スコットランド
大ブリテン島の北部一帯に独立した王国を成立させた。南のイングランドとは異なる文化を形成しながら抗争した。次第にカルヴァン派の長老派が有力になる。
スコットランド GoogleMap
- (1)スコットランド王国
- (2)イングランドとの同君連合
- (3)イングランドによる併合
- (4)分離運動
- (5)2014年住民投票
スコットランド王国
スコットランド王国の形成
スコットランドの
セント・アンドリュー旗
イングランドとの抗争
スコットランド王国はイングランドの文化を受け入れ、宗主権を認めていたが、13世紀の終わりにイングランド王プランタジネット朝エドワード1世が大ブリテン島の統一をめざしてスコットランドに侵攻した(その戦費調達のため、1295年に模範議会を召集した)。スコットランドではウィリアム=ウォリスが指導者となって激しく抵抗し、1297年にはスターリングブリッジの戦いでイングランド軍を破った。エドワード1世はスコットランド側の貴族の対立につけ込んで1305年にウォリスを捕らえて処刑した。Episode 「ブレイブハート」ウィリアム=ウォリス
エドワード1世のスコットランド侵略に抵抗したスコットランドの英雄がウィリアム=ウォリス。彼を主人公とした映画のメル=ギブソンが監督・主演した『ブレイブハート』は1995年のアカデミー賞作品賞、監督賞などを受賞し、日本でも好評だった。1297~1305年のウォリスの率いるスコットランド軍が果敢にイングランド軍と戦った史実を描いており、戦闘シーンは迫力がある。前後のプロットには歴史的事実と合わないことも多々あるが、当時のスコットランドの置かれた状況、貴族間の対立、フランスとの同盟関係、領主と農奴の関係なども描き込まれており、参考になる。また敵役として描かれたエドワード1世(ロングシャンク)が存在感があって面白い。またこの映画が、スコットランドのナショナリズムを刺激し、1999年のスコットランド議会開設が実現した背景となった言われる点も興味深い。スコットランド王国の自立
ウォリスの処刑後、スコットランド王国は反撃に転じ、1314年、名門貴族ブルース家のロバート=ブルースは、エドワード2世(1世の子)のイングランド軍をバノックバーンの戦いで破り、1323年にローマ教皇から正式にスコットランド国王(ロバート1世)として認められ、イングランドのエドワード3世は1328年にロバート1世のスコットランド王位を承認した。ロバートはスコットランドの英雄として現在も語り継がれている。こうしてスコットランド王国は1328年から、イングランド王国と同君王国となる1603年まで、一人の国王に統治される独立した王国として存在した。ステュアート朝
しかし、ロバート1世の後継者ディヴィッド2世は再びイングランドに攻め込み、逆に捕らえられて11年間の捕虜生活を送るという事態となり、その甥のロバートが宮宰(ハイ・ステュアート)としてその間の王国を取り仕切った。この役職名が家名となってステュアート家といわれるようになり、1371年、ロバートがロバート2世として王位についてステュアート朝となった。その後もスコットランドとイングランドは戦争状態が続いたが、イングランドのバラ戦争を収拾したテューダー朝のヘンリ7世はスコットランドとの和平を図り、娘のマーガレットをスコットランド国王ジェームズ4世の妃とした。ジェームズ4世とマーガレットの孫にあたるのがメアリ=ステュアートであり、さらにその子のジェームズ6世が1603年にイングランドの王位も継承することと成り、イングランド国王に迎えられてジェームズ1世となり、イングランドのステュアート朝が始まった。
女王メアリ=ステュアートと宗教改革
1542年に女王となったメアリ=ステュアートは生後1ヶ月で、フランスのギーズ家出身の母マリーが摂政となった。そのためフランスとの関係が強まり、後にメアリーもフランスのフランソワ2世と結婚した。彼女はカトリック信仰を強め、宗教改革をおこなったイングラントと対立した。しかしスコットランドでもカトリック教会の腐敗に対する批判が強まっており、カルヴァンの教えを信奉するジョン=ノックスが1559年に反乱を起こし、宗教改革を開始した。メアリーがフランスから戻って改革派を押さえようとしたが、彼女の不道徳な行動から国民の支持を無くし、1567年に議会は女王を追放し、その子ジェームズ6世(後のイングランド王ジェームズ1世)を即位させ、ノックスの改革派教会を国教と定めた。これがスコットランドの宗教改革である。ノックスは厳格な聖書中心主義を説き、偶像崇拝やカトリックの儀式を徹底して否定したが教会制度については改革は不徹底であった。ついで弟子のメルヴィルが長老主義を採用したため、スコットランドのカルヴァン派は長老派(プレスビテリアン)と言われるようになる。<高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』2004 岩波新書 p.26-65 を参照>スコットランド(2) イングランドとの同君連合
17世紀、イングランドとの同君連合となる。スコットランドの長老派の反乱からピューリタン革命がおこる。その過程でクロムウェルのイングランド軍に征服され、従属的な立場に置かれるようになった。
ジェームズ=ステュアート、イングランド王を兼ねる
1603年、イングランドのテューダー朝エリザベス1世が後継のないまま亡くなったため、スコットランド王ステュアート家のジェームズ6世が両国の王を兼ねることとなった。イングランド王としてはジェームズ1世である。かれの母はスコットランド王位を追われてイングランドに逃れた後、エリザベスに捕らえられて処刑されたメアリ=ステュアートであり、父はその愛人であったダンリー卿であった。メアリーとダンリー卿はいずれもヘンリ7世の血をひいているところから、ジェームズはイングランド王として認められた。1606年のユニオン・フラッグ
イングランドとスコットランドの同君連合王国
イングランドとスコットランドは同君連合となり、同一人が国王を兼ねているが、両国はそれぞれ議会を有しており、国家としては別個な存在であった。ジェームズはイングランド王を兼ねることになると、エジンバラを後にしてから20年間スコットランドには帰らずにロンドンで統治した。スコットランドをイングランドに同化することに務め、英語での学校教育や聖書の英訳事業を進めてハイランドを中心としたゲール語圏はこれによって縮小した。特に1611年の欽定訳聖書は、英語世界の拡大に計り知れぬ役割を果たした。しかし、政治的・経済的な差別政策は続き、スコットランドの反イングランド感情はその後も続くこととなった。<高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』2004 岩波新書 p.68-69>特に宗教面ではスコットランドでは長老派の信仰が依然として優勢で、イングランドの国教会との違いが根強く残った。
スコットランドの反乱
ジェームズ1世の次のチャールズ1世がスコットランドの長老派(プレスビテリアン)に対して、イギリス国教会の司教制度や儀式を守ることを強制したことにたいし、長老派は契約を結んで抵抗を決意した。こうして1637年にスコットランドの反乱が勃発し、それにたいしてジェームズ1世は軍事遠征を行って屈服させようとして、その戦費を得るために議会を招集した。イングランド議会も課税に反対し、ここに国王と議会の対立は決定的となりピューリタン革命が勃発した。クロムウェルのスコットランド征服
ピューリタン革命の進行する中、1650年6月27日、チャールズ1世の子のチャールズがスコットランドのアバディーンに上陸、反革命の策謀とスコットランドの反イングランド感情が結びついた。イングランド議会は6月26日スコットランド進撃を決議、クロムウェルを総司令官に任命した。16000の兵力はただちに行動を開始、7月22日にトウィード川をわたってスコットランドに侵入、国王支持派と長老派の内部対立のあるスコットランド軍を9月3日ダンバーの戦いで戦死3000、捕虜1万という損害を与えて大勝。チャールズは長老派の敗北を見て51年1月1日パース近郊のスコーンで戴冠式を挙行。しかし、9月3日クロムウェル軍はウースターで国王軍を破り、チャールズは樹上で一夜を過ごした後、フランスに亡命した。チャールズはクロムウェル死後にイギリスに戻り、王政復古してチャールズ2世となる。<浜林正夫『イギリス市民革命史』 P.201-204>ウィリアム3世の征服
名誉革命で即位したウィリアム3世はスコットランドに対する懐柔策と共に、特に北西部の氏族制的な結束の強いハイランド地方の豪族に対して弾圧を強め、1692年にはその中の代表的豪族マクドナルド一族を奸計で虐殺した(グレンコーの虐殺)。スコットランド(3) イングランドによる併合
1707年、イングランドがスコットランドを併合、大ブリテン王国が成立。
国家としてのスコットランドの消滅
クロムウェルのスコットランド征服の後もスコットランドの反抗に手を焼いたイングランドは完全な合同を狙い、1705年には合同に応じなければ外国扱いにして貿易を規制するという恫喝を加えた。スコットランドでもハイランド以外のローランドではイングランドとの合同による経済成長に期待する声が強まり、宗教の独自教育や自由貿易を認めることを条件に議会合同に応じることになった。これが1707年の合同であり、これによって同君王国は解消されアン女王のもとで大ブリテン王国が成立した、スコットランドは議会を解散してイングランド議会に吸収され、しかも議席配分はイングランドとウェールズの513に対してスコットランドは45人で、人口比5対1からすれば明らかに不利な合同であった。その後もスコットランドの反イングランド感情は根強く、1745~46年には名誉革命によってイングランドを追われたジェームズ2世とそれを支持する勢力がスコットランドで反乱を起こし、鎮圧されるという事件も起こった(ジャコバイトの反乱)。Episode 悲しい結婚式の日
(引用)こうして1707年1月16日、スコットランド議会は110票対67票でみずからの解散と、イングランド議会と合同してあたらしい大ブリテン連合王国議会の形成とを決める法案を通した。発効は同年5月1日である。スコットランドでは、庶民レベルでは合邦反対の声が圧倒的だった。エディンバラでは法案通過日に打ち壊しがあった。しかし、それはほどなく静かな悲しみに席を譲った。合邦発効の5月1日、エディンバラの中心部で議会の鼻の先に立つセント・ジャイルズ大教会の鐘に何者かがいたずらを仕掛けて、古いスコットランド民謡の旋律が打ち鳴らされた。その古謡の名は「結婚の日というのに、どうしてこうも悲しいのだろう」(How can I be sad upon my wedding day)という。・・・この縁組みでスコットランドが破産を免れ、経済再建への一歩を踏みだしたことは認めざるを得ない。しかし、その代償に古い歴史を持つ議会が姿を消した。みずからを身売りしたと、多くの国民の目には映った。曲がりなりにも“国民国家”をなしていたこの国は、国家たることをやめて、ただの国民、“国家なき国民”として生きる道をえらばねばならなかった。<高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』2004 岩波新書 p.86>
スコットランドの啓蒙思想
18世紀以降のスコットランドは、独立国家としての地位を失い、イギリスに併合されたが、その後も独自の風土と文化を維持した。もともとフランスとの関係が深かったことから、18世紀フランスで盛んになった啓蒙思想はスコットランドでも定着し、エジンバラ大学とグラスゴー大学は高い知的水準を持っていた。1776年、『諸国民の富』を発表してイギリス資本主義の発展を理論づけたアダム=スミスもスコットランド人で、グラスゴー大学で学び、その教授となった人物である。スコットランド(4) 分離運動
1990年代、スコットランドのイギリスからの分離独立が高まる。1999年に住民投票の結果、スコットランド議会が復活した。
現在は、イングランド・ウェールズ・北アイルランドとともに連合王国を構成する。人口は約510万人でイギリス全体の約1割。面積はほぼ北海道に等しい。経済的、政治的にはイングランドに同化し、イギリス国家の一部となっているが、文化的な面での自立心は現在も強い。
1990年代にはスコットランドの分離運動も活発となり、イギリス労働党政権下の1997年にはスコットランド議会の独立に関する住民投票が行われ、74.2%の高率で賛成が多数を占め、1999年、約290年ぶりにエディンバラにスコットランド議会が復活した。
Episode キルトとタータンはスコットランドの伝統か?
スコットランドから連想することには、スコッチウィスキーとともに、ひざまでの男物スカートであるキルトと各家ごとに異なった配色を持つとされているタータン=チェックという独特の衣装であろう。キルトとタータンは、ケルト人以来のスコットランド・ハイランド地方の伝統文化とされているが、実はいずれも18世紀の初めから19世紀の初めごろの百年間に生まれたものだという。キルトはハイランドの森の作業所で作られた作業服に過ぎず、タータンは軍隊用の服を作っていた織物業者が、ナポレオン戦争が終わって軍服の需要がなくなってかわりに売り出した時のアイデアだったらしい。キルトもタータンも伝統的な衣装だったわけではなかったが、19世紀のナショナリズムの高揚期にスコットランドのロマン主義小説家のウォルター=スコット(『アイヴァンホー』などの歴史小説で有名)がスコットランドの伝統的、国民的な衣装であるとして、1822年のジョージ4世のエディンバラ行幸(チャールズ2世以来実に172年ぶりの国王のスコットランド行幸だった)などを通じて「創られた伝統」であった。<高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』2004 岩波新書 p.127-158>スコットランド(5) 2014年住民投票
スコットランドの分離独立要求が強まり、2014年9月に住民投票が実施されたが、独立は否決された。
スコットランド独立の動き
スコットランド国旗
住民投票で独立否決
スコットランド民族党(SNP)が主張していた独立の是非を問う住民投票は、イギリスのキャメロン首相がその早期実施に合意し、1914年9月18日に実施された。その結果、独立反対票=200万1926票(55.25%)、独立賛成票=161万7989票(44.65%)で独立は否決され、イギリスに残留することになった。当初、与党保守党党首キャメロン首相は独立反対が優勢であるとみて早期決着を図ったが、投票時期が近づくにつれて賛成派が優勢であることが伝えられ、急きょ終盤になり直接スコットランド入りをして、「痛みを伴う離婚」に喩えて残留を訴え、残留後の大幅な自治の付与を約束した。連立与党の自由党、野党の労働党の各党首も独立反対にまわり、エリザベス女王も残留を希望する旨の発言をした。終盤のなりふり構わないイギリス側の説得が功を奏した形となった。
スコットランド独立をめぐる争点は、整理すると次のようになろう。
- イギリスはサッチャー政権以来、新自由主義経済志向が強く、福祉削減策を採っている(ブレア政権下で修正はされているが)。スコットランドは労働党の基盤が強く、北欧型福祉国家への志向が強い。
- イギリスは核武装し、北大西洋条約機構(NATO)に加盟しているが、スコットランドには核兵器への拒否反応が強い。にもかかわらずイギリスの核爆弾を搭載する原潜の母港はスコットランドのクライド海軍基地に置かれている。
- イギリスは国際的通貨ポンドを発行し、依然として世界経済の中で一定の繁栄を維持している。その繁栄を支える北海油田は、9割がスコットランドに帰属しているにもかかわらず、その恩恵を受けていないと感じている。
- イギリスはヨーロッパ連合に加盟しているが、通貨はユーロではなくポンドを使用し、その政治的統合にも批判的である。スコットランドでは、ヨーロッパ連合との一体感が強く、統合の前進に肯定的である。
独立のネックは通貨問題
イギリス政府及び独立反対派は、スコットランドの分離によってイギリス自体の経済的・軍事的な面での国際的地位が低下することを何よりも恐れた。スコットランド分離をくい止めるための「脅し」としたのが通貨問題であった。独立派は、独立後も英ポンドを維持し、イギリスとの通貨同盟をつくる計画を表明したが、イギリス政府与党はそれを拒否する姿勢をとった。スコットランドの独自通貨となると、その価値の低下が予測される。ポンドをそのまま使用した場合にはスコットランドには中央銀行がないので通貨政策を立てられず、金融機関がその本拠をロンドンに移す恐れがある。また独立した場合の物価高も懸念された。最終段階で独立反対が上回ったのは、独立よりも通貨・物価の安定を望んだ結果と考えられる。<朝日新聞 2014年9月20日朝刊などによる>スコットランド住民投票の影響
スコットランドの独立は住民投票で否決されたが、イギリス政府は2017年にはヨーロッパ連合(EU)残留の可否を国民投票で問うと公約しており、その時に議論が再燃すると思われる。また、イギリス内のウェールズや北アイルランドの分離の要求も出てくることが予想される。ヨーロッパの他の地域では、スペインのカタルーニャ地方、バスク地方の分離要求も強まっている。またイタリアでは、北部のピエモンテ州(トリノ)や北部ベネト州(ヴェネツィア)に経済的に遅れている南イタリアとの分離を求める動きもある。それらの分離独立運動への影響が考えられるが、スコットランドで暴力をともなわない住民投票という形で一応の決着がついたことの意義は大きいであろう。イギリスのEU離脱 2016年7月、イギリスのEU残留に対する国民投票が実施され、予想を覆して離脱が多数を占めイギリスのEU離脱(ブリグジット)がきまった。ところが、スコットランド地域では残留支持が多数を占めたため、スコットランドの分離独立派は、イギリスがEUを離脱するなら、スコットランドのイギリスからの分離独立を求める住民投票を再度行うようもとめる、と示唆しており、今後の行方が注目されている。
NewS 議会選挙で独立派過半数
2021年5月6日に投票のスコットランド議会選挙の大勢が判明、スコットランド国民党(SNP)など独立を掲げる政党が過半数を維持することが確実となった。議会が選出する自治政府は、SNP党首のニコラ=スタージョン(女性)が引き続き主席大臣(首相)を務め、2014年に続く住民投票実施をイギリス政府に要求するものと思われる。住民投票実施の権限は自治政府ではなくイギリス政府にあり、ジョンソン首相は拒否を公言しているが、地元要求をどこまで突っぱねることが出来るか不透明だ。独立派が優勢になっている背景は、イギリスがEUを離脱したことにあり、スコットランドは反対票が62%にのぼったにもかかわらず、総人口の8割を占めるイングランドで賛成が多かったためEU離脱が決まったことで、民意が反映されなかったことへのスコットランドの不満が高まった。独立賛成派は連合王国を離脱し、EUに再加入する道を目指すことになるだろうが、通貨や関税、金融では独立には困難な課題も多く、直ちに分離独立とはならないと思われる。<朝日新聞 2021/5/10 記事より>
*スコットランド国民党(SNP)については、イギリス二大政党の動揺を参照