ミズーリ協定
1820年、アメリカ合衆国の自由州と奴隷州の均衡を図るために定められた協定。ミズーリ州を奴隷州とする代わりに、自由州のメイン州をつくってバランスを取り、事後は北緯36度30分以北には奴隷州をおかないこととした。1854年のカンザス=ネブラスカ法で否定される。
アメリカ合衆国には、1819年の段階で22の州があり、11が奴隷州、11が自由州であった。北部では黒人奴隷制反対の感情が強まりつつあり、すでに禁止されたかあるいは急速に絶滅に向かっていたが、他方南部ではホイットニーの綿繰り機が普及したため綿花プランテーションにおける黒人奴隷労働への依存がますます強まっていた。ワシントンやジェファーソンらは南部出身の政治家であっても奴隷制度を害悪と見なしていたが、若い世代の南部人は黒人奴隷制度を白人にとっても黒人にとっても利益なものと考えるようになっていた。
それに対して北部諸州の代表は、議会でのバランスが崩れ、奴隷制拡大派の勢力増大することを警戒し、ミズーリの奴隷州としての州昇格に強く反対した。
ということであり、これによって、当面、自由州・奴隷州がそれぞれ12ずつというバランスがとれ、従来の不明確であったその境界を北緯36度30分という明確な線引きをしたことになる。この妥協の成立により、議会における奴隷制拡大派と拡大反対派の対立は緩和されることとなった。しかし、拡大反対派には、連邦議会には南部諸州の奴隷制には介入できない、自然に奴隷制が消滅するのを待つという穏健派から、拡大反対だけでなく、南部の奴隷制に対しても即時廃止し、黒人奴隷を解放せよという急進的な主張まで幅広かった。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.191>
「私は恐れている。地平線のかなたに、やがて竜巻のように暴れ回るであろう失策に誰も気づいていないことを。我が連邦国家をふたつに引き裂く境界線が、つい最近明確になってしまった。これは決して両者の溝を埋めることはないであろうことを、私は恐れている」
ジェファソンは正しかった。この<協定>は短期的にはうまくいったが、次第に連邦国家を、奴隷制度を基準に、ふたつの国家に引き裂いてゆくからである。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.105>
一方、そのころストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷制の非人道的な実態が北部の市民にも広く知られるようになり、奴隷制廃止の家が強まった。その後も奴隷制をめぐる対立はさらに激しくなり、合衆国の統一を脅かす内部対立の要因としてくすぶり続ける。
ミズーリ準州の州昇格問題
こうして南部の奴隷制拡大論者の後押しを受け、ミズーリ準州は奴隷州としての州昇格を連邦議会に要求した。当時は自由州にするか、奴隷州にするかは州が独自に決めるのではなく、連邦議会が決定することになっていた。ミズーリはフランスの植民地であったので、この地の白人入植者はフランスが認めていた黒人奴隷を使役していたので、当然その権利があると主張した。それは南部全体の大農園主、プランターにとっても、北部主導の連邦議会で奴隷制拡大派が優位になるチャンスであったので、その突破口とすべく、ミズーリの奴隷州としての州昇格を強く支持した。それに対して北部諸州の代表は、議会でのバランスが崩れ、奴隷制拡大派の勢力増大することを警戒し、ミズーリの奴隷州としての州昇格に強く反対した。
ミズーリ協定の要点
1820年、連邦議会において激しい議論の末、モンロー大統領のもとで妥協が成立した。このミズーリ協定は、下院の裁決で90対87の僅差で通過した。その要点はということであり、これによって、当面、自由州・奴隷州がそれぞれ12ずつというバランスがとれ、従来の不明確であったその境界を北緯36度30分という明確な線引きをしたことになる。この妥協の成立により、議会における奴隷制拡大派と拡大反対派の対立は緩和されることとなった。しかし、拡大反対派には、連邦議会には南部諸州の奴隷制には介入できない、自然に奴隷制が消滅するのを待つという穏健派から、拡大反対だけでなく、南部の奴隷制に対しても即時廃止し、黒人奴隷を解放せよという急進的な主張まで幅広かった。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.191>
Episode ジェファーソンの警告
ミズーリ協定(ミズーリの妥協)は90対87の僅差で下院を通過した。すでに引退していたジェファソンは、1821年にこの条項は新連邦国家(アメリカ)の平和を脅かす「警鐘」となるであろう、と予言した。「私は恐れている。地平線のかなたに、やがて竜巻のように暴れ回るであろう失策に誰も気づいていないことを。我が連邦国家をふたつに引き裂く境界線が、つい最近明確になってしまった。これは決して両者の溝を埋めることはないであろうことを、私は恐れている」
ジェファソンは正しかった。この<協定>は短期的にはうまくいったが、次第に連邦国家を、奴隷制度を基準に、ふたつの国家に引き裂いてゆくからである。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.105>
妥協の限界
そのようななか、1830年代には西部でのインディアン排除が進み、西漸運動が展開され、さらに40年代にはテキサスやフロリダの併合など、アメリカの領土拡大があい次ぎ、1848年、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォルニアなどを獲得し、一気に太平洋岸まで領土が拡張した。1850年にカリフォルニアが州に昇格したときはそれを自由州とするかわりに逃亡奴隷取締法を強化するという妥協(「1850年の妥協」と言われる)が成立した。一方、そのころストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷制の非人道的な実態が北部の市民にも広く知られるようになり、奴隷制廃止の家が強まった。その後も奴隷制をめぐる対立はさらに激しくなり、合衆国の統一を脅かす内部対立の要因としてくすぶり続ける。
ミズーリ協定の否定
1854年に民主党議員の提案によるカンザス=ネブラスカ法が議会を通過して成立し、自由州か奴隷州かを住民が選択できるとなったため、ミズーリ協定は効力を失った。それに反発した北部の奴隷制拡大反対論者は共和党を結成し、ここに奴隷制の拡大を認めるかどうかを巡り、二大党派の対立が始まることとなった。さらに57年にはドレッド=スコット判決でも最高裁の見解などでミズーリ協定は憲法違反であり、南部諸州の黒人奴隷は奴隷種の私有財産であり、それを連邦議会が否定することはできないという判断が出された。こうして黒人奴隷制をめぐる南北の対立は危機的段階を迎え、1861年の南北戦争勃発を迎えることとなる。