印刷 | 通常画面に戻る |

ジョージ3世

イギリス国王(1760~1820)として産業革命の時期に当たり、アメリカやインドで植民地を拡大した第一帝国の時期であった。しかし、1763年、「国王の宣言」で植民地人の活動を制限したため反発が強まり、1776年、アメリカ独立戦争が勃発する。この王の在位期間にはその後、フランス革命・ナポレオン戦争など難局が続いたが、トーリ党ピット首相が主導し政党政治を推進した。

 イギリスのハノーヴァー朝の国王、在位1760年から1820年。60年にわたる在位はイギリス史上、ヴィクトリア女王の64年に次ぐ第2位であったが、2022年9月8日、96歳で死去したエリザベス女王(2世)は在位が70年でトップとなったので、ジョージ3世は第3位となった。
 ジョージ3世はすでにイギリスの議会政治・立憲君主制・政党内閣制が確立していた時代で「君臨すれども統治せず」というとおり実権はなかったが、ジョージ1世や2世が英語を話せなかったの対してイギリス生まれだったの英語を話し、国民の人気もあったので、側近を重用して議会政治に抵抗し、王権の復活を策するなど問題が多かった。

植民地政策の失敗

 ジョージ3世の在位は1760年に始まり、60年に及んだ。その始まりは1763年に終わった七年戦争でフランスに勝利して北米植民地を拡大し、インドでもプラッシーの戦い(1757)での勝利によってベンガル地方を獲得するなど、植民地大国の基礎ができたが時代だった。しかし、フランスとの植民地獲得戦争はイギリス財政を圧迫し、その穴をアメリカ植民地に対する収奪で補おうとしたことから植民地側の反発が強まった。  特に、1763年の「国王の宣言」は、植民地人の活動を制限するものであったのでアメリカ大陸のイギリス植民地側の強い反発を受けた。

アメリカ独立戦争起きる

 これらのアメリカ植民地に対する政策の失敗が重なったことで、1775年にアメリカ独立戦争が起こった。1776年のジェファソンが起草した「アメリカ独立宣言」には、ことこまかくジョージ3世の悪政を告発している。
 最終的にはイギリス軍はアメリカ独立戦争に敗れ、国王ジョージ3世は1783年にはパリ条約アメリカ合衆国を承認した。

トーリ党ピットの政党政治

 ジョージ3世は当初、絶対王政の再興を夢見て失策を重ね、政治にはコネや縁故が跋扈し腐敗が進んだ。外交でもアメリカ植民地の独立という大きな失策があった。その後の実際の政治は1783年に弱冠24歳で首相となったトーリ党のピットが牛耳るようになった。ピットは、1789年に始まったフランス革命に対しては、革命が王政廃止に進んだことに強い不安を感じ、対仏大同盟の結成など、積極的に干渉した。続いて、フランスにナポレオンが登場すると、全面的なナポレオン戦争の天愛を余儀なくされた。
 ナポレオンとの戦争の最中の1801年にはグレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国が成立し、連合王国の国王となった。ユニオン=ジャックが使われるようになったのもこの時からである。
 ジョージ3世の時代はアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争とイギリス外交にとって困難な時代が続いたが、同時にその時代は一方で産業革命が進行しており、イギリスが「世界の工場」に躍進していく時代でもあった。この間のイギリスを主導したピットは、アダム=スミス流の自由主義経済政策を採用してフランスとも自由貿易協定を結び、東インド会社に対しては監視・統制を強めるなど、財政再建に努めた。しかしフランス革命干渉からナポレオン戦争に及ぶ長い戦争で再び財政困難に陥ることとなった。

Episode 「お百姓ジョージ」

 ジョージ3世は、先の1・2世が英語も話さなかったのに比べて、英語を話し、国王に関わる祭典の数や規模を増やし、晴れやかな国王の姿を庶民の前に見せ、時には王宮の外に出て森や農場でも気軽に一般市民と会話したりした。
(引用)ときあたかも新聞などのマスメディアが普及し、王室に関する人びとの好奇心を満足させるようになりました。1820年にはイギリス国内で300紙以上発刊されていたそうです。ジョージ3世は偉ぶるでなく、家庭を重んじる誠実なる夫にして父親、病気や老齢には勝てない無力な人間であることを皆に示すことで庶民にも親しまれるようになり、彼を素朴な農夫にたとえる風刺画もありました。そして「農夫王」「お百姓ジョージ」とも渾名されたのです。<池上俊一『王様でたどるイギリス史』2017 岩波ジュニア新書 p.123-124>
 国民に愛されたジョージ3世であったが、遺伝病のポリフィリン症に苦しんで、1788年には精神に異常をきたしてしまった。1810年には症状は決定的となり、政務を執ることができなくなったため皇太子ジョージが摂政となって代わりを務めることになった。「摂政時代」はジョージ3世が1820年に死去するまで続き、ハノーヴァー朝王位はジョージ4世が継承した。

国王の宣言

1763年、イギリス国王ジョージ3世が、アメリカ植民地政策に関して出した宣言。アパラチア山脈以西への移住禁止など、植民地人の活動を制限するもので反発を受けた。

 1763年、イギリス国王ジョージ3世が「勅令」(ロイヤル・オーダー)として出した植民地政策を特に「国王の宣言」といっている。それはイギリスがフレンチ=インディアン戦争(1754~63)後のパリ条約で獲得したルイジアナでのインディアンの反抗を緩和させるためのもので、東はアパラチア山脈(アレガニー山脈とも言う)から、西はミシシッピ河まで、南北はフロリダの北から五大湖を含む地方をイギリス王の直轄地として、植民地人の移住を当分の間禁止し、インディアン保留地とする、というものであった。さらに、植民地はそこでとれる原料品を本国に送らなければならず、現地で加工してはならない、また、他国の植民地と交易してはならないという「排他」制度を復活させ、イギリス人入植者は大いに不満だった。
(引用)この勅令は、アメリカ人には、辺境で思うように活動する自由-狩猟をし、インディアンとの貿易を行い、毛皮を集め、また、ぼろいもうけ仕事をさがしたり、あるいは、土地を手にいれるために、勝手にぶらつき歩いたりするという自由が、もはや、なくなることを意味していたのである。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』岩波書店 P.100>