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アーヤーン

オスマン帝国領内の地方名士。徴税請負権と独自の武力を持ち、帝国の支配を支えていたが、18世紀以降は地域の独立政権となっていった。

 アーヤーンとはオスマン帝国における地方名望家のことで、在地の権力者として租税徴収、治安維持、国境での密輸入の監視、物価の安定などにもあたっていた。「中央に対して地方王朝(ハーネダーン)ともいうべき自立の天地を作り上げて、官職と徴税請負権(イルティザーム)をも独占していた。」彼らは穀物、織物、綿花、絹、タバコといった新しい産物をヨーロッパ市場に輸出しながら富を蓄えていった。その結果、オスマン帝国の地方分権化が進み、一体としての軍事力が低下して、オスマン帝国の危機をもたらすこととなった。

アーヤーンが成長した背景

 オスマン帝国で、18世紀にアーヤーン層が成長した背景には、新しい産物のヨーロッパへの輸出が増えたことと、イエニチェリ、シパーヒーの弱体化に伴って彼らがオスマン帝国に軍役を提供するようになったことがあげられる。
(引用)オスマン帝国の発展の原動力であった常備歩兵軍団のイェニチェリも、18世紀には縁故によって入り込んだ没落農民や商工民などの雑多な混成部隊になりさがっていた。また、スィパーヒー(騎兵軍団)への授与地(ティマール)の多くが、出征する意欲も能力もない宮廷の文官や、高級官僚の家来にわたり、軍役を提供できない状態になっていた。そこで、ロシアなど外敵との戦いに際して頼りになったのは、アーヤーンであった。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 p.83-84>
 そのようなアーヤーンの例として有名なのは、北ギリシアから南アルバニア一円を押さえていたアペデレンリ=アリー=パシャで、現在のギリシアのヨアンニナ(ヤニナ)に割拠し、その豪奢な生活ぶりは「ヨアンニナの獅子」としてヨーロッパにも知られた。1822年、オスマン帝国は強大化したアペデレンリを討伐したが、そのためかえって彼に押さえられていたギリシア人やセルビア人の独立運動を起こせるようになった。<以上、山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20による>

シリア地方のアーヤーン

 オスマン帝国の領土であったシリアの平原部のダマスクス、アレッポ、ベイルートなどの大都市でもアーヤーンは地方名望家(地域の有力者)として存在した。彼らは19世紀には都市の後背地である農村を支配し、徴税請負権を持ち、都市の行政的・商業的機能を担うようになった。彼らの台頭で地方分権体制はさらに強められオスマン帝国の危機がひろがったが、彼らの支配権はタンジマートによる地方行政制度の再編成によって動揺し、伝統的名望家は中央権力と結びついた新たな名望家に取って代わられていった。<鈴木董『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』1993 講談社現代新書 p.92,94>
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書籍案内

坂本勉・鈴木董編
『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』
1993 講談社現代新書

山内昌之
『近代イスラームの挑戦』
世界の歴史 20
1991 中央公論社