ラマルティーヌ
詩人としても活躍していたが、1848年、フランスの二月革命後の臨時政府にブルジョワ共和派の中心として参加。労働者の支持する社会主義派と対立した。六月暴動が起きると実権は軍人のカヴェニャックに奪われた。同年末の大統領選挙に出馬したが、ルイ=ナポレオンに敗れ、引退した。
ラマルティーヌ Alphonse Marie Louis de Part de Lamartine (1790~1869)は、フランスの復古王政期に、若手のロマン派詩人として成功し、有名になった。外交官としても活躍し、ナポリ・フィレンツェに勤務、フランス学士院会員にも選ばれた。その間、ブルジョワ共和派の熱心な鼓吹者となり、さわやかな弁舌で人気を博し、七月王政期には下院議員に当選した。また『ジロンド党史』を書いて共和派の中心人物と目されるようになった。ギゾー内閣が選挙法改正運動を弾圧したのに対し、各地で改革宴会が開かれると、1847年7月、ラマルティーヌも出身地のブルゴーニュ地方マコンで宴会を主催し、その演説は改革派に讃えられた。
三色旗を国旗に制定 二月革命での市街戦の先頭に立った労働者は、赤旗を掲げて戦った。赤旗が政治的シンボルとして用いられたのはこの時が最初であると言われている。臨時政府に対して、労働者は赤旗を新たな国旗として制定せよと迫ったが、ラマルティーヌは拒否し、フランス革命で登場し、王政復古から七月王政期には掲げられることのなかった三色旗を国旗とすることを主張した。労働者たちが立てた赤旗が林立するパリ市庁舎のドームで、ラマルティーヌは「黄金のハープ」と言われた持ち前の弁舌で必死に演説した。
労働者を排除 ラマルティーヌは本心からの共和主義者ではなく、民衆に突き上げられた「翌日の共和派」とされていた、との評価もあるが、臨時政府内の社会主義者ルイ=ブランや、民衆を扇動する革命家ブランキなどを厳しく排除しようとした点では、明確な「ブルジョワ共和派」とみて良いと思われる。 → 第二共和政
四月普通選挙では社会主義派が後退し、ブルジョワ共和派が多数を占め、ラマルティーヌは臨時政府に代わって組織された執行委員会(事実上の政府)に加わり、その中心として政権を維持した。そこのころから、経済不況が深刻化し、財政困難に陥ったこともあって、ブルジョワ共和派は労働者の要求で設立された国立作業場の閉鎖を決めた。それに反対した労働者が六月蜂起が起きると、政府はそれを収拾することができず、議会はラマルティーヌに代わって軍人カヴェニャックに全権を付与して鎮圧にあたらせた。そのため、ラマルティーヌは実権を失い、カヴェニャックが実権ををにぎることとなった。
大統領選挙に落選 カヴェニャック政権のもとで、11月に憲法制定国民議会は第二共和政憲法を制定し、12月に最初の大統領選挙が実施された。ラマルティーヌも立候補したが、結果はナポレオンの甥という名声を生かしたルイ=ナポレオンが74%を越える得票で当選、ラマルティーヌは数万票にも及ばず落選した。1851年にルイ=ナポレオンがクーデターで事実上の共和制を終わらせ、第二帝政への道が開けると、ラマルティーヌは政界を引退した。
二月革命でブルジョワ共和派を主導
1848年の二月革命が起きると臨時政府のメンバーとなり、外交官経験と弁舌を買われて外相に就任、事実上の首相の役割を担った。しかし政権内部では、ルイ=ブランなどの社会主義者とは常に対立し、労働者の完全な平等の要求を拒否、金融資本家や富裕な農民層など有産階級の利害を代表することとなった。三色旗を国旗に制定 二月革命での市街戦の先頭に立った労働者は、赤旗を掲げて戦った。赤旗が政治的シンボルとして用いられたのはこの時が最初であると言われている。臨時政府に対して、労働者は赤旗を新たな国旗として制定せよと迫ったが、ラマルティーヌは拒否し、フランス革命で登場し、王政復古から七月王政期には掲げられることのなかった三色旗を国旗とすることを主張した。労働者たちが立てた赤旗が林立するパリ市庁舎のドームで、ラマルティーヌは「黄金のハープ」と言われた持ち前の弁舌で必死に演説した。
(引用)市民諸君、私は死を賭して血の旗をしりぞける。……諸君が政府にもちこむ赤旗は、91年と93年に人民の血の中を引きずられ、シャン・ド・マルス(練兵場)をひとまわりしたにすぎないが、三色旗は祖国フランスの栄光と自由をたずさえて世界中をかけめぐってきたからだ。フランス、三色旗、これは同じ思想、同じ権威であり、また事あらば敵にとって同じ恐怖の的となるだろう。<谷川稔他『世界の歴史』22 中央公論新社 p.92>群衆のあいだから喝采がおこり、労働者は三色旗の先に赤いバラの飾りをつけることで引き下がらざるを得なかった。
労働者を排除 ラマルティーヌは本心からの共和主義者ではなく、民衆に突き上げられた「翌日の共和派」とされていた、との評価もあるが、臨時政府内の社会主義者ルイ=ブランや、民衆を扇動する革命家ブランキなどを厳しく排除しようとした点では、明確な「ブルジョワ共和派」とみて良いと思われる。 → 第二共和政
四月普通選挙では社会主義派が後退し、ブルジョワ共和派が多数を占め、ラマルティーヌは臨時政府に代わって組織された執行委員会(事実上の政府)に加わり、その中心として政権を維持した。そこのころから、経済不況が深刻化し、財政困難に陥ったこともあって、ブルジョワ共和派は労働者の要求で設立された国立作業場の閉鎖を決めた。それに反対した労働者が六月蜂起が起きると、政府はそれを収拾することができず、議会はラマルティーヌに代わって軍人カヴェニャックに全権を付与して鎮圧にあたらせた。そのため、ラマルティーヌは実権を失い、カヴェニャックが実権ををにぎることとなった。
大統領選挙に落選 カヴェニャック政権のもとで、11月に憲法制定国民議会は第二共和政憲法を制定し、12月に最初の大統領選挙が実施された。ラマルティーヌも立候補したが、結果はナポレオンの甥という名声を生かしたルイ=ナポレオンが74%を越える得票で当選、ラマルティーヌは数万票にも及ばず落選した。1851年にルイ=ナポレオンがクーデターで事実上の共和制を終わらせ、第二帝政への道が開けると、ラマルティーヌは政界を引退した。