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第1インターナショナル

1864年、マルクスらの指導によってロンドンで結成された、世界最初の労働者の国際組織。マルクスとバクーニンの思想的対立、パリ=コミューン後の弾圧の強化などにより1872年に分裂し、76年に活動を停止した。

 1864年9月28日、ロンドンで「国際労働者協会」International Working Men's Association が創設された。これは国際労働運動の最初の組織であり、創立宣言と規約をマルクスが起草した。この労働組合の国際的連帯を進める組織はインターナショナルの略称で通用し、資本主義社会が急速に成長する中で国境を越えて労働者の権利を守り、その生活を向上させる運動の中で大きな役割を果たした。特に1872年まで存続した組織を、後の第2、第3と区別して、第1インターナショナル(略称第1インター)という。 → インターナショナル運動のあゆみと相違点

第1インターナショナル

 第1インターナショナルはロンドンの総評議会を中心に、労働者が組合単位または個人で加盟し、各国の支部が設けられた。1866年にジュネーヴ、67年にローザンヌ、68年にブリュッセル、69年にバーゼルとほぼ毎年、大会を開催した。しかし、その参加形態は多様であり、また各国の労働組合の歩調は必ずしも一致していなかった。またその指導理念はマルクスとエンゲルスが主導権を握ったが、プルードンバクーニンなどのアナーキズムの思想的反発もあって激しい内部対立があった。さらに1870年の普仏戦争パリ=コミューン後に各国政府による労働運動弾圧によって存続が困難となり、72年ハーグ大会で分裂したため、8年程度の短命に終わった。しかし、世界史上、最初の労働者の国際連帯組織が生まれたという歴史的意義は大きい。
第1インターナショナル発足の背景 ヨーロッパでは1848年革命の敗北後、労働者の運動は後退していたが、資本主義の矛盾が深まって1857年に経済恐慌がおこり、60年代に入ると労働組合の結成が活発になっていった。イギリスではチャーティスト運動は後退したが、1859年のロンドン建築工ストライキを機に労働組合評議会が結成された。フランスではナポレオン3世の第二帝政のもとで労働運動は弾圧されていたが、1860年の英仏通商条約の締結を機に「自由帝政」といわれる改革が進められ、ル=シャプリエ法が廃止されて労働者の団結権が認められるなど、労働運動の気運も高まっていた。
 また、そのころイタリア統一の運動、アメリカの南北戦争ポーランドの反乱などが起こって、ロンドンに集まっていた亡命者の中から、自由主義と民主主義を求める国際的な声が広がりを見せるようになり、いくつかの先駆的国際組織も生まれていた。
第1インターナショナルの発足  とくに、1863年、イギリスの労働組合幹部はフランスの労働者に対してポーランドの独立を支援する集会を呼びかけ、それに応じて1864年9月にポーランド問題を主題にイギリス・フランスの労働者を中心に開かれた集会が第1インターナショナルへの礎石となった。その時ロンドンに亡命中であったマルクスがドイツ代表として参加し、その指導的役割を担うことになった。
 1864年9月29日、ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで国際労働者協会(インターナショナル)の創設大会が開催された。創立宣言と規約はマルクスが起草し、その規約で「各国の労働者が他国の労働者階級の運動にたえず通じているよう、総務委員会(当初の名称は中央委員会)はさまざまな労働者団体間の連絡を確立する」とされ、毎年大会を開催することとなっていた。総務委員会はロンドンに置かれ、イギリスとフランスが中心となり、ドイツ、イタリア、ポーランド、スイスに支部ができた。
第1インターナショナルのひろがり  第1インターナショナルは順調に発展したのではなかった。1866年のイギリス労働者でインターナショナルに加わったのは17団体、約25000人であったが、最大の労働者団体である「ロンドン労働評議会」は加盟していなかった。フランスでも66年の加盟員は600人に過ぎなかった。しかし、1867年の経済恐慌をうけ、68年にヨーロッパ各国でストライキの波が起こる中、ベルギー、フランス、スイスなどで加盟員が急増、ドイツ、スペイン、アメリカにも支部が広がっていった。労働運動に対する各国政府の弾圧が強まると、インターナショナルの内部に当初からあった、マルクス派とアナーキスト派その他の運動方針をめぐる対立が表面化していった。<数値はアニー・クリジェル『インターナショナルの歴史』文庫クセジュ 白水社 p.15 による>

第1インターナショナルの内部対立

 第1インターナショナルは労働組合の国際組織と言っても、様々な思想と方針を持った人々が集まっていた。中心機関の総評議会は設立宣言と規約を起草したマルクスの思想が強く影響力をもっていたが、その他にはイギリスの労働組合主義、フランスのプルードンの影響を受けたアナーキスト、イタリアのマッツィーニのような共和主義者などの影響を受けた各派が、議論を重ねながら、多数決で方針を決定していった。イタリア統一運動の指導者で亡命中のマッツィーニはマルクスとの対立から間もなく脱退した。その中で、最も激しい論争となったのが、マルクス派とアナーキスト派であった。
マルクスとバクーニンの対立  1869年のバーゼル大会で初めて大会に参加したバクーニンは、マルクスが革命の一段階として普通選挙権の獲得によって議会に進出するという政治闘争を重視していることを批判し、革命によって国家を廃止するまで一切の改良的政治行動を行うべきではないと主張し、イタリアやスペインなどの代表の支持を受けた。両派の対立は妥協点を見いだすことのできないものであった。マルクスは労働者階級を政党に組織することは社会革命の勝利のために必要であると強調して、バクーニンを批判し、バクーニンはマルクスと総評議会を権威主義で、中央集権的指導を労働運動に持ち込むことになると非難した。マルクスは1870年3月、インターナショナルの全支部に秘密通知を送り、バクーニンがインターナショナルの指導部を乗っ取ろうと陰謀を企んでいると告発した。
普仏戦争の勃発  1870年7月、普仏戦争が起きるとインターナショナルはマルクスの起草した戦争反対の声明を発表した。戦争がナポレオン3世の敗北に終わり、帝政が倒れて共和政が成立すると、インターナショナルは共和政の支持を声明したが、一気に革命に向かうのは時期尚早と判断した。バクーニンはジュネーヴからリヨンに入り、9月に民衆を扇動して市役所を占領、国家の廃止を宣言するという行動に出た。しかしこの蜂起は失敗し、バクーニンはジュネーヴに戻った。
パリ=コミューンとその敗北  1871年3月、パリ市民が蜂起しパリ=コミューンが成立した。コミューンの中心勢力は労働者(プロレタリアート)であるが、インターナショナルに属する社会主義者は少数で、多数はジャコバン的な心情から蜂起したものであった。ロンドンのインターナショナル総務委員会はコミューンを強く支援することを表明し、マルクスは5月30日、インターナショナル総務委員会の名で声明を発表、「パリ=コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、……労働の経済的解放が達成されうる、終に発見された政治形態であった」と論じた。しかし、コミューンが臨時政府の手によって圧殺され、第1インターの労働者が多数殺害され、フランス支部の活動は停止せざるをえなくなった。

第1インターナショナルの分裂と終焉

 パリ=コミューンが敗北した後、労働運動に対する弾圧が強まる中、第1インターナショナル内部ではマルクス派とアナーキスト派の対立がさらに深刻となった。
(引用)このあらそいは、主として二つの点をめぐって起こった。第一は、国際労働者協会の内部規律の問題である。バクーニン派は、各支部や各国連合会に完全な自治をあたえ、(ロンドンの)総務委員会の<独裁>をやめるよう要求した。第二は、労働運動は政治に対していかなる態度をとるべきか、という理論上の問題である。無政府主義者は、圧倒的な国家を革命によって廃止することをとなえたが、それまでのあいだは、政治問題にいっさいタッチするな、と主張した。<アニー・クリジェル『インターナショナルの歴史』文庫クセジュ 白水社 p.27>
 対立する二派、マルクス派は「権威派」、バクーニン派は「反権威派」とも呼ばれた。マルクスは、「プロレタリアートは所有階級との闘争において、政党を組織することで初めて階級として行動できる。労働者の搾取者との闘争のさいには、その経済的運動と政治的行動は一体不可分である」<クリジェル『同上書』 p.28>と主張し、バクーニンがインターナショナルを乗っ取ろうと陰謀を企んでいると非難する非公開文書を各支部に配布し、多数派を形成した。ついに1872年のハーグ大会で、マルクスとエンゲルスは出席、バクーニンは欠席のまま、バクーニンとその同調者を除名し、本部をニューヨークに移転させたことによって分裂した。アナーキスト派はその後も独自の集会を開催したが、事実上、この72年の分裂によって活動は困難となり、76年のフィラデルフィア大会で正式に解散した。
乗っ取りかクーデタか バクーニンは現代の正統マルクス主義歴史観でも「インターナショナルに参加し、その内部からの乗っ取りをくわだてたロシアの無政府主義者」であり、「マルクスの活動の最後の二年間は、バクーニンのこのくわだてを打ち破る闘争にあてられた」<不破哲三『マルクスは生きている』2009 平凡社新書 p.187>とかたずけられているだけである。クロポトキンはマルクスとエンゲルスがインターナショナル内部にクーデタを起こし、「(インターナショナルの行動綱領である)資本に対する労働の直接闘争を、ブルジョワ的議会における煽動にすりかえた」として批判している<クロポトキン『近代科学とアナーキズム』1901 中公バックス『世界の名著53』p.517>。
 この二人の対立は、歴史的にはマルクスの勝利に終わったと言えるが、バクーニンの究極の目標を国家の廃止に置くアナーキズムの思想は、国家に代わり労働組合を社会の基本組織とすべきであるというアナルコ=サンディカリズムへと深化し、スペイン、スイス、フランスに強い影響を及ぼしていった。時は流れて20世紀末、ソ連邦が崩壊して社会主義の終焉が語られるようになった現在、この論争をもう一度検証する必要があるように思える。 → バクーニンの項を参照
インターナショナルのその後  国際労働運動=インターナショナル運動は、資本主義の帝国主義段階に突入するという情勢を受けて、1889年に第2インターナショナルの結成へと継承された。この段階ではアナーキズムは主流から退き、マルクス主義を柱とした社会主義政党の国際連帯組織という性格に変化し、ドイツ社会民主党がその運動の中心となっていった。しかし、第一次世界大戦の勃発はインターナショナリズムはナショナリズムの狂暴な咆哮の前に萎縮し、再び分裂して消滅、それに代わってロシア革命の中でレーニンの提唱した第3インターナショナル(コミンテルン)が発足するが、これは国際共産主義運動を基本としており、スターリン時代にはソ連共産党の指導を受ける世界共産党の各国支部という性格を強め、排除されたトロツキーらはなおも世界同時革命を志向して第4インターナショナルを結成する。この「インターナショナル」の第1、第2、第3(さらに第4)の違いをしっかり理解しておこう。 → インターナショナル運動の相違点
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アリー・クリジェル
『インターナショナルの歴史―1864-1943年』
1965 文庫クセジュ

刊行年は古いが、現在でも手軽に読めるインターナショナル運動の通史。