オーストラリア
1642年のタスマンが最初に到達し、1770年のクックなどが探検し新大陸であることが判明した。1788年から流刑地とされ、アボリジニーの土地を奪いながらイギリス植民地として存在した。
オーストラリア GoogleMap より
ページ内の小見出し
オーストラリア連邦 NewS 国歌の歌詞を変更
先住民アボリジニー
ヨーロッパ人(白人)がこの地に到来する以前から、人類は居住していた。かれら先住民は白人によってアボリジニー(普通名詞で原住民の意味)と呼ばれたが、彼らは5万年前に渡来し、大陸各地に拡がって独自の言語・文化を有する部族にわかれていた。しかし、1788年以来、この地を流刑植民としたイギリスが多くの白人の囚人を入植させ、彼らの開拓地が拡がるにつれて圧迫され、抵抗するものは殺害され、現在では少数民族として残るのみとなっている。しかし、2000年代から、隣のニュージーランドの先住民マオリとともに、歴史の見直しが進み、先住民の人権の復権が図られるようになった。 → オセアニアへの人類の拡散イギリスの進出
タスマンの到達の後、ヨーロッパではこの大陸は100年以上忘れられていたが、イギリスはクックに指揮させて王立調査船エンデバー号を派遣、その第一次探検の途中で東海岸を測量して、新たな大陸であることを発見し1770年4月20日にボタニー湾に上陸、さらに8月にその広大な土地をニューサウスウェールズと名付け、イギリス領であることを宣言した。クックはそれ以前1769年にニュージーランドも発券している。さらに第2次探検を南太平洋で行ったが、1779年にハワイで現地人に殺害された。イギリスは1787年、アーサー=フィリップ提督に命じニューサウスウェールズに船団を派遣した。フィリップ提督指揮下の第一船団はイギリス海軍艦艇など11隻からなり、約1000人が移民として乗船した。囚人とその家族は751人(航海中に23人が死亡)が大半で、軍人とその家族は252人であった。これ以降、移民として渡った者はイングランド人だけではなく、アイルランド、ウェールズ、スコットランドの出身者にユダヤ人を含み、最初から多民族から成っていた。1787年5月13日、フィリップ提督の率いる船団はポーツマスを出港、大西洋を横断してリオデジャネイロに寄港、南太平洋を乗りきり、翌1788年1月26日にシドニーに到着し、入植を開始した。<竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』2000 中公新書 p.3-4 などによる>
流刑殖民となる 最初の移民で最も多かったのは囚人であった。当時は産業革命が進行して貧しい労働者が都市に溢れ、犯罪を引き起こすことが多くなっていた。牢獄が不足したのでイギリス政府は囚人を船荷の請負業者に売りさばき、業者はアメリカ南部の農場主に労働者として売っていたのだったが、アメリカ独立戦争が始まり、1783年に独立を認めてからはそれが出来なくなったため、流刑囚の新しい送り先を探さなければならなくなった。1786年に内務大臣シドニー卿が、かつてクックが発見したニューサウスウェールズのボタニー湾に囚人流刑地を作り、流刑植民地とすることを提案、その案が採用された。こうして、フィリップ提督の率いる船団で751年の囚人(女囚も含む)などの入植者は、翌年1月26日、適当な上陸地点を見つけ上陸し開拓を開始、その地は内務大臣の名に因んでシドニー・コーブと名付けられた。そこには先住民(アボリジニー)が住んでいたが、入植者は彼らの土地を奪い、征服していった。
シドニーの建設 囚人750余人を載せたイギリスの船団が新たな土地に上陸したときの光景を、オーストラリアの歴史家は次のように描いている。
(引用)明けて88年1月20日には、船団の全部の船がボタニー湾に投錨した。目前には何という惨めでとりつきにくい土地が広がっていたことだろう。クックとタックに同行した人々が保証した緑の大平原――勤勉な人間の手で収穫されるのを待つばかりの豊かな土地はどこにあるというのだろう。長い航海の末に一行を待ちうけていたのは、もっとも楽観的な者でさえも希望を失ってしまうような風景であった。フィリップは数人の将校を連れて小舟で北へ上り、“世界一の良港……千隻の船が一列に並んで安全に航行できる港”を発見し、アルビオンと呼んではとの提案をしりぞけてシドニー・コーブと命名した。
フィリップはその場で、ボタニー湾を放棄してポートジャクソン内のシドニー・コーブに植民地を開くことを決め、1月26日に船団を移した。囚人を上陸させていると数人の原住民が現われて、鋭い叫び声をあげながら棒切れや石を投げつけて、白人の侵入に抗議する態度を示した。その夜シドニー・コープにはイギリス国旗が掲げられ、祝砲が轟き、祝盃があげられた。われわれは今日までこの日をオーストラリアにおけるヨーロッパ文明発生の日として祝っている。<マニング・クラーク/竹下美保子訳『オーストラリアの歴史』1969 サイマル出版 p.18>
イギリスの植民地経営
1783年、植民地アメリカを失ったイギリスは、囚人の流刑地だけでなく、産業革命後に急増している人口の捌け口としてこの新大陸を重視するようになった。その後、ニューサウスウェールズ植民地からビクトリア、クインズランド、タスマニアが分離、南オーストラリア、西オーストラリア植民地が新たに造られ、それぞれは徐々に自治が認められ、責任政府が作られていった。特に19世紀からは牧羊業が盛んになって植民地としての重要性が増したため、1823年には一定の自治を認めて「流刑植民地」としての扱いをやめ、1829年にイギリスは大陸全土の領有を宣言した。1851年にニューサウスウェールズなどで金鉱が発見されると、イギリス人以外の移民が激増した。当初はアイルランド人、ドイツ人、イタリア人、ギリシア人、ポーランド人など、非英語圏からの移民も多くなった。ついで中国人やインド人などアジア人の移住が増加すると、それに対してヨーロッパ系移民の反発が強まり、1880年代からはアジア系移民の受け入れを制限する声が強まり、やがて白豪主義という国策が採られるようになる。
流刑地とアボリジニー虐殺
1788年、オーストラリアに最初の囚人が送られて以来、イギリスにとって、オーストラリアは長い間、流刑地以上には考えられていなかったが、アボリジニーの土地を奪うことは自明のように進められた。(引用)アボリジニの人々は、イギリスの囚人だちか1788年に到着し始めると最初に追い出され、虐殺された……以来、イギリス人がこの非常に魅力的な土地を専有するようになった。1837年には、イギリス議会も、アボリジニに起こっている事態に懸念を抱いていると表明した。彼らは「泥棒のような扱いを受け」、「まるで犬かカンガルーのように内陸部に追いやられていた」。だか、これは正確な言い方ではない。アボリジニは移動させられるより、殺されてしまう場合の方か多かったからだ。たとえば、タスマニアでは、1804年から34年にかけて先住民の大半が殺害され、アボリジニを捕えた人には報奨金か与えられた。19世紀の後半に入ると、人種主義的色彩の強い似非科学の後ろ盾もあって、多くの白人は、こうした殺人を義務であると感じるようになった。・・・<クリス・ブレイジャ/伊藤茂訳『世界史の瞬間』2004 青土社 p.169>
Episode エリザベス女王へのガラス玉返還
イギリス人の入植が始まった1788年から200年目にあたる1988年、オーストラリアでイギリス女王エリザベス2世を迎えて式典が行われた。それは「植民地化」200年ではなく、「建国」200年を祝うということにされた。そしてその時、アボリジニーの人々はささやかな抗議を行った。エリザベス女王にとってはうっとうしく感じられた式典だったようだ。(引用)1988年はオーストラリア建国200年にあたる。はるばる地球の裏側まで、二百年祭記念式典に臨席したエリザベス女王に対して、オーストラリア先住民であるアボリジニーの代表が、なんと子ども騙(だま)しのガラス玉やビーズ細工をうやうやしく返還するという儀式を行ったのだ。ほんの少しでもオセアニア――他の地域でも事情は同じだ――の歴史を知る人ならば、すぐにその意味を悟ったに違いない。つまり、二世紀ほど前、いまだガラス玉など見たこともなかったアボリジニーにこれを与え、その引き換えにイギリス人入植者はアボリジニーの土地を手に入れたのであった。だからこれは、ガラス玉と引き換えに奪われた土地を返して欲しいというアボリジニーの意思表示なのである。荒野に追い払われ、絶滅の危機を経験したアボリジニーの運命を考えるならば、このささやかなガラス玉返還儀式がどれほど深い意味をもつかは、容易に察せられるであろう。……<高橋康昌『オセアニア』地域からの世界史17 1992 朝日新聞社 p.121>
オーストラリア連邦
1901年、イギリス帝国内の自治領と認められ、連邦国家となった。1931年、イギリス連邦を構成する国家として実質的に独立しているが、現在もイギリス国王を元首としており、形式的には総督が存在しいる。第2次世界大戦後は南半球の大国として、経済力を高め、国際政治でも重要な地位を占めている。1970年代にはかつての白豪主義を否定し、アジア系移民を受け入れ、多民族社会であることに立脚する多文化主義をかかげ、先住民との和解も進めている。
オーストラリア連邦として「独立」
1901年、イギリスはオーストラリアの自治を認め、ニューサウスウェールズ、タスマニア、西オーストラリア、南オーストラリア、ヴィクトリア、クィーンズランドの6州からなるオーストラリア連邦とした。それによって自治領(ドミニオン、実質的には独立国)としてイギリス植民地会議の構成員となり、さらにその会議が1907年にイギリス帝国会議と改称されるとその主要構成自治領となった。1931年、イギリス議会がウェストミンスター憲章を定め、イギリス連邦が発足すると、その一員となった。これが実質的な独立であり、形式的には1942年、イギリス連邦の一員であるが、本国イギリスに対しては対等な主権を持つことが確認されて独立国となったと言える。
オーストラリア総督 憲法上、国家元首はイギリス国王(現在はエリザベス2世女王)であり、通常はオーストリアにはいないので、代理として総督(Governor-General of Australia)が置かれている。総督はかつてはイギリス本国から派遣されていたが、現在はオーストリア首相が指名し、イギリス国王が任命する形をとり、オーストラリア生まれの人が就任している。総督は儀礼的な存在であるが、憲法上は首相の任命権を持つ。1975年、総督ジョン=カーは労働党内閣のヴィットラム首相を政党間の対立を収拾せず、事態を紛糾させたとして解任した。ほとんどの国民が憲法上の規定を忘れ、総督はお飾りと思っていたので驚いたが、ウィットラム首相が憲法上の規定であることを認めて退任したことで、改めて主権が総督、その任命権者のイギリス女王にあることを認識せざるを得なかった。
独立記念日はいつ?
実はオーストラリアには「独立記念日」はない。1月26日は「オーストラリア・デー」とされているが、これは1788年に最初の入植者がシドニーに上陸した日で、独立記念日ではない。「オーストラリア連邦」が成立したのは1901年1月1日で、連邦を作り上げるために1890年代に憲法制定会議を開き、イギリスに存在しない成文憲法である「オーストラリア憲法」を制定し、そのもとで現在の連邦国家を発足させたのだから、この日は建国記念日にふさわしい。しかし、そうはしていない。それはこの日は6つの植民地が統合されて一つの連邦国家になったものの、決してイギリスから「独立」したわけではなかったからだ。オーストラリア連邦の国家元首は依然としてイギリス国王であり、イギリス帝国を構成する自治国のひとつとなった、というのが本質だった。なぜ独立戦争がなかったか オーストラリアはアメリカのような「独立戦争」を戦って独立したのではなかった。ではなぜ、独立戦争がなかったのだろうか。アメリカ植民地の場合は「代表なければ課税なし」というスローガンの元で独立を力で勝ち取っていったが、その独立をやはり力で押さえつけようとして失敗したイギリスは、それ以降、植民地政策を変化させ、不満が爆発しないように適度な自治権を与えるようにしたのだった。イギリスは植民地社会の成熟に伴って自治を認め、実質的な独立国であるように篤かったが、それはあくまでイギリス帝国の枠内でのことであり、主権国家としての独立まで許すのではなかった。このような曖昧さの中で19世紀から20世紀中頃までのイギリス植民地で白人が優位だったカナダ、オーストリア、ニュージーランドなどはそれぞれ国家アイデンティティに悩まされながら、独立戦争を起こすまでに至らなかった、あるいは「独立戦争を起こす必要がなかった」ということになる。<竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』2000 中公新書 p.1-8>
オーストラリア国旗 確定までの混乱
オーストラリア国旗
ユニオンジャックの下の七稜星は6つの州と1つの直轄領、右の5星は南十字星を示す
1901年に連邦国家が成立したとき、首都でも争っていたシドニーとメルボルンは国旗をどうするかでも争っていた。シドニーは植民地時代のニューサウスウェールズで用いられていたセントジョージ・クロス(イングランド旗→ユニオン=ジャック参照)に聖坐をあしらった、6州が興した連邦運動で使われていた旗を主張し、メルボルンは植民地ビクトリアで使われていた南十字星を主張した。さらにイギリス国旗に執着する親英派が加わって、熾烈な国旗論争が繰り広げられた。結局、メルボルンが新首都が作られるまでの首都とされたことから、メルボルンの主張する旗を原型に作られた現在の国旗が制定された。しかし国旗論争はその後も尾を引き、建国50年が過ぎた1950年に、ようやく現在の国旗の正式使用が決定され、全国の学校での国旗掲揚が通達された。<竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』2000 中公新書 p.13-14>
Episode 「出会いの場所」首都キャンベラの建設
オーストラリア連邦が成立したとき、どこを首都にするかの問題で、シドニー(ニューサウスウェールズ州)とメルボルン(ヴィクトリア州)の二大都市の間で激しい議論となった。10年間も議論をした結果、双方の中間の地に全く新しい首都を建設することで落ち着いた。その地キャンベラは、先住民アボリジニーの言葉で「出会いの場所」という意味であった。都市の設計は広く世界に公募され、シカゴの36歳の建築家のプランが採用されたが、その工事は第一次世界大戦のために延期され、完成したのはようやく1927年であった。<遠藤雅子『オーストラリア物語』平凡社新書 2000 p.132>白豪主義
オーストラリアでは中国人(華僑)などアジア系移民が増加するに伴い、ヨーロッパ人以外の移民を制限する声が強まり、1880年代から「白豪主義」がとられ、1901年にオーストラリア連邦として自治国となって最初に開催された議会において、1901年12月23日にまず第一に制定した法律が「移民制限法」であり、それによって有色人種の移民は制限された。これは、入国にあたって英語の書き取り試験を課し、事実上、非英語圏の入植者を排除したもので、巧妙な人種差別法だった。オーストラリは建国後も産業と軍事力をになう労働力を必要としたので、移民を受け入れたが、それはヨーロッパからの白人の受け入れを想定し、特に東欧や南欧からの移民が多かった。白人支配層は移民受け入れに際して、白人に限定し、有色人(中国人、日本人、インド人、東南アジアの人びと)を排除しようとした。それは差別的な人種主義を根底にしていたが、同時に低賃金で働く層の流入を防止して白人の雇用と賃金を守ろうとした労働組合の要求でもあった。
二度の大戦への参加
イギリス連邦の一員として実質的独立を達成したが、当初はイギリスとの結びつきも強く、第一次世界大戦ではイギリスに協力して参戦し、ニュージーランドとの連合軍(ANZAC)軍としてガリポリの戦いでオスマン帝国軍と戦い、大きな犠牲を出した。ガリポリの戦いでANZAC軍が大敗を喫した1915年4月25日は、戦死者を悼むとともにオーストラリア軍が初めて世界史的な出来事に参画した日として国家的な記念日(アンザック・デー)とされている。実際にはガリポリでは8141人の兵士が戦死しているが、兵士は勇猛果敢に戦ったという伝説が作られ、愛国心を高めることに利用された。第一次世界大戦ではニューギニア東半分の北部のドイツ領を攻撃して占拠した。大戦後のパリ講和会議には独自代表ではなくイギリス全権団の一員としての参加であったが、日本が提案した人種差別撤廃条項に反対するなど独自の行動も見せ、国際連盟規約への署名国となり、1921年にはニューギニア島の旧ドイツ領を国際連盟の委任統治として管理権を得、すでにイギリスから領有権を譲られていたパプアとともにパプアニューギニアとしてその統治下に置いた。
第二次世界大戦でも連合国の一員として戦い、南下する日本軍の侵攻を受け直接交戦し、日本空軍の空爆も受けた。日本軍がマレーシアのサンダカンに設けた捕虜収容所で、オーストラリア兵捕虜に対する虐待事件がおこっている。また、オーストラリア軍が設置した日本兵捕虜収容所カウラでは日本兵の集団脱走事件が起きている。
第二次世界大戦後の冷戦時代には1951年の太平洋安全保障条約(ANZUS条約=オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国間の安全保障条約)に加わり、西側軍事同盟に組み込まれていたが、現在はイギリス本国・アメリカ合衆国とも一定の距離を置き、資源大国として独自の道を進んでいる。
オーストラリアの変化
白豪主義から多文化主義へ オーストラリアの有色人種を排除する移民政策である白豪主義は、アジアの諸民族の反発受け、第二次世界大戦後にようやく見直しが始まった。1960年代は明確な差別は少なくなって、1973年にはオーストラリア政府は「多文化主義」を表明して、事実上、白豪主義は廃止された。1970年代にはベトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ難民を多数受け入れるという大きな転換を行い、からは再びアジア系移民を受け入れるようになり、現在は民族間の融和をはかっている。(引用)オーストラリア社会はイギリスに対して独立革命を起こさなかったが、国内社会で静かな革命を経験している。おそらく大半のオーストラリア国民でさえ、革命としては自覚していないことであるが、社会革命と呼ぶにふさわしい。それは移民政策における革命である。かつて白豪主義を喧伝した国家が、現在では多文化主義(マルチカルチャリズム)を標榜する国家へと変貌を遂げるなど、国家の将来像と価値観を、根本的に修正したからである。こうした革命は、1970年代から1980年代にかけて徐々に進行したものであり、多文化政策導入の革命記念日はない。<竹田いさみ『物語オーストラリアの歴史』2000 中公新書 p.31>英連邦からの離脱の動き 1990年代に入り、オーストラリア連邦の中に、さまざまな変化が現れてきた。その一つがイギリス連邦から離脱し、立憲君主国であることを止め、完全な共和制国家にすべきである、という声が強まったことである。その声はオーストラリアではかなり前から存在していたが、1999年には、共和制移行の可否を問う国民投票が行われた。結果は立憲君主政の維持、つまりイギリス連邦への残留が多数を占め、現在も同じ状態が続いている。イギリスのユニオンジャックを左隅に描いている国旗も変更する動きがあったが、同様の国旗についてニュージーランドでは変更されたが、オーストラリアは変わっていない。
アボリジニー政策の誤りを認める また、先住民アボリジニーに対しては、1950年代、同化政策を進めるためにその子供たちを隔離するなどの強引な手法を採ったため、その社会は激変した。それに対する反発から民族的な自覚も高まったことを受け、1967年の憲法改正でオーストラリア国民として認められ、白人と平等な市民として扱われるようになった。1992年の連邦最高裁判決で彼らの土地所有権が、先住オーストラリア人の伝統的所有権として認知され、アボリジニー・コミュニティが自立することができるようになった。このような見直しが進んだ結果、オーストラリア政府は1999年、独立以来のアボリジニー政策の誤りを認め、謝罪した。
NewS 国歌の歌詞を変更 young から one へ
2021年1月1日、オーストラリアの新しい国歌が変更され、7日にオーストラリアとインドのクリケット国際試合の試合前にミュージカル俳優ステファニー・ジョーンズさんによって披露された。それは冒頭のわずか1語、young を one に変えたに過ぎないが、どのような意味が込められているのだろうか。冒頭の歌詞は We are young and free であったが、それを We are one and free と変更したのだが、もとのもとの国歌は1984年につくられた「アドバンス・オーストラリア・フェア」であり、そこで「若い国」の意味で young と歌われたのだった。それ以前は1901年のオーストラリア連邦成立以来、イギリス国王を国家元首としていたので、「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン」を国歌としていた。「若い国」と言う表現は、1788年のイギリス人の入植から始まったという白人の歴史を反映した内容であり、6万5千年以前から住む先住民のアボリジニーにとっては受け入れがたい言葉だった。2006年に歌詞を変えようという運動が始まった。250以上ある先住民の言語で歌おう、という動きも出てきた。隣のニュージーランドでも国歌を英語と共に先住民のマオリ語で歌われることが増えていることも影響した。2020年12月のラグビーの対アルゼンチン戦で先住民の高校生オリビア・フォックスさんがシドニーの先住民の言語「オエラ語」で歌い、豪代表選手も肩を組んで声を張り上げた。
オーストラリアでは国歌に関する法律はなく、歌詞の変更は首相の助言でイギリスの代理人である総督が公布するという手続きで行われたが、モリソン首相は与党保守党にも図らずに変更した。首相と総督の二人だけで決めたと批判はあったが、手続き上は問題がなく、国民の多くも変更を歓迎した。野党労働党も変更を認めたが、同時に憲法も改正することを主張している。憲法では先住民の権利が認められていないためだ。また依然として白人と先住民の間の経済格差は大きく、当事者の思いも複雑であるようだ。<朝日新聞 2021/2/11 記事より>