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第三共和政

フランスの第二帝政に代わる政体で、一般に1870年からとされるが、正式には1875年の憲法で成立した。普仏戦争の敗北から国力を回復させたが、左右両派からの攻勢が続いて不安定であった。共和政体を維持したが、対外的には帝国主義に傾斜し、第一次世界大戦でドイツと戦い、戦後のヴェルサイユ体制で優位に。第二次世界大戦でナチスドイツに占領され、1940年に親ドイツのヴィシー政権が成立して終わった。

 フランスでは普仏戦争の敗北によって、1870年にナポレオン3世が退位し、第二帝政が終わった。通常、この1870年9月4日の共和政宣言と国防臨時政府の成立から、第二次世界大戦中の1940年までの約70年にわたる政体を第三共和政という。フランス革命によって成立した第一共和政、二月革命によって成立した第二共和政に続く共和政政体であった。ただし、第三共和政の成立時期を1875年1月の第三共和政憲法の制定からとする場合もある。

1870~75年の過渡期

 1870年9月から71年2月までは国防臨時政府が、71年2月からティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く、安定しなかった。また、臨時政府がプロイセンに対する降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだして国家権力であるパリ=コミューンを樹立した。パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会で保守派・王党派が多数を占めたために不信任決議が出され、失職させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。ようやく1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、フランスの政体は共和政であることが確定した。

共和政の危機

 第三共和政の下で、普仏戦争敗北からの国力の回復、国際社会への復帰を目指し、1880年代までに大資本と結んだ共和派による政治がほぼ確立した。しかし、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地方の奪回など、対独強硬論を唱える右派と軍部の台頭、一方の労働組合主義(サンディカリズム)の台頭、フランス社会党の進出という労働運動、社会主義勢力の成長もあって、共和政は左右双方からの攻撃を受けて常に動揺した。また政党政治も未成熟で、小党が乱立して安定せず、議員の汚職事件などの腐敗もあって権威を失い、19世紀末には大きな危機に陥った。そのような中で共和政を否定して軍部独裁政権の樹立をめざすクーデタ事件である1889年ブーランジェ事件、パナマ運河会社の再建をめぐる汚職事件である1892~3年パナマ事件などが続いた。しかし、1894年に始まったドレフュス事件は1906年までという長期にわたる裁判の結果、軍部と右派の陰謀を国民的な世論で抑え、共和政体を維持することに成功した。

政教分離法の制定

 ドレフュス事件の危機を脱したフランス第三共和政は、クレマンソーの指導するブルジョワ政党の急進社会党と、ジャン=ジョレスが指導する社会主義政党のフランス社会党の二つの共和勢力が台頭し、その両党の主導する議会でカトリック教会による国家支配を否定する政教分離法が1905年に成立した。これによってフランス革命で始まった政教分離の流れが、1801年のナポレオンのコンコルダートによって後退したのを元に戻し、国家と宗教の分離、個人の信仰の自由という原則(ライシテ)が確立した。

フランス帝国主義

 他方、この時期はフランスの工業力も発展し、フランスも帝国主義の段階に入り、20世紀初めにかけてアフリカ分割に加わってアフリカ横断政策をとり、イギリスと対立してファショダ事件を起こした。またアルジェリアチュニジアにつづいてモロッコ進出を図り、ドイツと対立してモロッコ事件が起きた。東南アジアではフランス領インドシナ連邦で殖民地を拡大した。さらにベトナム領有権をめぐり、清朝とのあいだで1884年に清仏戦争を戦い、勝利を占めている。

第一次世界大戦

 外交的には普仏戦争の敗北以来、常にドイツを仮想敵国としており、1870~80年代にはドイツ帝国のビスマルク外交によって孤立を余儀なくされたが、90年代にドイツの世界政策との対立がが明確になると、イギリス・ロシアと提携して三国協商を形成し、三国同盟とのあいだで1914年から第一次世界大戦を戦うこととなった。
 第一次世界大戦で当初はドイツに攻め込まれたが、途中からドイツの西部戦線での塹壕戦に突入して戦線が停滞、アメリカ合衆国の参戦によって協商側がようやく勝利した。

ヴェルサイユ体制

 勝利国となったフランスはヴェルサイユ条約アルザス・ロレーヌを回復し、国際連盟の常任理事国としても大国の役割を担うこととなったが、対独強硬路線を主張するクレマンソーはドイツに対する過酷な賠償を要求、ドイツ賠償問題は後に、ナチス=ドイツ台頭の口実を与えたと言える。

戦間期

 大戦後のフランスではなおも対独強硬論が主流でポワンカレ内閣は、1923年にドイツの賠償金未払いを口実にルール占領を強行した。そのためドイツでは工業生産がストップし急激なインフレとなったが、ワイマール政府のシュトレーゼマンなどの努力で危機が回避され、フランスの強硬策は失敗した。それによって保守派内閣に代わり左派連合政権が成立、そのもとで協調外交に転換し、ルール撤兵、ソ連承認、ロカルノ条約締結が実現した。さらに1928年には外相ブリアンがアメリカ国務大臣ケロッグと不戦条約を締結した。

第二次世界大戦

 1929年に世界恐慌が起こると、フランスフラン=ブロック(金ブロック)を形成してブロック経済体制をつくって自己防衛に努めた。1930年代ドイツにナチズム、イタリアにファシズムが台頭すると、1934年ごろから共和政・議会政治・民主主義と自由を守るための人民戦線結成の動きがフランス社会党フランス共産党のなかに強まり、フランス人民戦線内閣として社会党のブルム内閣が成立した。

人民戦線の失敗と第三共和政の解体

 しかし、ブルム内閣は国内の不況対策に失敗、さらにスペイン戦争への対応で分裂して退陣し、替わったダラディエ内閣はイギリスとともにドイツに対する宥和政策をとって妥協を重ねた。その結果ナチス=ドイツの侵略路線はついにポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が勃発した。1940年5月にはドイツ軍のフランスへの侵攻が始まり、フランス軍は次々と敗れて後退し6月にはパリ陥落、22日にフランスは降伏して休戦協定を締結した。対独協力を表明したペタンを国家元首とするヴィシー政府は大統領制、議会政治を否定してファシズム体制を標榜したので、第三共和政は終わりを告げた。
 第二次世界大戦後、1946年に第四共和政が成立、第三共和政を政権不安定を反省して内閣の権限強化が図られたが、なおも小党分立が続いて不安定であったため、1958年にド=ゴールが首相に迎えられ、憲法改正を行い第五共和政を樹立する。

参考 フランス第三共和政の成立時期

 2007年センターテスト本試験の32問で、「フランスでは、普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)の敗北後、第三共和政が成立した」という文の正誤判定問題が出された。皆さんはどう答えるだろうか。「第二帝政」崩壊後に成立したのが「第三共和政」であるのは正しいが、“普仏戦争の敗北後”というのにひっかかるだろう。多くの教科書や用語集は、第三共和政の開始を1870年とし、普仏戦争の終わりは1871年とされているからだ。設問の文は誤文ともとれるが、センターテスト本部の発表は正文であった。ただちにいくつかの予備校から疑問の声が出された。はたして誤文か正文か、経過をややくわしく見てみよう。
・1870年9月2日 普仏戦争中のスダンの戦いでナポレオン3世は敗れて捕虜となる。
・同    9月4日 パリ市民が議会に押しかけ、共和政を宣言。国防政府成立。
           (ナポレオン3世はドイツに幽閉された後、翌年3月、イギリスに亡命。)
・1871年1月28日 国防政府がプロイセンと休戦協定。
・同    2月8日 プロイセン軍占領下で国民議会選挙。(王党派、ボナパルト派、共和派が競い王党派が優勢)
           ボルドーで国民議会開催。ティエールを行政長官とする臨時政府が成立。
・同    2月26日 ティエール政府(臨時政府)、プロイセンとヴェルサイユ仮講和条約。賠償金支払い、アルザス・ロレーヌの割譲など。
・同    3月1日 プロイセン軍に対しパリ開城。国民議会、仮講和条約を批准。
・同    3月28日 パリ=コミューン宣言、パリ市政を掌握。ティエール政府と軍隊、ヴェルサイユに逃れる。
・同    5月10日 ティエール政府、ドイツとフランクフルト講和条約を締結。
・同    5月21日 ティエール政府軍パリ侵入。「血の週間」パリ=コミューン政権崩壊。
・同    8月31日 ティエール、大統領(第三共和政初代)に就任。しかし、王党派、オルレアン派などの保守派も勢力を拡大。
・1873年5月24日 議会、ティエールを罷免。王党派のマクマオン将軍、大統領就任。(王党派、共和派の対立激化)
・1875年1月10日 共和国大統領を国家元首とする法案が353対352の1票差で可決され、共和政が承認される。
           これ以外に国家原則を定めた二法が成立し、あわせて「1875年憲法」(第三共和政憲法といわれている)が成立。
 以上の年表からいえることは、第三共和政の成立の時期は特定することが難しい、ということである。高校世界史では1870年9月に第二帝政が崩壊して(ただちに)第三共和政となった、と理解できる記述が多い(山川詳説世界史ではその断定を避けているが、同社の世界史用語集では第三共和政を1870年9月からと明記している)。しかし、実際には国防政府や臨時政府のもとでは王政復古や帝政復古をめざす勢力も強く、確実な共和政となったわけではない(ナポレオン3世も正式には退位していないようだ)。また、71年3~5月にはパリ=コミューンがパリ限定ながら国家権力を掌握している。ティエールが1871年8月に大統領に就任(議会による推薦)したことを以て、第三共和政の成立とし、彼をその初代大統領とする概説書も多い。しかし、この大統領は憲法に基づいたものではなく、仮大統領のようなものだった。そして1875年の共和政を規定した憲法の成立によって(正式に)第三共和政が成立した、ということも言われている。専門書などではこちらが一般的である。山川詳説世界史では75年憲法で「第三共和政の基礎が確立した」という微妙な言い回しをしている。
 また、普仏戦争の終結は、やはり71年5月のフランクフルト講和条約締結の時だろう。とすると用語集的な70年9月から第三共和政の成立は敗戦の前であるから、誤文となる。ところが、センターテスト本部の発表は正文であり、「第三共和政の成立時期には諸説あり、普仏戦争後とするのも有力な説である」ので訂正はされなかった。
 そもそもこの時期は、“政体の決定は平和の回復後に決める”とされていた、いわば“政体を棚上げにしていた時期”なのである(国防政府・臨時政府の項参照)。いずれにせよ、第三共和政の成立時期には、1870年9月の第二帝政崩壊に伴って成立とする説明、1871年8月のティエールの大統領就任からとする説明、1875年の憲法の制定の時とする説明、の三説がある。そのいずれも正しいも言えるが、厳密には、1870年9月に第二帝政が倒れ、国防政府・臨時政府・パリ=コミューンの過渡期(棚あげ期)を経て、71年8月に仮の大統領制共和政となり、75年の憲法制定で正式に第三共和政が確定した、しかし共和政は当分不安定な状況が続いた、といったところが妥当な説明であろう。
 高校世界史の理解で言えば、70年9月~75年1月の複雑な動きにとらわれず、その時期を第三共和政に含めてかまわないのではないだろうか。その間にパリ=コミューンの動きがあったこと、それを弾圧したブルジョワ政権を第三共和政と捉えて大きな誤りでは無かろう。また普仏戦争の終結も、実質的にはスダンの戦いでで決定しているので、「普仏戦争の敗北後、第三共和政が成立した」という文は大筋から言って正しいと言える。しかし、用語集的な細部にこだわれば疑義が生じることは確かなので、設問としてはふさわしくなかった。

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