東方問題
19世紀、ヨーロッパ諸国のオスマン帝国領への進出から起こった対立。ウィーン体制の列強バランスを揺るがす問題となった。
19世紀、オスマン帝国の混乱の中で、帝国に支配されていたギリシア人やスラヴ人、アラブ人、エジプトなどでの民族独立が起きると、ロシア、イギリス、フランスなどのヨーロッパ列強が介入して抗争したことを東方問題という。バルカン半島・黒海、中東への進出をねらい南下政策をとるロシアと、それを警戒しつつ、イギリスはインド航路の防衛と自由貿易市場の確保、フランスはエジプトでの権益、オーストリアはバルカン半島での領土的野心をもち、それぞれ利害を異にして抗争した。
東方問題の意味
この列強対立は、フランス革命・ナポレオン戦争後のウィーン会議でつくられた、ヨーロッパの国際秩序としてのウィーン体制、具体的には神聖同盟(イギリスをのぞく君主国が参加)、五国同盟(イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア)によるバランスを崩し、ヨーロッパ列強が再び戦争しあうことになる恐れがあったので、「東方問題」と言われた。東方問題の展開
19世紀を通じ、セルビアの独立運動、ギリシア独立戦争、エジプト=トルコ戦争、クリミア戦争、露土戦争などが起こったが、19世紀後半に急速に力をつけたドイツのビスマルクが調停した1878年のベルリン会議で一応の終結を見る。しかし、その後も列強の対立はバルカン問題として継続し、第一次世界大戦の要因となっていく。