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ギリシア独立戦争

1821年に始まったオスマン帝国からのギリシアの独立をめざす戦争で、ウィーン体制下でヨーロッパ諸国が支援したが、同時に体制の動揺につながった。27年のナヴァリノ海戦を経て1830年にギリシア王国として独立した。

 ビザンツ帝国滅亡(1453年)後、ギリシアの地はオスマン帝国の支配を受けていた。オスマン帝国の支配下では、ギリシャ人はギリシア正教の信仰は認められた(ミッレト制のもとで宗教共同体を構成していた)が、経済的・政治的な自由は認められていなかった。
 19世紀初めになって、フランス革命・ナポレオンの登場に刺激され、独立をめざすようになった。またイギリスなど西欧諸国内に、ギリシア文明を西欧文明の原点として敬愛する運動である「ギリシア愛護主義」が起こり、独立運動の支援が活発になった。

独立戦争の開始

 1814年には、ウィーンに滞在しフランス革命の理念などの影響受けたギリシア人青年たちが友愛協会(フィリキ・エテリア)を組織、1821年3月、イプシランディスに率いられてオスマン帝国(マフムト2世)からの独立戦争を開始した。22年には独立宣言(最初の憲法制定)。ヨーロッパ各地からもイギリスの詩人バイロンのように義勇軍が参加した。
 オスマン帝国はギリシアの独立によって1453年のコンスタンティノープル占領、ビザンツ帝国滅亡の時以来の支配が覆されることを強く警戒した。ギリシア独立運動が強まると、ギリシア正教のコンスタンティノープル教会が煽動しているとしてその総主教グレゴリオス5世と捕らえ、1821年に独立戦争が始まるとそれへの報復として総主教を殺害した。こうして総主教はギリシア独立戦争に際して殉教したのだった。<久松英二『ギリシア正教 東方の知』2012 講談社選書メチエ p.195>

神聖同盟の足並み乱れる

 しかし、ギリシア独立運動を巡る国際社会は必ずしも独立戦争にとって好都合ではなかった。ウィーン体制のもとで、オーストリアのメッテルニヒは自由主義・民族主義の高揚に危機を感じ、独立に反対、神聖同盟も独立に反対を表明した。オスマン帝国はエジプトのムハンマド=アリーの支援をうけて独立運動を抑えにかかり、アテネを占領し、独立軍は苦戦となった。

ナヴァリノの海戦

 しかし、ロシアのニコライ1世南下政策によるギリシア援助を始めると、イギリス・フランスも東洋進出を狙って支援を強化、ここに露英仏の三国による共同軍事行動が行われることとなり、1827年、ナヴァリノの海戦となった。ナヴァリノはペロポネソス半島の南西に位置する。英・仏・露連合艦隊は、イギリスの提督コドリントンが指揮、オスマン帝国(マフムト2世)・エジプト(ムハンマド=アリー朝)の連合海軍との間で激戦となり、オスマン帝国・エジプト艦隊が全滅した。この敗北でオスマン帝国はギリシアの独立を認めざるをえなくなった。なお、ナヴァリノの海戦は「帆船時代の最後の大海戦」と言われており、これ以後の海戦は蒸気船である軍艦によって行われるようになる。その点で、このナヴァリノの海戦は、一つの時代の終わりを象徴していた。

独立の承認

 1829年、オスマン帝国とロシアはアドリアノープル条約を締結、オスマン帝国は黒海北岸をロシアに割譲した。さらにギリシアの独立は、1830年にロンドン会議で国際的に承認された。この結果、オスマン帝国の権威は低下したが、一方で神聖同盟の結束もバルカン方面の利害を巡って対立し、ウィーン体制の動揺につながった。
 → 東方問題  ギリシア王国  オスマン帝国領の縮小
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書籍案内

村田奈々子
『物語近現代ギリシア史』
2012 中公新書