飛行機/航空機/空爆
1903年、ライト兄弟が実用化し、第一次世界大戦で新兵器として使用された。20世紀後半、急速に発達し船舶・鉄道とともに交通手段として用いられるようになり、旅客・流通・産業など大きな変化をもたらした。第二次世界大戦では空軍による空爆が決定的な役割を果たし、大規模な戦略爆撃によって戦闘員以外にも多くの犠牲者がでるようになった。戦後は遠距離交通に不可欠となっただけでなく、グローバルな移動による世界の一体化が進み、さらに宇宙開発競争に結びついている。
飛行機はアメリカのライト兄弟が複葉グライダーを1902年に試作し、1903年12月17日にそれにエンジンとプロペラを備え付けて飛行に成功させたことで実用化が始まった。それまでも空を飛ぶことに様々な人びとが挑戦しており、ライト兄弟は自分たちの技術が盗まれないよう、特許を申請し、ようやく特許が取れた1908年から公開飛行を各地で行うようになり、世界に大きな衝撃を与えた。
しかし、飛行機が実用的な交通機関、輸送機関となるには、ライト兄弟の飛行機はガソリンエンジンとプロペラの改良が必要であり、また何よりも木と布で作った機体では安全性に不安があったため、それを乗り越えようという新しい技術による挑戦が次々に始まった。アメリカよりもフランスやドイツなどのヨーロッパにおいて飛行機の改良が進み、ライト兄弟形の複葉機は1910年代になると時代おくれなものになっていった。特にドイツではジェラルミンを使った全金属製機体による飛行機が作られるようになり、安全性と機能性を一段と高めた。
1910年代にエンジンの出力が上がり、鋼管フレームをもつ機体が、フランスのブレゲーによって作られた。それは第一次世界大戦中の1916年の偵察機ブレゲー14で、アルミ管と鋼管と木材で骨組みを作り、主翼は矩形断面のアルミ桁と木の小骨で作られ、機体表面には羽布が張られていた。大戦後ブレゲー14は旅客機に衣替えし、ブレゲーも民間航空会社を設立、それが現在のエール・フランスのもととなった。ブレゲーは1921年にジェラルミン(1906年に発明されたアルミニウム合金)を骨組みと機体前部に用い、胴体に燃料を大量に蓄えられるように改造して長距離飛行を可能にしたブレゲー19を作った。
ドイツではオランダ人フォッカーが設立したフォッカー社が1914年に鋼管フレームに羽布や合板を張った(翼はまだ木製だった)戦闘機に、同調式機銃装置を採用して戦闘能力を上げることに成功してドイツ空軍に採用された。またドイツのユンカースはジェラルミンを腐食しにくいものに改良し、1915年についに全金属製単葉機を実現した。しかし、第一次世界大戦中にはジェラルミン製機体は空気抵抗と強度の問題が残され、完全に木と布の機体に代わったわけではなかった。<鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 p.171-184>
その後、バルカン戦争(1912~13年)ではブルガリアが22ポンド爆弾を開発し、始めて都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が効果をあげたことに各国が注目し、フランスとスペインは北アフリカの植民地で1913年から使用するようになった。日本軍は、第一次世界大戦に参戦し、ドイツの青島要塞に対する攻撃の際に初めて飛行機を空爆、偵察に使用した。
オランダのフォッカー 一方、オランダ人のフォッカーは大戦中に戦闘機をドイツに提供していたが、戦後は民間輸送機の製造にのりだし、1920年からFシリーズといわれる、胴体は鋼管溶接の骨組みに羽布を張ったものだが、400馬力のエンジンを搭載して長距離旅客機用に特化し、オランダの航空会社KLMに採用された。フォッカー機はイギリスのデハビランドやフランスのファルマンよりも航続距離が長いので長距離旅客機としての地位を築いた。そのフォッカーがアメリカ市場進出をねらい、1925年に木製羽布張りの主翼をもつフォッカー・トライモータ(乗員2名、乗客8人)を製作、秋に開催された「フォード信頼性運航競技会」で1等となり、その後も数々の長距離飛行記録をうち立てた。1926年のバードによる北極点飛行もフォッカー機が用いられた。バードは大西洋横断競争でもリンドバーグと競ったが、その栄光は1927年5月21日にパリに到着したリンドバーグのものとなった。
フォードの貢献 フォードもフォッカーの成功に刺激され、スタウトと分かれて独自に設計技師を雇い、1926年にフォード・トライモータという胴体にジェラルミンの波板を張った(そのため「ブリキのガチョウ」というあだ名がついた)を製作、徐々に改良を重ねて大型化させ、1920年代後半から30年代のアメリカを代表する輸送機に成長した。フォードは航空事業を展開するためにインフラの整備にも投資し、アメリカで最初のコンクリートの滑走路をつくり、管制塔とターミナルビル、ホテルも建設した。また、自社の機体の購入者のためにパイロット学校を開設、航空輸送の安全性向上にも寄与した。
世界恐慌の嵐 しかし、1929年10月24日にニューヨーク株式市場の大暴落から始まった世界恐慌は、アメリカの航空業界にも打撃を与えた。フォード社は本業の自動車も販売台数が落ちこんだが、特に旅客機製造部門は不況の直接的な打撃を受け、フォード・トライモータは1929年には86台の販売機数だったものが、30年には26機、31年に21機に落ちこんだ。そのため、フォードは後に航空事業からは撤退する。
モノコック構造 1930年代のアメリカの航空機製造で主役となったのは、ボーイング社のB247やダグラス社のDC-3など、いずれも金属製機体をモノコック構造にしたものだった。モノコック構造とは一体式の「まゆ」ににた流線型の胴体をもつもので、はじめは木型で作られ、大戦中にツェッペリンの設計に加わったドイツのロールバックが戦後に、セミモノコックで全金属4発機スターケンE4/20を18人乗りの旅客機として制作した。しかし連合国はそれを爆撃機と見なし、1922年11月に破壊命令を出した。ドイツはヴェルサイユ条約で空軍をもつことは禁止されていたからである。
ロッキード社 モノコック構造の本格的な成功はアランとマルコムのロッキード兄弟が、名設計者ノースロップを得て製作したヴェガであった。ヴェガは木製モノコック構造であったが、時速217キロの高速性能を持つ傑作機となり、1931年のワイリー=ポストによる世界一周飛行、32年のアメリア=エアハートによる女性単独大西洋横断飛行などはヴェガで成功した。ロッキード社は世界恐慌で倒産したが32年に再建され、ロッキード・エア・コーポレーションとして成長する。フォッカー社は1931年3月31日、F10A型機が墜落事故を起こし、有名なフットボールの選手など乗客が全員死亡する事件が起き、その原因が主翼が木製でその強度不足とされた。この事故がきっかけでフォッカー社はアメリカから撤退、そして航空機の機体は全面的に金属機体に変更されることとなった。
ボーイング社 金属製機体のモノコック構造を一手にやっていたのがボーイング社だった。創業者ウィリアム=ボーイングはシアトルで木材事業に成功し1916年から水上飛行機の製造を開始、自社の機体を用いた航空郵便輸送にも進出し、19年シアトル-ヴァンクーヴァー間の国際郵便輸送を開始した。1927年には安い入札価格でサンフランシスコ-シカゴ間の航空郵便輸送権を手に入れ、それに自社製のボーイング40Aを導入、それはそれまでの水冷エンジンに代えて空冷エンジンを取りつけて軽量化に成功し、事業の成功にも繋がった。さらに1928年、ボーイングは陸軍から金属製戦闘機を受注し、そこから金属製機体の設計の経験を重ね、戦闘機、輸送機、爆撃機をライバル社のマーチン社と競った。1933年、完成形である双発の金属製旅客機B247を発表、それは速度を早く、収容力があり、なによりも安全な金属製機体を実現し、初めて引き込み脚などをそなえていた。
ダグラス社 ダグラス社の創始者ドナルド=ウィルズ=ダグラスは1908年のライト兄弟の公開飛行を目撃して飛行機造りを志し、マサチューセッツ工科大学などで学んだ後、20年に独立して自分の会社を興した。もともと陸軍と関係が強く、軍用機を製造して陸軍に納めていたが、1931年のフォッカーの墜落事故をきっかけに全金属製機体への転換が求められたとき、先行していたボーイング社だけでは製造が間に合わないことから、大手航空会社TWAがダグラス社に新型旅客機の開発を打診してきた。ダグラス社はその頃、ロッキード社を離れた著名な設計者ノースロップ社を傘下に収めていたので、金属製機体の新型機の製作に乗り出し、1933年にその1号機DC-1を製造した。それはボーイングB247とさまざまな点で競争となった。DC-2での改良を経て1935年に出したDC-3は、エンジンの強化によって大型化を可能にし、乗客数を14名から21名に増やすことに成功、その性能と快適な乗り心地は瞬く間に世界を制覇し、アメリカの国内線の95%を占有するまでになった。結局DC-3は民間機としては803機、軍用機としては1万機以上が製造されるという、伝説の機体となった。
アルミニウムの不足 第二次世界大戦では各国とも空軍の強化に努めたが、主流は全金属製の機体を持つ戦闘機・爆撃機となったため、ジェラルミンの需要が急速に高まった。その原料となるアルミニウムは生産力の差が大きく、特にイギリスにはアルミニウム工場がなく、1938年にはその製造量はドイツの15%でしかなかった。そのため、イギリスのデハビランド社は木製航空機を復活させ、合板で高速爆撃機を製造した。飛行機が戦争の中で重要な位置を占めるようになったことで、アルミニウムが重要な資源として争奪の対象となるようになった。
イギリス ホイットルは自動車工場の職工を父にして生まれ、飛行機に興味をもって空軍幼年学校に入り、さらに空軍士官学校に進んだ。そこでプロペラ機では高速飛行に限界があることを知り、新たなエンジンとしてジェット推進の可能性に着目するようになった。1930年から海軍のパイロットとなり、より高度な研究が必要と感じて志願してケンブリッジ大学に国内留学し、卒業後、36年にエンジンを開発する会社をエジンバラに設立した。1937年、世界初のジェットエンジンを完成させ、地上実験に漕ぎ着けた。4月12日に最初の運転を行ったところ、回転数はグングン上がり続け、燃焼室のケースが真っ赤になってしまった。2回目の運転では排気口から火を噴き、エンジン全体が炎に包まれた。見ていた人びとは慌てて逃げ出し、ホイットルも青ざめたが、この暴走の原因は燃料室に残った燃料が燃え続けたことであることがわかった。こうしてジェットエンジンが作動することが実証されたが、イギリス空軍は慎重で実際に戦闘機用のエンジンに取りつけようとはしなかった。
ドイツ ドイツのオハインはゲッチンゲン大学で物理学の博士号を取り、タービンによるジェットエンジンの研究に着手していた。ハインケル社の協力で1937年にその試作運転に成功した。イギリスのホイットルには支援がなかったのとは違いがあった。ハインケル社はオハインの開発したジェットエンジンを搭載した飛行機を作り、39年8月27日には試作機が初飛行に成功した。その成功の数日後の9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。イギリスもドイツがジェット機の開発に成功した情報を得て、開発を急いだ。
バトル・オブ・ブリテン 1940年、ドイツ空軍のロンドン空爆「バトル・オブ・ブリテン」が始まるとイギリスも、41年5月15日、ホイットルが開発したジェット機の飛行実験に成功したことをうけ、ジェットエンジンの量産を開始した。ホイットルの開発したジェットエンジンは、アメリカでもそのライセンス生産をGEが買い取り、生産を開始した。しかし、ドイツが最初にジェット機を実用化したのは1942年7月、ユンカースのエンジンを搭載したメッサーシュミットMe262であった。ハインケル社が非ナチスであったため冷遇されたともいわれている。一方イギリスでは43年3月、ホイットルの開発してロールスロイスが製造したエンジンを搭載したグロスター社のミーティア(流星)が初飛行、44年には実戦に配備された。44年夏のドイツのV1ミサイルによるロンドン攻撃では、イギリス空軍のジェット機ミーティアが迎撃し、撃墜している。
第二次世界大戦後、ジェットエンジンの開発に貢献したイギリスのホイットルとドイツのオハインはともにアメリカに移住し、アメリカの航空業界に貢献、1991年、二人は工学のノーベル賞ともいうべきアメリカ工学会のドレーバー賞を揃って受賞した。
日本 日本軍は、戦争末期にドイツから資料を送ってもらいジェットエンジンを開発しようとした。しかしドイツからの資料を運ぶ潜水艦がシンガポールを出たところで消息不明となり、日本に届かなかった。唯一シンガポールから航空便で届いた1枚の断面図だけを頼りに日本軍の技術者はジェットエンジン「ネ20」を完成させ、それを搭載した初のジェット機「橘花」が木更津飛行場で初飛行に成功したのは45年8月7日であった。この時は燃料もなく、松の根を乾留して得た松根油を使用した。
しかし、飛行機が実用的な交通機関、輸送機関となるには、ライト兄弟の飛行機はガソリンエンジンとプロペラの改良が必要であり、また何よりも木と布で作った機体では安全性に不安があったため、それを乗り越えようという新しい技術による挑戦が次々に始まった。アメリカよりもフランスやドイツなどのヨーロッパにおいて飛行機の改良が進み、ライト兄弟形の複葉機は1910年代になると時代おくれなものになっていった。特にドイツではジェラルミンを使った全金属製機体による飛行機が作られるようになり、安全性と機能性を一段と高めた。
金属機体の誕生
ライト兄弟の飛行機はガソリンエンジンとプロペラで推進したが、その機体は木と布とワイヤーで作られていた。その安全性、信頼性、長時間使用などのためには金属で飛行機を作ることが必要であり、それが可能になることで飛行機はライト兄弟モデル段階から飛躍的に進化したと言うことができる。1910年代にエンジンの出力が上がり、鋼管フレームをもつ機体が、フランスのブレゲーによって作られた。それは第一次世界大戦中の1916年の偵察機ブレゲー14で、アルミ管と鋼管と木材で骨組みを作り、主翼は矩形断面のアルミ桁と木の小骨で作られ、機体表面には羽布が張られていた。大戦後ブレゲー14は旅客機に衣替えし、ブレゲーも民間航空会社を設立、それが現在のエール・フランスのもととなった。ブレゲーは1921年にジェラルミン(1906年に発明されたアルミニウム合金)を骨組みと機体前部に用い、胴体に燃料を大量に蓄えられるように改造して長距離飛行を可能にしたブレゲー19を作った。
ドイツではオランダ人フォッカーが設立したフォッカー社が1914年に鋼管フレームに羽布や合板を張った(翼はまだ木製だった)戦闘機に、同調式機銃装置を採用して戦闘能力を上げることに成功してドイツ空軍に採用された。またドイツのユンカースはジェラルミンを腐食しにくいものに改良し、1915年についに全金属製単葉機を実現した。しかし、第一次世界大戦中にはジェラルミン製機体は空気抵抗と強度の問題が残され、完全に木と布の機体に代わったわけではなかった。<鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 p.171-184>
第一次世界大戦と飛行機
飛行機を軍事用に用いる軍用機は第一次世界大戦の開戦の頃は両陣営それぞれの空軍が百数十機しか保有していなかったが、戦争中に急速に増加し、3万機までになった。また戦闘機だけでなく、攻撃機、爆撃機、偵察機といった機種が生まれた。さらに飛行船も登場し、偵察・爆撃に使用された。特にドイツ海軍のツェッペリン号はロンドンの夜間爆撃を行い恐れられた。その他、第一次世界大戦で出現した新兵器には、潜水艦がある。また火砲も急速に発達し、射程が100㎞を越す長距離砲も出現した。その他、戦車や毒ガスとともに飛行機は戦争の形態を根底から変化させ、戦争では兵器の製造技術や生産能力、それを生み出す経済力が問われることとなり、何よりも犠牲が兵士だけでなく、非戦闘員である一般市民にも及ぶようになった。Episode 空のエース、レッドバロン 戦闘機の出現
飛行機は当初、偵察や命令の伝達(伝令)、あるいは砲兵隊の着弾地の計測に協力するといった補助的な任務しかなかった。銃を備え付けて敵機を撃つことも試みられたが、銃弾がプロペラに当たってしまうという問題があったので、銃座をプロペラの回転面から離さなければならず、効果が薄かった。その問題を解決したのが中立国オランダのフォッカーで、彼はエンジンの回転軸と機銃をカムシャフトでつなぎ、プロペラが機銃の真正面に来た瞬間に撃鉄が薬莢の雷管をたたいて発射する仕組みを考えた。こうしてプロペラの回転と銃弾の発射を同調させることに成功した。このフォッカー型戦闘機は1915年夏からドイツ軍が前線で使うようになり、本格的戦闘機の出現は連合軍の空軍を恐怖に陥れたという。その後戦闘機は急速に改良され、パイロット技術も上がって、第一次世界大戦では敵機を何機落とすかという競争が行われ、レッド=バロンと呼ばれたドイツのリヒトホーフェン騎兵大尉(一人で80機を落とした)など、何人もの空のエースが現れた。空爆の開始
飛行機を用いての爆撃、つまり空爆が始まったのは、1911~12年のイタリア=トルコ戦争であった。イタリア軍はオスマン帝国領のトリポリ・キレナイカの植民地化を目指して攻撃、1911年9月23日の開戦とともに飛行機9機、飛行船2機を派遣、10月26日に飛行機から手榴弾を投下、以後総計330発の爆弾を投下した。これが空爆の最初であり、アラブ側に驚異的な心理的効果を与えたと報告されている。その後、バルカン戦争(1912~13年)ではブルガリアが22ポンド爆弾を開発し、始めて都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が効果をあげたことに各国が注目し、フランスとスペインは北アフリカの植民地で1913年から使用するようになった。日本軍は、第一次世界大戦に参戦し、ドイツの青島要塞に対する攻撃の際に初めて飛行機を空爆、偵察に使用した。
戦略爆撃の思想
第一次世界大戦後、敵の都市など人口密集地帯を無差別に空爆することによって恐怖心を与え、降伏に追い込むための戦略的な爆撃を行うという考え方が強くなった。その「実験」の意味があったのが、イタリアのエチオピア併合の戦争と、ドイツのスペイン戦争でのゲルニカ空爆であった。ここから本格化した無差別戦略爆撃の思想は、第二次世界大戦でのドイツ軍によるロンドン爆撃、連合軍によるドレスデン空襲、日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による東京大空襲などで実行され、その究極のところに広島・長崎があった。<荒井信一『空爆の歴史』2008 岩波新書>第一次世界大戦後の飛行機の普及
ドイツのユンカース 第一次世界大戦後、ドイツのユンカースは民間航空機製造に乗り出し、1919年のユンカースF13では全金属製の機体にBMW社の185馬力エンジンを搭載、近代的な旅客輸送機の先駆けとなった。<以下、主に鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 によって構成>(引用)第一次世界大戦後、欧州では航空輸送事業が大きな脚光を浴びた。戦争のために鉄道網が破壊され、また、アメリカとは異なり英仏海峡を越えた輸送が必要であった。さらに、遠く離れた植民地への輸送も要求されたという事情があった。とくに、敗戦国ドイツは、航空輸送の発展には力を注いだ。1919年末には小さな航空会社が乱立し、ベルリンを拠点に運航を開始した。これらは、1926年にはルフト・ハンザに統合されている。26年にはベルリンとロシアのケーニヒスベルク間の主要航路にビーコン(航空標識)が設置され、同年5月1日には夜間飛行も世界に先駆け始まった。1930年代のなかばごろには、ドイツはヨーロッパ最大の民間航空帝国に成長した。ユンカースF13は丈夫で寿命の長い機体として32年までに322機が生産され、38年までルフト・ハンザの定期航空路に就航した。<鈴木真二『飛行機物語』2012 ちくま学芸文庫 p.185>アメリカでの全金属製機体の開発 全金属製機体ユンカースF13は飛行機の新しい時代の象徴としてアメリカでも大きな反響を呼んだ。1920年にはUSエア・メイルが8機購入したほか、陸軍・海軍もまとまった機数を取り寄せた。それをみたスタウトという人物がアメリカでの全金属製機体の飛行機製造に着手し、デトロイトに会社を設立してヘンリー=フォードの出資を仰いだ。1925年7月にスタウト金属航空機会社はフォード自動車の1部門となった。フォードはすでに第一次世界大戦中に飛行機の大量生産を計画していたが、木製の機体では大量生産に向かず、飛行機も金属で作らねばならないという信念を持つに至っていた。
オランダのフォッカー 一方、オランダ人のフォッカーは大戦中に戦闘機をドイツに提供していたが、戦後は民間輸送機の製造にのりだし、1920年からFシリーズといわれる、胴体は鋼管溶接の骨組みに羽布を張ったものだが、400馬力のエンジンを搭載して長距離旅客機用に特化し、オランダの航空会社KLMに採用された。フォッカー機はイギリスのデハビランドやフランスのファルマンよりも航続距離が長いので長距離旅客機としての地位を築いた。そのフォッカーがアメリカ市場進出をねらい、1925年に木製羽布張りの主翼をもつフォッカー・トライモータ(乗員2名、乗客8人)を製作、秋に開催された「フォード信頼性運航競技会」で1等となり、その後も数々の長距離飛行記録をうち立てた。1926年のバードによる北極点飛行もフォッカー機が用いられた。バードは大西洋横断競争でもリンドバーグと競ったが、その栄光は1927年5月21日にパリに到着したリンドバーグのものとなった。
フォードの貢献 フォードもフォッカーの成功に刺激され、スタウトと分かれて独自に設計技師を雇い、1926年にフォード・トライモータという胴体にジェラルミンの波板を張った(そのため「ブリキのガチョウ」というあだ名がついた)を製作、徐々に改良を重ねて大型化させ、1920年代後半から30年代のアメリカを代表する輸送機に成長した。フォードは航空事業を展開するためにインフラの整備にも投資し、アメリカで最初のコンクリートの滑走路をつくり、管制塔とターミナルビル、ホテルも建設した。また、自社の機体の購入者のためにパイロット学校を開設、航空輸送の安全性向上にも寄与した。
アメリカの航空事業
アメリカは鉄道網が整備されていたこともあって、ヨーロッパに比べれば航空輸送網の整備は遅れていた。ヨーロッパ各国では政府が国の威信をかけて商業航空を保護育成していたが、自由競争の国アメリカでは、航空輸送事業に政府の補助は期待できなかった。政府事業であった郵便輸送からアメリカの航空輸送が発達したのはそのためだった。1918年のニューヨーク・ワシントン間の郵便輸送から始まり、20年にはニューヨークからサンフランシスコまでの大陸横断空路も開設された。郵政省の事業は着々と拡大され、24年には夜間に光を放つ照明標識が空路に整備された。25年には航空郵便輸送に民間も参画することが決められたが、それはローカルな支線に限られた。フォードも参加した民間輸送会社はしだいに旅客輸送も行うようになり、それぞれ事業を拡大していったが、大小乱立した航空輸送業者は、政府の方針もあって1929年までにはウェスタン航空、トランスワールド航空(TWA)、ユナイテッド航空、アメリカン航空のビッグ4に統合されていった。世界恐慌の嵐 しかし、1929年10月24日にニューヨーク株式市場の大暴落から始まった世界恐慌は、アメリカの航空業界にも打撃を与えた。フォード社は本業の自動車も販売台数が落ちこんだが、特に旅客機製造部門は不況の直接的な打撃を受け、フォード・トライモータは1929年には86台の販売機数だったものが、30年には26機、31年に21機に落ちこんだ。そのため、フォードは後に航空事業からは撤退する。
モノコック構造 1930年代のアメリカの航空機製造で主役となったのは、ボーイング社のB247やダグラス社のDC-3など、いずれも金属製機体をモノコック構造にしたものだった。モノコック構造とは一体式の「まゆ」ににた流線型の胴体をもつもので、はじめは木型で作られ、大戦中にツェッペリンの設計に加わったドイツのロールバックが戦後に、セミモノコックで全金属4発機スターケンE4/20を18人乗りの旅客機として制作した。しかし連合国はそれを爆撃機と見なし、1922年11月に破壊命令を出した。ドイツはヴェルサイユ条約で空軍をもつことは禁止されていたからである。
ロッキード社 モノコック構造の本格的な成功はアランとマルコムのロッキード兄弟が、名設計者ノースロップを得て製作したヴェガであった。ヴェガは木製モノコック構造であったが、時速217キロの高速性能を持つ傑作機となり、1931年のワイリー=ポストによる世界一周飛行、32年のアメリア=エアハートによる女性単独大西洋横断飛行などはヴェガで成功した。ロッキード社は世界恐慌で倒産したが32年に再建され、ロッキード・エア・コーポレーションとして成長する。フォッカー社は1931年3月31日、F10A型機が墜落事故を起こし、有名なフットボールの選手など乗客が全員死亡する事件が起き、その原因が主翼が木製でその強度不足とされた。この事故がきっかけでフォッカー社はアメリカから撤退、そして航空機の機体は全面的に金属機体に変更されることとなった。
ボーイング社 金属製機体のモノコック構造を一手にやっていたのがボーイング社だった。創業者ウィリアム=ボーイングはシアトルで木材事業に成功し1916年から水上飛行機の製造を開始、自社の機体を用いた航空郵便輸送にも進出し、19年シアトル-ヴァンクーヴァー間の国際郵便輸送を開始した。1927年には安い入札価格でサンフランシスコ-シカゴ間の航空郵便輸送権を手に入れ、それに自社製のボーイング40Aを導入、それはそれまでの水冷エンジンに代えて空冷エンジンを取りつけて軽量化に成功し、事業の成功にも繋がった。さらに1928年、ボーイングは陸軍から金属製戦闘機を受注し、そこから金属製機体の設計の経験を重ね、戦闘機、輸送機、爆撃機をライバル社のマーチン社と競った。1933年、完成形である双発の金属製旅客機B247を発表、それは速度を早く、収容力があり、なによりも安全な金属製機体を実現し、初めて引き込み脚などをそなえていた。
ダグラス社 ダグラス社の創始者ドナルド=ウィルズ=ダグラスは1908年のライト兄弟の公開飛行を目撃して飛行機造りを志し、マサチューセッツ工科大学などで学んだ後、20年に独立して自分の会社を興した。もともと陸軍と関係が強く、軍用機を製造して陸軍に納めていたが、1931年のフォッカーの墜落事故をきっかけに全金属製機体への転換が求められたとき、先行していたボーイング社だけでは製造が間に合わないことから、大手航空会社TWAがダグラス社に新型旅客機の開発を打診してきた。ダグラス社はその頃、ロッキード社を離れた著名な設計者ノースロップ社を傘下に収めていたので、金属製機体の新型機の製作に乗り出し、1933年にその1号機DC-1を製造した。それはボーイングB247とさまざまな点で競争となった。DC-2での改良を経て1935年に出したDC-3は、エンジンの強化によって大型化を可能にし、乗客数を14名から21名に増やすことに成功、その性能と快適な乗り心地は瞬く間に世界を制覇し、アメリカの国内線の95%を占有するまでになった。結局DC-3は民間機としては803機、軍用機としては1万機以上が製造されるという、伝説の機体となった。
アルミニウムの不足 第二次世界大戦では各国とも空軍の強化に努めたが、主流は全金属製の機体を持つ戦闘機・爆撃機となったため、ジェラルミンの需要が急速に高まった。その原料となるアルミニウムは生産力の差が大きく、特にイギリスにはアルミニウム工場がなく、1938年にはその製造量はドイツの15%でしかなかった。そのため、イギリスのデハビランド社は木製航空機を復活させ、合板で高速爆撃機を製造した。飛行機が戦争の中で重要な位置を占めるようになったことで、アルミニウムが重要な資源として争奪の対象となるようになった。
ジェット機の開発
ジェットエンジンの開発は、第二次世界大戦前の1930年代からイギリスのフランク=ホイットル(1907-96)、ドイツのハンス=フォン=オハイン(1911-98)によって、ほぼ同時であるが全く別個に進められていた。イギリス ホイットルは自動車工場の職工を父にして生まれ、飛行機に興味をもって空軍幼年学校に入り、さらに空軍士官学校に進んだ。そこでプロペラ機では高速飛行に限界があることを知り、新たなエンジンとしてジェット推進の可能性に着目するようになった。1930年から海軍のパイロットとなり、より高度な研究が必要と感じて志願してケンブリッジ大学に国内留学し、卒業後、36年にエンジンを開発する会社をエジンバラに設立した。1937年、世界初のジェットエンジンを完成させ、地上実験に漕ぎ着けた。4月12日に最初の運転を行ったところ、回転数はグングン上がり続け、燃焼室のケースが真っ赤になってしまった。2回目の運転では排気口から火を噴き、エンジン全体が炎に包まれた。見ていた人びとは慌てて逃げ出し、ホイットルも青ざめたが、この暴走の原因は燃料室に残った燃料が燃え続けたことであることがわかった。こうしてジェットエンジンが作動することが実証されたが、イギリス空軍は慎重で実際に戦闘機用のエンジンに取りつけようとはしなかった。
ドイツ ドイツのオハインはゲッチンゲン大学で物理学の博士号を取り、タービンによるジェットエンジンの研究に着手していた。ハインケル社の協力で1937年にその試作運転に成功した。イギリスのホイットルには支援がなかったのとは違いがあった。ハインケル社はオハインの開発したジェットエンジンを搭載した飛行機を作り、39年8月27日には試作機が初飛行に成功した。その成功の数日後の9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まった。イギリスもドイツがジェット機の開発に成功した情報を得て、開発を急いだ。
バトル・オブ・ブリテン 1940年、ドイツ空軍のロンドン空爆「バトル・オブ・ブリテン」が始まるとイギリスも、41年5月15日、ホイットルが開発したジェット機の飛行実験に成功したことをうけ、ジェットエンジンの量産を開始した。ホイットルの開発したジェットエンジンは、アメリカでもそのライセンス生産をGEが買い取り、生産を開始した。しかし、ドイツが最初にジェット機を実用化したのは1942年7月、ユンカースのエンジンを搭載したメッサーシュミットMe262であった。ハインケル社が非ナチスであったため冷遇されたともいわれている。一方イギリスでは43年3月、ホイットルの開発してロールスロイスが製造したエンジンを搭載したグロスター社のミーティア(流星)が初飛行、44年には実戦に配備された。44年夏のドイツのV1ミサイルによるロンドン攻撃では、イギリス空軍のジェット機ミーティアが迎撃し、撃墜している。
第二次世界大戦後、ジェットエンジンの開発に貢献したイギリスのホイットルとドイツのオハインはともにアメリカに移住し、アメリカの航空業界に貢献、1991年、二人は工学のノーベル賞ともいうべきアメリカ工学会のドレーバー賞を揃って受賞した。
日本 日本軍は、戦争末期にドイツから資料を送ってもらいジェットエンジンを開発しようとした。しかしドイツからの資料を運ぶ潜水艦がシンガポールを出たところで消息不明となり、日本に届かなかった。唯一シンガポールから航空便で届いた1枚の断面図だけを頼りに日本軍の技術者はジェットエンジン「ネ20」を完成させ、それを搭載した初のジェット機「橘花」が木更津飛行場で初飛行に成功したのは45年8月7日であった。この時は燃料もなく、松の根を乾留して得た松根油を使用した。
ジェット旅客機の登場
イギリスのデハビランド社はジェットエンジンによる旅客機での、高速で収容力の高い機体の開発を進め、何度かの事故や失敗を経ながら、1949年7月27日、ハットフィールド飛行場でコメット1号機の初飛行に成功した。52年に就航したが、その後連続墜落事故を起こし、苦境に立たされることとなった。コメット機の事故の原因は機体の金属疲労である疑いが強まり、新たな材料の開発という課題が生じ、代わって1957年12月に登場したボーイングB707が、安全性と収容力で評価され、より多くの路線で就航するようになり、大量ジェット輸送時代の主役になった。