聖地管理権
イスラーム勢力の支配下に入った聖地イェルサレムのキリスト教教会の管理権。それをめぐるフランス・ロシアの対立からクリミア戦争(1853~56年)が起こった。
クリミア戦争の要因となった、聖地イェルサレムの管理権をめぐるロシアとフランスの対立。パレスティナのイェルサレムはオスマン帝国領内に取り込まれていたが、その地の聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会などのキリスト教聖地の管理権は、オスマン帝国がフランスに対して認めたカピチュレーションを根拠に、16世紀以降、フランス王が持つようになった。フランス革命の混乱の中でフランスが後退したすきに、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた(1808年)。
フランスとロシアの対立
1852年に即位したフランスのナポレオン3世は、カトリック教会が支持基盤であったので、聖地管理権を回復しようとオスマン帝国に要求して認めさせた。ロシアのニコライ1世はフランスの進出に対抗して、オスマン帝国に対し聖地管理権の復活と、ギリシア正教徒の保護を口実に同盟を申し込んだがトルコに拒否されたので、1853年、オスマン帝国に宣戦布告し、クリミア戦争となった。