エスペラント
ポーランドのユダヤ人ザメンホフが1887年に発表した人工国際語。ロシアやナチスドイツの弾圧を受けながら一定の普及を遂げている。
19世紀後半、経済・文化の面での世界の一体化が急速に進む中、各国・各民族が固有の言語にしばられていることを克服し、世界共通語、もしくは国際的な補助語をつくろうという気運が現れ、1867年の第1インターナショナル第2回大会でも、世界語と表音式正字法を支持する決議がなされている。世界共通語のアイデアはいくつか生まれたが、しかしそれらはいずれも一長一短あり、また特許を設定したため、どれも普及しなかった。そこに登場したポーランド生まれのユダヤ人、ラザロ=ルドウィク=ザメンホフが、わずか18歳にして作り上げたのが、エスペラントであった。
エスペラントは、簡単に言えば、ヨーロッパ語系の語彙を用いて、アジア系の文法で話し、書くことができるというもので、文法はわずか16項目の原理から成り立ち、語形変化では例外がなく、発音も表音式で分かりやすいものであった。しかもザメンホフは、その使用に当たって著作権や特許を一切主張せず、自由にしたので、他の人工言語に比べて普及しやすかった。
しかし、帝国主義列強の対立は、そのような人工国際語の運動を吹き飛ばし、その理念に反して第一次世界大戦に突入していった。失意のザメンホフも翻訳活動や人類人宣言の普及などでなおも努力を続けたが、1917年4月、ワルシャワで死去した。
エスペラントは、簡単に言えば、ヨーロッパ語系の語彙を用いて、アジア系の文法で話し、書くことができるというもので、文法はわずか16項目の原理から成り立ち、語形変化では例外がなく、発音も表音式で分かりやすいものであった。しかもザメンホフは、その使用に当たって著作権や特許を一切主張せず、自由にしたので、他の人工言語に比べて普及しやすかった。
眼科医ザメンホフ
ザメンホフは18歳の時、1887年にその第一作エスペラント博士という筆名で『国際語』というわずか40ページの小冊子を発表した。その後生活のために眼科医となり、主としてワルシャワで開業医として活動しながら、その研究と普及に努めた。次第に人工語として優れていることへの支持が広がったが、当時ポーランドを支配してたロシアのツァーリ政府は、ポーランドに対する「ロシア化」政策を強め、ロシア語を強制しようとしていたので、検閲によってエスペラントの書物の発行を妨害した。さらに1906~7年、日露戦争敗北後、ツァーリ政府が社会不安から民衆の目をそらそうとしてユダヤ人に対する大量虐殺(ポグロム)をけしかけたため、ザメンホフにも危機が迫った。彼は匿名で『人類人宣言』を発表して、民族間対立の無益を訴えた。エスペラントの広がり
ロシアでは排除されたエスペラントはドイツやフランス、イギリスなどで支持者を広げて行き、1905年にはフランスのブーローニュで第1回の万国エスペラント大会が開催され、以後毎年各都市持ち回りで開催されるようになった。1906年には日本にもエスペラント協会が設立された。ザメンホフも各地の大会に参加しながら、エスペラントでの著作、聖書やトルストイの作品の対訳などとともに多数の自作の詩を発表した。ドイツやフランスのエスペランチストの中には、エスペラントの改良を掲げる分派活動も生じ、ザメンホフの主流派と激しい論争も展開されたが、エスペラントの統一は揺るがず、権威を増していった。しかし、帝国主義列強の対立は、そのような人工国際語の運動を吹き飛ばし、その理念に反して第一次世界大戦に突入していった。失意のザメンホフも翻訳活動や人類人宣言の普及などでなおも努力を続けたが、1917年4月、ワルシャワで死去した。
第一次世界大戦後のエスペラント運動
エスペラント運動は第一次世界大戦後、さらに世界各地に広がっていった。ヨーロッパ各国や日本、中国などでエスペラント運動は盛んになり、国際連盟が発足したことで世界共通語に対する関心もにわかに強まった。国際連盟では一時エスペラントを公用語に加えようという動きもあり、1922年には世界中の公立学校でエスペラントを教えようという提案もなされ、日本の新渡戸稲造やジュネーヴに滞在していた柳田国男らもその運動に関わった。フランスのロマン=ロランなど文学者もエスペラントを支持し、その運動はかなり盛り上がったが、、フランス語が最も優れた言語であるという立場をとるフランス政府がその提案を拒否したため、提案は否決された。この時期には、各国の「国語」の不備を補い、不和と対立を緩和するための「共通語」あるいは「国際補助語」をつくろうという動きと、「民族自決」の波の中でそれぞれの「民族語」を大事に使用という潮流が拮抗していたと言える。ナチスによる弾圧
エスペラント運動は一方で労働者の自由と連帯を求める国際プロレタリア運動と結びつくようになった。1921年には世界労働者エスペラント運動が団結してSATが創立されている。しかしそのような動きは、帝国主義諸国の政府にとっては警戒するところとなり、次第にエスペラントに対する弾圧が厳しきなった。その一方でファシズムが台頭すると、エスペラントは反ユダヤ主義と結びついて攻撃されはじめた。ヒトラーはすでに『わが闘争』の中で、エスペラントをユダヤ人の世界征服のための陰謀と非難していたが、ナチス=ドイツが政権を取ると、ドイツではエスペラントは禁止され、関連書物は発禁とされた。ザメンホフの子どもたちもエスペラント運動を推進していたが、いずれもユダヤ人であったため強制収容所に送られ、殺害されるなど過酷な弾圧を受けた。スターリンによる弾圧
一方、ロシアでは、ロシア革命の時期にはエスペラントは労働者の国際連帯での共通言語として利用され、エスペランチストも増加した。レーニンの著作もエスペラントに翻訳され、その国際主義の有力な道具とされていた。ボリシェヴィキと対立し、国家や政府の存在を否定するアナーキズム運動とも密接な関係を持つようになり、アナーキストの多くはエスペラントを同志間の言語として用いるものが増えていった。しかし、1930年代後半、ソ連においてスターリンの「一国社会主義論」が勝利を占め、国際主義が退潮したことを受け、エスペラント運動も弾圧の対象となったため、衰退せざるを得なかった。現状
第二次世界大戦後、エスペラント運動は再開されたが、それまでの厳しい弾圧による衰退から立ち直ることは厳しかったようで、一部に依然として熱烈な支持者がおり、国際的な活動は続いているが、かつてのような広がりと隆盛は取り戻していない。<以上、伊東三郎『エスペラントの父―ザメンホフ』1950 岩波新書/ウルリッヒ=リンス/栗栖継訳『危険な言語―迫害の中のエスペラント―』1975 岩波新書/田中克彦『エスペラント』2007 岩波新書 などを参照>