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万国郵便連合/UPU

1874年、万国郵便会議で協定が成立、翌年発足し、1878年に万国郵便連合(UPU)と改称した郵便事業の国際協力機構。1947年に国際連合専門機関の一つとなり、現在も重要な役割を担っている。

 万国郵便連合 Universul Postal Union UPU は、ベルンで開催された国際会議で1874年10月9日に万国郵便連合条約が調印されて発足した、国際的な郵便事業の円滑な運用のための国際機関である。19世紀の国際赤十字の発足や国際オリンピック大会開催の動きなどと並ぶ国際協力の重要な動きであるとともに、ベルの電話やマルコーニの電気通信などによる世界の通信網の形成と共に、現代のグローバリゼーションへの変化を加速させることとなった。<以下、2024/10/4記> → UPU ホームページ

万国郵便連合の結成まで

penny black

Penny Black 1840
Wikimedia Commons

イギリスの郵便制度 近代的な郵便制度は産業革命後のイギリスで始まった。1840年にローランド=ヒルは議会に国営の郵便制度を創設することを提案、それが受け入れられて始まった。ヒルの提唱した近代的郵便制度とは、切手という形で郵便料金を差出人が先払いすること(従来は受取人の後払いだった)、料金を重量制とし距離に関係なく一律としたことなどを特徴としていた。切手は半オンスことに1ペニーに統一、イギリスのどこへでも送れるようにした。世界最初の切手には黒い下地にヴィクトリア女王の肖像を描いたもので「ペニー・ブラック」と呼ばれた(右図)。郵便の配達には初め乗合馬車が使われたが、やがて鉄道が用いられるようになり、急速に普及、世界各国でも同様なシステムの郵便制度が導入されるようになった。1869年にはオーストリアで「郵便ハガキ」が最初に考案された。
国際郵便のはじまり 19世紀後半、資本主義の発展が国境を越えて広がったことによって、郵便や通信の国際的な規模でのルール作りが、まずヨーロッパで始まった。近代的郵便制度は19世紀前半にイギリスに始まり、ヨーロッパ各地にも広がったが、国家間のやりとりは個別に協定を取り結ぶだけで複雑なものになっていた。それらを統合しようとする動きがまず1842年にオーストリアが提唱し、バイエルン、バーデン、ザクセンとの郵便協定が締結され、翌年、ハプスブルク家(オーストリア)を後ろ盾にしたヨーロッパの国際郵便(タクシス郵便)が加わり、1850年にはドイツ連邦の諸邦を包含するプロイセン・オーストリア郵便連合協定が成立した。
万国郵便連合の設立 もう一つの動きとしてアメリカ合衆国の郵政長官モンゴメリ=ブレアの提唱により、1863年にヨーロッパ・アメリカ15カ国の代表がパリに集まり、各国の郵便を総合する一般原則を採択した。これらの動きによって二国間協定の積み重ねでは多国間の郵便交換を円滑に行うことは不可能となり、早急に国際的な多国間枠組みの作成が求められた。それを主導したのは北ドイツ連邦郵政庁のハインリヒ=フォン=シュテファンで、郵便総連合創設の素案を発表、それをもとにして1874年、スイスのベルンで各国代表が参加し外国郵便に関する条約を締結、翌年発効した。条約加盟国はヨーロッパの主要国にアメリカ、ロシア、エジプト、トルコなど22カ国で、一般郵便総連合として発足となった。1878年にこの連合は万国郵便連合(UPU)に改称され、本部はスイスのベルンとされた。<井上卓郎・星名定雄『増補郵便の歴史』2021 鳴美 p.98-99>
 万国郵便連合は加盟国22カ国から始まり、1900年代には50カ国となった。第二次世界大戦で国際連合が発足すると、1947年にその専門機関となった。1960年代に100カ国、現在は192カ国が加盟、最も参加国の多い国際機関となっている。なお、現在のUPUの事務局長は2021年に就任した日本人の目時政彦氏である。  → 万国電信連合

日本の国際郵便

 日本では1871(明治4)年、前島密などの努力で近代郵便制度が始まったが、外国郵便は民間の需要がなかったため手つかずだった。日本に来ている外交官や貿易商の郵便は、アメリカ・イギリス・フランスがそれぞれ自国の郵便局を日本区内に設置する(在日外国郵便局)ことでカバーしていたが、明治政府(駅逓寮)は外国の郵便局が国内にあるという治外法権状態を解消するために駅逓寮管轄下の外国郵便取り扱い開始を急いだ。1873年に外国郵便事業に精通したアメリカ人御雇外国人ブライアンを雇用しアメリカとの交渉を開始、同年8月6日、日米郵便交換条約を締結、批准書交換の上、翌年8月に交付した。これに基づいて1875年1月5日に横浜郵便局でアメリカとの郵便物交換が開始された。郵便物(約15グラムまで)は日本からは15銭、アメリカからは15セントだった。また日本の郵便役所・取扱書は「郵便局」(Post Office)に改められた。このときアメリカは在日郵便局を廃止したが、イギリスとフランスは日本の郵便には信頼が置けないとして廃止しなかった。
万国郵便連合への加盟 日本(明治政府)は1877(明治10)年6月1日、創設三年目の万国郵便連合に加盟した。加盟国になると、二国間条約を締結することなく、連合の単一条約加盟国相互に郵便を交換できるようになった。また郵便発送国の発効する切手で相手国に郵送されることとなった。8月20日からは日本からアメリカ宛の郵便料金は15銭から5銭に引き下げられた。このとき、日本政府とブライアンは、イギリス・フランスとも粘り強く交渉し、両国の在日郵便局は翌年イギリス、再翌年フランスがそれぞれ廃止した。これは治外法権撤廃の先駆けとして評価できる。<井上・星名『前掲書』p.86-89>
万国郵便連合への復帰 1947年5月、パリで開催された第12回万国湯便連合(UPU)会議は国際連合の機関となることを決定した。しかしこのときの会議には敗戦国である日本は招かれなかった。代わりにGHQの職員が参加し、GHQの承認のもとに条約に加入した。これは戦後の日本にとって初の国際条約の締結となった。国際舞台への復帰は郵便から、ということであった。
 1952年5月、ベルギーのブリュッセルで開かれた第13回UPU大会には正式に招かれた。それは前月発効したばかりのサンフランシスコ平和条約で独立した日本が、最初に参加した国際会議となった。この大会はUPU創立75周年にあたっており、本部のあるベルンで記念式典が行われた。<井上・星名『前掲書』p.261-262>

NewS トランプ、UPU脱退をほのめかす

 2018年10月、アメリカのトランプ大統領は万国郵便連合(UPU)を離脱すると宣言、世界を驚かした。トランプの言う脱退理由は、UPUは経済大国となった中国に依然として発展途上国の優遇措置をとっており、そのため中国の小型包装物がアメリカで不当に安価に流通し、アメリカ郵便庁の利益が奪われている、というものだった。宣言の翌年9月に、アメリカの要求に沿う形で万国郵便条約改正が全会一致で合意されたため、アメリカの離脱は寸前で回避された。<井上・星名『前掲書』p.319>