ブーランジェ事件
1889年、フランス第三共和政に対し、軍国主義者が共和政転覆を謀った事件。首謀者ブーランジェ将軍が突然亡命して失敗に終わった。続いて起こった贈収賄事件のパナマ事件、ユダヤ人軍人をドイツのスパイとしてでっち上げたドレフュス事件とともに、共和政の危機となった。近代国家でのグーデタが失敗した例の一つ。
フランス第三共和政の危機
ブーランジェ将軍
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フランスは、1870年の普仏戦争に敗北し、混乱の中で第三共和政の政体を成立させ、憲法の下での大統領制・議会政治の歩みを続けていた。しかし、初代大統領マクマホン自身も軍人出身で共和制に思い入れがあるわけではなく王党派にちかい信条を強く持っていた。また議会内でも安定した政党が成長しておらず、内閣は頻繁に交代し、議会は空虚な議論に時間を費やし、官僚には不正が横行するなど、議会制民主主義への信頼の形成にはほど遠い状態だった。
そのような中で、議会内にも王党派(ブルボン王朝の復活を主張)やボナパルティスト(フランス革命の成果を定着させるには,ナポレオンのような強力な君主制による安定した統治が必要と主張)などが愛国者同盟を結成し、共和政府打倒に動き出した。また急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブランキの系統)らは議会政治を否定する立場から共和政を倒し軍事独裁政権の樹立を支持した。このように第三共和政は、左右の両派から攻撃されるという状態で、安定していなかった。国民の中には、かつてのナポレオンのような強力な指導者を懐かしむ声もあった。そのような中で国民から救国の英雄と期待しされて登場したのがブーランジェ将軍であった。
ブーランジェ将軍
ブーランジェ Boulanger 1837-91 は、クリミア戦争・アルジェリア・インドシナで従軍した著名な軍人で、普仏戦争でも勲功を立てたが敗れ、フランス軍の再建を託されていた。彼は王党派の古い軍人を退役させ、軍隊の訓練、兵器、規律を近代化し、「公衆は、たちまちにして、このハンサムな若い将軍が、陸軍をまもなくプロイセンに挑戦できるだけの軍隊に改造してくれる」と期待し「報復将軍」と呼ばれるようになった。共和派のクレマンソーもかれを推薦したので、1886年に陸軍大臣となった。陸軍大臣となったブーランジェ将軍は、1887年に当時ドイツ領だったロレーヌ地方でフランス人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致された事件(シュネブレ事件)が起きると、外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、即時軍事行動による報復を強硬に唱えた。議会は閣内不一致として政府を攻撃すると、ブーランジェは下院を解散し、憲法を改正して強力な最高行政長官を設置することを主張した。これは第三共和政を倒すことを意味していたので、彼は陸相を罷免され、地方の軍司令官に左遷された。
ブーランジェを支持していた王党派、ボナパルティスト(ナポレオン時代の再現を期待する人びと)は一斉にその周辺に結集そた。その思想はブーランジズム、結集した人びとはブーランジェストと言われた。その運動は再三共和制に不安を感じていた民衆を捉え、彼は1887年秋の下院議員選挙で大勝し、下院議員となった。
Episode 首相と将軍の決闘
将軍と首相の決闘 左ブーランジェ、右フロケ
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*ただしこのことを「ブーランジェ事件」というのではない。事件はこの後に起きる。
クーデタの失敗
ブーランジェ派は王党派、ボナパルティスト、一部の急進派と社会党員などを支持者とし、富裕な右派からの資金援助を受け、日刊新聞を発行し、何百枚というパンフレットやビラを印刷し、選挙戦に惜しみなく費用をつぎ込んで、補欠選挙で同派をつぎつぎと当選させていった。彼らは陸軍とパリ警察はどんな手段に対しても反対しないだろうと踏んでいた。1889年1月の総選挙でブーランジェは、革命以来、急進共和派の牙城だったパリ第1区で立候補し、当選したらエリゼ宮に向かい、大統領を追いだして最高権力を接収すると声明した。支持者はフランスの首都におけるこの選挙でブーランジェが勝てば、共和制を打倒するだろうと警告した。猛烈な選挙戦が展開された結果、ブーランジェは対立候補の162000票に対して240000票を得て当選した。街頭にはたちまち大群衆が出現し、かれらの英雄が大統領官邸(エリゼ宮)に進軍し、政権を接収することを要求した。
(引用) たまたまそのころ、将軍は、選挙の結果が入ってくるのを聞きながら、エリゼ宮からあまり遠くないロワイヤル通りの粋な料理店デュランで、協力者と一緒に夕食をとっていた。外のきびしい夜の空気をつんざいて「エリゼへ」と叫ぶ群衆の熱狂的な歓声が聞こえてきた。側近者たちがは、いっときも失ってはならないと説き立てた。時が来たと、彼らはいった。 実際、それはだぼらではなかった。いく人かの閣僚は周章狼狽して、彼らの省から撤退をはじめていた。エリゼ宮自体では共和国大統領が急遽閣議を召集して、ほとんど恐慌状態だった。・・・この英雄にはひと皮めくると筋ぼねなどないことを見て、政府は安心し、上院に最高裁判所の役をさせ、現制度打破の陰謀を企てたかどで将軍を喚問するという姿勢を示した。それを聞いた将軍は4月1日、国境を越えてベルギーに逃亡した。将軍のこの逃走は、ブーランジズムのシャボン玉を破裂させた。第三共和政破壊のエースとなりかけていた英雄は、一朝にして似而非なる英雄となりさがった。<ウィリアム・シャイラー『同上書』 p.45>
しかし、軍人英雄はエリゼ宮でなく、他の場所へ行くことを望んだ。彼は大統領官邸に行ってフランスの独裁権を握るかわりに、情婦といっしょにいるために自宅へ帰った。この生涯のもっとも重大なとき、彼にとっては、マダム・ド・ボンヌメンといっしょにいることのほうが、クーデターを上演することより、いっそう大切だったのである。彼がその夜、ふたたび料理店に引返したとき、気落ちした協力者たちは、手遅れだと将軍に告げた。彼はついに二度と機会に恵まれなかった。<ウィリアム・シャイラー/井上勇訳『フランス第三共和政の興亡1』1971 創元社 p.44>
Episode 愛人に殉じた将軍
将軍にはマルグリット=ドゥ=ボムマン夫人という愛人がいた。将軍は陸軍大臣を罷免された後、クレルモン=フェランの地方司令官に左遷されたが、謹慎中であるにもかかわらず司令部近くの「マロニエの家」という旅館で、夫人と逢い引きを重ねていた。将軍には妻がいたが、離婚協議中であり、夫人にももちろん夫がいたが、二人は深く愛し合っていた。将軍の亡命先のブリュッセル、ロンドン、ジャージー島にも密かに夫人はついて行った。その間、夫人は肋膜炎で病に伏す。将軍は政治的な野心と夫人への愛情の板挟みで悩んだが、ついに愛を選び、夫人の死のあとを追い、1891年9月30日彼女の墓の前で拳銃自殺した。将軍のスキャンダルによって、ブーランジェ派の反共和政の運動は急速にしぼんでしまった。<大佛次郎『ブゥランジェ将軍の悲劇』1935 現在は大佛次郎ノンフィクション全集8(朝日新聞社)に収録>大佛次郎の警鐘 大佛次郎は1930(昭和5)年の『ドレフュス事件』に続いてフランス史に題材を採り、小説であるが史実に忠実に、軍部クーデター事件をとりあげ、1935(昭和10)年、『ブゥランジェ将軍の悲劇』として雑誌『改造』に発表した。それは日本でもまさに議会政治が危機に瀕し、軍部が台頭するという時期であった。そして翌年には二・二六事件が勃発する。大佛次郎はフランスという舞台を借りて、軍部独裁への警鐘を鳴らしたのだった。
ブーランジェ将軍が独裁者になりきれずに自滅したので、フランス共和政の危機は救われたが、普仏戦争の敗北という中でフランス国粋主義に火がついたことは事実だ。フランスではいわばボヤのうちに消し止められたわけだがが、第一次世界大戦後にヒトラーが現れたようなことがフランスで起こらなかったという保障はない。それは議会政治の危機、軍国主義的な風潮の復活という現代の日本においても、十分な警鐘となっている。
パナマ事件、ドレフュス事件へ
ブーランジェ将軍のクーデタ失敗で、第三共和政はいったんは危機を脱した。しかし、まもなく1892年には、パナマ運河会社をめぐる巨額の賄賂が、ユダヤ系商社から議員に成されていたことが明るみに出てパナマ事件が紛糾した。王党派など右派はカトリック教会や軍人の中に根強い反ユダヤ主義と結びつき、ユダヤ人排斥を掲げて第三共和政政府を攻撃するようになり、それが最も鮮明に現れたのが、1894年のユダヤ系軍人ドレフュス大尉がドイツのスパイとして告発されたドレフュス事件であった。このときフランス国内はドレフュスが犯人か無実が、を巡って王党派・カトリック教会・軍人などからなる右派と、社会党・急進社会党などの共和制擁護派に二分され、はげしく議論が戦わされた。結局1906年に冤罪であったことが確定し、フランス第三共和政は維持されることとなった。POINT フランス革命100年 1889年 ブーランジェ事件が起き、共和政が大きく動揺した1889年はフランス革命から100年目に当たっていた。ブーランジズムで沸き返っていたパリでは、同時にフランス革命百周年祝賀行事の準備が進められていた。ブーランジェ将軍が亡命した日から約1ヶ月後の5月5日、祭典がフランス各地で開催され、パリでは万国博覧会が開幕した。その最大の目玉として建造されたのがエッフェル塔で、この年3月に完成したものだった。7月14日のバスティーユ襲撃記念日は1880年に建国記念の国民祝祭日とされていた。フランス革命後の1世紀でフランスは、第一共和政・ナポレオン帝政・復古王政・七月王政・第二共和政・第二帝政とめまぐるしく政体が交代し、第三共和政でようやくフランス革命の理念である自由と平等な社会を実現させた。それでも第三共和政ははじめから動揺が続いていたが、このブーランジェ将軍のクーデタは大きな危機であった。偶然の要素が強いとはいえ、フランス革命100年目のこの年に、この危機を乗り切ったことが共和政の維持にとっては重要な意味をもっていたといえる。
蛇足 世界史上のクーデタ
ブーランジェ将軍のやり方は、ドイツとの復讐戦を煽り、政治の混をもたらし、国民に対して強い指導者としての幻想をもたせ、財力にものを言わせて新聞発行やパンフレット発行を行い(現在で言えば、SNSの利用に当たる新しい選挙戦術だった)、選挙で勝つという正当性を得て権力を握ろうとした、しかし最後は個人的な理由で踏み切れず、失敗した、と言うことになろう。このクーデタはあっけない結末に終わったので、ある種、笑い話的なエピソードとなっているが、首謀者の資質に問題がなければ、成功したかもしれない。約40年後のお隣、ドイツのヒトラーの政権獲得はまさに同じような過程を、もっと大規模に実行した。ドイツで起こったことが、フランスで起こっていたとしても不思議はなかった、ということを考えざるを得ない。ブーランジェのような人物、あるいはやり方が、現代の日本にも現れないとは限らない。世界史上でこのようなことが起こっていたことも知っておこう。
ブーランジェ事件を思い出させたのは、12月3日に突如起こった、韓国の尹錫悦大統領の非常戒厳が無様な失敗に終わったことだった。尹大統領のやったことは議会の活動を停止し、権力を大統領に集中させるというクーデタである。もちろんブーランジェ将軍のクーデタとは状況が違うが、いずれもみじめに失敗したというのが共通点といえる。また、尹錫悦は軍隊を動かすのことに失敗した(というより動かそうとしたのかも疑問)が、ブーランジェ将軍もかつて陸軍大臣でありながら、軍を動かしてのクーデタを行おうとした形跡はない。このあたりに世界史上のクーデタの成功、失敗の違いがあるようだ。<2024/12/9記>、