーを狙ってIRAが爆弾テロを実行した。サッチャーは危うく難を逃れ、かえって不死身の神話が生まれ逆効果となった。IRA側は本格的なミサイルで武装する動きを見せ、サッチャー政権はスパイ密告作戦や特殊部隊による暗殺作戦、あるいはIRA側の武器密輸を取り締まるなどの対策を強化し、まさに戦争といえる緊張が続いた。和平合意の実現
しかし、1989年のベルリンの壁開放から91年のソ連崩壊に至る激変で、冷戦が終結したことが北アイルランド紛争の鎮静化をもたらすことになった。また、紛争(事実上の戦争)の長期化は、次第に住民の和平への希求を強めていった。さらに1993年にヨーロッパ連合(EU)が発足したことにより、イギリスとアイルランドがともに加盟し関税が撤廃され、自由な行き来が出来るようになったので、国境で隔てられていることが無意味になった。そのような中、和平に向かう動きが急速に進んだ。イギリス側でそれを進めたのは労働党ブレア政権であった。北アイルランド和平合意 1998年4月にイギリスのとの北アイルランド和平合意が成立した。ブレアは停戦を呼びかけ、IRA側との直接交渉を働きかけ、曲折を経て1998年4月10日「北アイルランド和平合意」がイギリス、アイルランド、北アイルランド(シン=フェイン党など各派代表からなる)三者の間で成立した。33時間にわたる徹夜討議で合意が夕方は成立した4月10日は復活祭の聖金曜日にあたっていたので、「聖金曜日合意」ともいわれた。その合意の主な内容は、
- 比例代表制による北アイルランド地方議会の新設。
- 北アイルランド地方議会とアイルランド共和国議会の代表による南北協議会の設置。
- イギリス(UK)、アイルランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズの各議会代表による協議会を発足させる。
- アイルランド共和国は北アイルランド領有をうたった憲法を修正する。
- テロ組織の武装解除は2年以内に実施する。
和平協定成立後もIRAの武装解除をめぐって事態はなかなか進捗せず、武装解除に反対するグループによるテロが相次いだ。しかし、和平への欲求は強く、2003年にIRAは武装解除を宣言し、2005年に武装解除を完了させた。
イギリスのEU離脱で再び危機に
その後、イギリス・アイルランドがともに参加するヨーロッパ連合(EU)での経済統合が進み、国境を自由に行き来して関税もなくなったことから、実質的な統合が進んだため、北アイルランドでの紛争は無くなった。ところが、イギリスが2016年の国民投票でEU離脱が決まり、2020年2月1日に正式に離脱したため、アイルランドと北アイルランドの間に再び経済障壁が復活する見通しとなり、紛争が再燃するのではないかと危惧されている。イギリスとEUは経過的措置として経済活動は従来どおりとしているが、2020年末に経過措置が切れた後にどのようになるのか、予断を許さない緊迫が続いている。<2020/11/22記>2020年12月末にイギリスとEU側の自由貿易協定や漁業協定が成立して、イギリスのEU離脱は最終的に確定、合意無き離脱は回避された。国境での通関業務は行われることになったが、関税ゼロが維持されがたことから、大きな混乱はなく離脱が実行された。