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クリミア戦争

1853~56年、ロシアが南下政策を積極化させ、オスマン帝国に宣戦したことに対し、イギリスとフランス及びサルデーニャがオスマン帝国を支援して列強間の戦争となった。ロシアが敗北し、パリ条約で講和、オスマン帝国の領土は保全され、ロシアのバルカン方面での南下はいったん抑えられた。戦後にロシアはアレクサンドル2世による近代化改革を行う。

 広義には16世紀末以来のロシア=トルコ戦争の一環である1853年~56年、ロシアニコライ1世)とオスマン帝国の間の戦争に、後者を支援するフランスナポレオン3世の第二帝政時代)とイギリス(ヴィクトリア朝)が参戦した。
 実質はロシア軍対フランス・イギリス連合軍の戦闘となったこの戦争は、ヨーロッパ中心部からは遠く離れたクリミア半島を戦場として行われたが、ヨーロッパでナポレオン戦争後、約40年にわたって続いた列強のバランスが、いわゆる東方問題の中で利害が対立したために起こった。ギリシア独立戦争では共同歩調をとったロシア、フランス、イギリスであったが、ロシアが南下政策を強めた事に対し、他の二国がそれを阻止するために、「ヨーロッパの病人」といわれたオスマン帝国を助けることを口実に参戦したものである。この戦争は、すでに1848年に終わりを告げていたウィーン体制の国際秩序が完全に崩壊したことを示している。
 オスマン帝国はエジプト=トルコ戦争に敗れ、領土を失いつつあり、国力を回復するため、スルタンアブデュルメジト1世による上からの改革であるタンジマートが1839年から始まっており、その進行中であった。

戦争の背景と口実

聖地管理権問題 オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めるロシアに対し、イギリスとフランスが警戒した。まず、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に対し、イェルサレム(パレスティナ)の聖地管理権を要求し、それを認めさせた。ナポレオン3世が支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うためであった。それに対して、ロシアのニコライ1世は、オスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護(1774年のキュチュク=カイナルジャ条約で認められていた)を口実に同盟を申し込んだ。
POINT 聖地管理権問題やギリシア正教徒保護問題はいずれも戦争の原因ではなく、口実に過ぎない。戦争の原因は、東方への勢力拡大をねらう列強、すなわちロシア、イギリス、フランスの三国の利害が対立したことにある。19世紀前半のウィーン体制的列強バランスが崩壊したことを意味している。

開戦と拡大

 オスマン帝国がロシアの申し出を拒否したので、1853年年7月、ロシアはオスマン帝国に宣戦、ロシア領ベッサラビアからオスマン帝国を宗主国とするモルダヴィア公国・ワラキア公国の同ナウ下流域に侵攻し、戦闘が始まった。1854年3月、イギリスは戦争担当の内相パーマーストンが主導し、ナポレオン3世にはかり、オスマン帝国を支援するため参戦した。その意図は、ロシアがオスマン帝国を破って黒海から地中海方面に進出すれば、イギリスのインドなどアジア地域へのルートを断たれる恐れがあると危惧したからであった。またサルデーニャ王国がフランスの好意を得ようとして英仏側に参戦した。こうして戦争は、ロシア対オスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ王国の図式となった。

戦争の経過

 フランス軍3万、イギリス軍2万1千、オスマン帝国軍6千がクリミア半島に上陸、セヴァストーポリ要塞5万の守備隊との攻防戦が焦点となった。英仏軍の補給も困難で、戦闘は長期化し、激戦が続いたが、イギリスは1855年からパーマーストンが首相となって戦争指導を強め、また当初中立を宣言していたオーストリアが軍をロシア国境に集めて圧力を加えたため、ロシアの孤立が決定的となり、ようやく1855年8月、セヴァストーポリが陥落してロシアの敗北で終わった。
 ロシアの勢力圏であったクリミアで、遠くからの遠征軍であるイギリス・フランス連合軍にロシア軍が敗れてしまったのは、軍の組織や装備の古さだけでなく、鉄道が未発達など、近代化の遅れに原因があったことがあげられている。
 セヴァストーポリの激戦に26歳の砲兵少尉として参加したトルストイは、このときの体験をもとに『セヴァストーポリ』という文学作品を書き、一発の弾丸が兵士の生死を決する一瞬を捉えて描いている。

Episode カーディガン卿、カーディガンを考案

(引用)この戦争は、実にひどい条件の中で戦かわれた、とびきりひどい戦争だった。連合国側が優勢だったけれど、損失は大きかった。ある時など、軽装軍団(引用者注、軽騎兵軍団)の司令官カーディガン卿が、バカだからバラクラバの戦いで、銃剣と大砲の弾のどっちが強いか、試してやろうと思ったんだ。おかげで何千人ものイギリス兵が、とんでもない目にあった。殺されなかったものも、食糧不足と、凍りつくような寒さとで、ひどい苦しみを味わった。馬でさえ、着るものがなくて(ああ!)死んじゃったんだから。さらに追い討ちをかけたのがコレラの流行で、死者は、一日百人を上まわった。<ジョン・フォーマン/尾崎寔訳『とびきり愉快なイギリス史』1997 ちくま文庫 p.208>
 ここに出てくるカーディガン卿がどんな狂気の指揮をしたか、そしてその戦争がどんな悲惨な結末となったかを描いたのが、1968年のイギリス映画、トニー=リチャードソン監督の『遙かなる戦場』。名優トレバー=ハワードがカーディガン卿を快演している。なお、このカーディガン卿、名前の通り、カーディガンを発明した人。何でも、戦場で怪我をした兵士に着せる簡便な医療用として発案したらしい。セーラー服(水兵服)とカーディガンは、ともに戦場で生まれた組合せだったのです。

講和会議

 翌1856年、パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。パリ条約では、オスマン帝国の領土が保全されると共に、ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認された。またロシアはベッサラビア(現モルドバ)をモルダヴィア公国に割譲し、そのモルダヴィア公国はワラキア公国と共に自治が認められた(ロシア軍は撤退したがオスマン帝国の宗主権が復活した)。なおこの二国(ドナウ二公国という)は1859年に統一し、1866年にはルーマニア公国となる。またセルビア公国の自治も認められた。

戦争の結果と影響

 まずフランスはこの戦争の勝利の結果、ナポレオン没落以来の地位低下からヨーロッパの強国の一角にその地位を戻した。またナポレオン3世のフランス内外での人気は高まり、皇帝専制政治を国内で作りあげることを可能にした。イギリスはロシアの南下を阻止したことでアジア支配ルートを維持できた。クリミア戦争終戦の翌年、すぐにインドの大反乱が起こるが、それを鎮圧し、インドを直轄支配下に入れる。また戦勝国側についたサルデーニャ王国は、ナポレオン3世に恩を売った形となり、1858年に首相カヴールプロンビエール密約を結んだ上で、翌年、イタリア統一戦争に突入する。一方、敗れたロシアは、南下政策が大きく挫折することとなり、ウィーン体制時代の「ヨーロッパの憲兵」と言われた地位は低下した。その後進性が明らかとなったので、戦争末期に即位したアレクサンドル2世は自らの手で近代化に向けての改革に取り組むこととなる。
アレクサンドル2世の戦後改革 また、ロシア軍の陸海軍の装備や戦術がイギリス・フランスに大きく立ち後れていることが判明した。ニコライ1世は戦争中の1855年に死去し、代わって即位したアレクサンドル2世は、ロシアの近代化の必要を痛感し、1861年農奴解放令などの「上からの改革」を進め、軍隊の近代化に努めるようになる。
 ロシアはクリミア戦争の敗北でバルカン、黒海方面での南下政策を一時棚上げせざるを得なくなったので、1860年代にはもっぱら中央アジア方面への進出と、東アジア進出に向かった。ロシアが再びバルカン方面での南下の姿勢を強めるのは、アレクサンドル2世の改革が進んだ、1870年代以降になってからであり、1877年には露土戦争(狭義)に踏み切ることになる。
オスマン帝国への影響 クリミア戦争でロシアが敗北したことは、オスマン帝国にとって積年の脅威であったロシアの南下政策が停止されたことを意味し、歓迎されることだった。しかし、ロシアの脅威は去ったが、イギリス・フランスはオスマン帝国に対し勝利の代償として様々な圧力を加え、オスマン帝国も重い負債を抱えることとなる。
 当時、18世紀以来のオスマン帝国の危機はギリシアの独立、エジプトの分離などとして続いており、スルタン政府は一定の近代化にふみきり、1839年からタンジマートを開始していた。クリミア戦争後の状況はイギリス・フランスの要求がさらに強まり、1856年改革勅令を発布して非イスラーム教徒(つまりキリスト教徒)の人権を認めるなどの改革を行った。タンジマートはロシアの脅威が減退したことで進めることが出来、1876年にはアジア最初の憲法であるミドハト憲法の制定まで進んだ。ところが国力を回復したロシアが再び南下政策を強め、1877年には露土戦争が勃発したため、翌年には憲法を停止、アブデュルハミト2世が専制政治に戻り、オスマン帝国の近代化は頓挫する。クリミア戦争は勝者であったオスマン帝国にとっても一つの転換点であった。
POINT 敗北したロシアは、南下政策がいったん頓挫し、上からの改革に迫られたこと。イギリスの世界帝国としてのアジア支配が維持されたこと、フランスはナポレオン3世の第二帝政の権威を高めたこと。おまけとしてサルデーニャがフランスの支援を得てイタリア統一に乗り出す保証を得たこと(裏切られるが)。さらにオスマン帝国ではイギリス・フランスの要求が強まったことに応えてタンジマート改革が進められていくこと。これらのようにクリミア戦争は関与した各国の内部の変化をもたらしている。

世界史上のクリミア戦争

 クリミア戦争(1853~56年)があった19世紀中ごろ、世界では、中国の太平天国の乱(1851~1864年)が続いており、終戦の翌1857年にはインドの大反乱(シパーヒーの乱)が起こっている。またクリミア戦争は、遠くアジアの日本にも影響を及ぼしている。
日本の開国への影響 アメリカ合衆国は1853年7月、ペリーを日本に派遣して圧力をかけ、翌年に日米和親条約を締結して日本の開国に成功した。日本を開国させたのがアメリカだったと言うことは、当時、イギリス・フランス・ロシアがクリミア戦争に集中していたことも背景にあった。ただロシアのニコライ1世はアメリカに対抗してプチャーチンを派遣して日本に開国を迫り、同1853年8月に長崎に入港し、日本との交渉を開始した。しかし、クリミア戦争開戦の知らせが入り、危険を避けていったん長崎を退いた。翌年、日米和親条約締結の知らせを受け、再び長崎に赴き、1855年2月(日本暦54年12月)に日露和親条約を締結している。
 このように、アメリカは英仏露がクリミア戦争で戦っている最中に日本を開国させることに成功したが、次の1860年代に入ると南北戦争(1861~65年)が勃発したため、日本から後退せざるを得なくなり、代わってイギリス・フランス・ロシアの日本進出が活発化することとなる。
ナイティンゲールの活動 なお、この戦争の時、イギリスの看護婦ナイティンゲールが派遣され、イスタンブールの対岸のスクタリの病院で傷病兵の看護にあたった。当時は看護婦の地位はまだ成り立っておらず、軍も従軍看護婦を認めていなかったが、彼女はそのような社会と軍の無理解を覆す働きを実践し、近代看護の創始者といわれている。またその活動が刺激となって、スイス人のアンリ=デュナンが国際的な救援機関としての国際赤十字を設立することを提唱した。
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DVD 案内

トニー・リチャードソン監督
『遙かなる戦場』
出演 T.ハワード、V.レッドグレーブ、J.ギルガード
1968 イギリス映画

クリミア戦争のイギリス軽騎兵の戦いを描く。戦争の歴史的背景を説明するアニメも面白い。近代化される前の軍隊の愚かさ、恐らく騎兵の活躍が最後となったであろう戦闘が見事に映像化されている。