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エッフェル塔

1889年、フランス革命100年記念で開催されたパリ万国博の消灯して建設された鉄塔。パリの名所として現在も多くの人を引きつけている。

 エッフェル塔は高さ300m、7300トン、200万のリベット(鉄鋲)、階段1600段の鉄塔で、1887年に工事を開始し、1889年3月末に完成、1889年5月6日に開塔し、5月15日に民衆が初めて塔に登った(このときは徒歩で2階まで。エスカレーターが使用されるのは5月26日からだった)。この塔は、1889年のフランス革命100年祭を記念して開催されるパリ万国博覧会(1855年のパリ万国博覧会以降の第4回目の開催に当たる)の最大の呼び物、象徴として計画されたもので、多くの提案の中からギュスターヴ=エッフェルの案が採用され、その名が冠されることとなった。エッフェルは、フランスが独立百周年を記念してアメリカ合衆国に贈った自由の女神像(1886年完成)の内部構造の鉄筋躯体をつくったことで知られていた。

完成した1889年

 この年は1789年のフランス革命勃発から100年目にあたる、記念すべき年であったが、時のフランス第三共和政は、大きな危機に直面していた。1889年4月、王党派、カトリック教会、反ユダヤ主義勢力と結びついたブーランジェ将軍が、対ドイツ戦争での復讐を叫んで民衆の人気を得て議会に進出し、共和政府打倒、より強力な政権樹立を目指してクーデタを計画した。このブーランジェ事件はブーランジェ自身が亡命して失敗に終わったが、それがパル万国博開催の1ヶ月前だった。クーデタが失敗し、共和政政府が守られたことから、その直後に開場を迎えた万国博とエッフェル塔は、共和政の勝利を祝う意味合いをもつこととなった。

エッフェル塔に反対する意見

 エッフェル塔建設は、当時のフランスの工業力の高さを示す、絶好の機会であり、特に、イギリス・ドイツと対抗して産業社会の成熟と国力の充実の証として、失敗は許されなかった。しかし、一方で上述の政治的不安定から、建造を危ぶむ声も多く、またパリの古典的な文化都市にはそぐわないという強力な反対論も根強かった。
 エッフェル塔建設反対には、アレクサンドル=デュマ、ルコント=ド=リール、モーパッサなどの文学者ン、シャルル=グノー(音楽家)、シャルル=ガルニエ(オペラ座で知られる建築家)など、錚々たる文化人が名を釣られていた。彼らの声明はつぎのようなものだった。
(引用)われら、作家、画家、彫刻家、建築家、これまで無垢であったパリの美の熱心なる愛好家たるわれらはここに、われらの一切の憤激の力の限りにおいて、無視されているフランス的趣味の名において、脅威にさらされているフランスの芸術と歴史の名において、われらが首都の心央への、無益にして醜怪なるエッフェル塔、時に良識と正当性を秘めた公衆の悪意がバベルの塔なる名称を与えている、かの塔の建立に抗議するものである。…………<イヴァン・コンボー/小林茂訳『パリの歴史(新版)』2002 文庫クセジュ p.93>