ニコライ1世
ロシア皇帝(在位1825~55)。ウィーン体制を支える。クリミア戦争を起こしたが、不利な戦いが続く中で病死、戦争にも敗れ、ロシアの後進性が明らかになった。
ロシアのロマノフ朝で、兄のアレクサンドル1世の急逝によって1825年に皇帝となったが、その即位の時にデカブリストの反乱が起こり、ただちに鎮圧しなければならなかった。
国内でツァーリズムの強化に努めるとともに、ウィーン体制を揺るがす自由主義や民族主義に対する保守反動体制の一翼として期待され、1848年革命がヨーロッパ各国で勃発すると、オーストリアやポーランドでの革命運動を鎮圧し、「ヨーロッパの憲兵」といわれた。さらにオスマン帝国の弱体化に乗じ、エジプト=トルコ戦争に介入、黒海方面への進出を図った。 東方問題にかかわり、ギリシア独立戦争ではギリシアを支援したが、エジプト=トルコ戦争ではオスマン帝国を支援
ニコライ1世の時代には、1847年に初代の東シベリア総督としてムラヴィヨフを任命するなど、東方への進出にも積極的で、クリミア戦争の最中、プチャーチンを日本に派遣し、1855年、日露和親条約を締結した。
国内でツァーリズムの強化に努めるとともに、ウィーン体制を揺るがす自由主義や民族主義に対する保守反動体制の一翼として期待され、1848年革命がヨーロッパ各国で勃発すると、オーストリアやポーランドでの革命運動を鎮圧し、「ヨーロッパの憲兵」といわれた。さらにオスマン帝国の弱体化に乗じ、エジプト=トルコ戦争に介入、黒海方面への進出を図った。 東方問題にかかわり、ギリシア独立戦争ではギリシアを支援したが、エジプト=トルコ戦争ではオスマン帝国を支援
クリミア戦争を起こす
さらに南下政策を強めてオスマン帝国との対立を深め、聖地管理権をめぐって戦端を開いた。しかしオスマン帝国にはフランスとイギリスが支援、1853年に始まったクリミア戦争では敗北が決定的となった。その戦争中に病死し、アレクサンドル2世が後を継いだ。ニコライ1世の時代には、1847年に初代の東シベリア総督としてムラヴィヨフを任命するなど、東方への進出にも積極的で、クリミア戦争の最中、プチャーチンを日本に派遣し、1855年、日露和親条約を締結した。