テキサス/テキサス共和国/テキサス併合
メキシコ領であったがアメリカ人の入植が続き、1836年にテキサス共和国の独立を宣言、メキシコ軍を破り、1845年にアメリカが併合した。反発したメキシコとの間で翌年、米墨戦争が起こった。
現在のテキサス州 GoogleMap
最初からアメリカ合衆国に編入されなかったのは、奴隷州にするかどうかという問題があったためで、奴隷州になることが確実なテキサスを州にすると、ミズーリ協定のもと奴隷州と非奴隷州の均衡が崩れる恐れがあったからであった。次第に隣接する南部の奴隷制農場主らによる併合運動が強まり、1944年に民主党の領土拡張論者のポークが大統領に当選すると、翌1845年12月に奴隷州としてアメリカ合衆国に加わえられた。
テキサス共和国の合衆国への併合に反発したメキシコとのあいだに、1846年からアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)が起こる。現在のテキサス州は、日本の倍に近い面積を持ち、豊かな石油資源と、軍事産業の中心地としてアメリカを支えている。
テキサス共和国
アメリカ人のスティーブン=オースチンは、約300家族をひきいて、1821年にメキシコ領となったテキサスに初めて入植した。オースチンはテキサス入植者の父と呼ばれ、現在の州都オースチンにその名を残している。その入植の成功を知ったアメリカ人が移民として多数押し寄せ、13年後には2万人の白人と2000人の黒人奴隷を数えるまでになった。テキサスの人口の5分の4をアメリカ移民が占めるようになると、彼らはテキサス共和国を独立させる運動を始めた。慌てたメキシコは、それまでの移民に寛容な政策を改め、移民を禁止した。メキシコは1829年にすでに奴隷制を廃止していたのに対して、アメリカ人が奴隷制を維持していたことにも反発した。アメリカ政府は500万ドルでテキサス買収を持ちかけたがメキシコは拒否した。1835年、テキサスのアメリカ人は武装蜂起し「テキサス革命」と称して独立戦争を開始した。アメリカ本土からも支援する人々が駆けつけた。下院議員デヴィ=クロケットもその一人だった。1836年には「テキサス共和国」の独立を宣言したが、アラモ砦のアメリカ守備隊がメキシコ軍に攻撃されて全滅した。アメリカ国内には「アラモを忘れるな!」という声が強まり、1ヶ月半後にヒューストン将軍指揮のテキサス軍がサンハシントの戦いでメキシコ軍を打ち破った。ヒューストン将軍はさらにメキシコ大統領サンタ=アナを捕虜にするなど大勝利を治め、その名は宇宙開発で有名な大都市の名としてとどめている。こうして1845年にはアメリカのポーク大統領はテキサスの併合を宣言した。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.43-46>
Episode アラモ砦とデヴィ=クロケット
1836年、テキサスのアラモ砦を守る182名のアメリカ守備隊が、メキシコ軍の攻撃を受け全滅した。「アラモを忘れるな」というさけびがアメリカにわき上がり、テキサス獲得の世論が強まった。アラモ砦の英雄がビーバー皮の帽子でおなじみのデヴィ=クロケットだった。クロケットはテネシーの丸木小屋で生まれた、生まれながらのフロンティア人で、冗談のつもりで立候補したら当選して下院議員となり、議会にも猟師のスタイルで現れ、人気者になった。次の選挙で落選して西部に戻り、アラモ砦に現れ、華々しく活躍して戦死したのだった。デヴィ=クロケットは「クロケット帽」とともに、いまでもアメリカ人に親しまれている。映画『アラモ』では、ジョン=ウェインが演じていた。米墨戦争
アメリカがテキサスを併合すると、メキシコは国交断絶を通告した。アメリカは当時まだ国境が画定していなかったことを口実としてメキシコ領深く軍隊を派遣した。メキシコ軍の反撃でアメリカ兵が死傷すると、ポーク大統領は「アメリカの領土で、アメリカ人の血が流された」と議会に報告し、1846年、宣戦を布告した。アメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争)が始まり、陸軍は現在のニューメキシコやカリフォルニアを占領、海軍はメキシコ湾のベラクルスに海兵隊を上陸させ、一気に首都メキシコシティーに進撃した。1848年、メキシコは敗北し、アメリカの主張する国境線を受け入れ、ニューメキシコとカリフォルニアを格安で割譲した。